龍の王〜Lord of Bahamut 〜第一巻
朝比奈歩
プロローグ
ーーーこの物語は、後世でシンドバードと呼ばれ語り継がれてゆく者の、若かりし頃の冒険譚であるーーー
その日最初の暮鼓※1が鳴ってから、既に二刻はたったであろうか。
もう何度目かになるその行為に、布はしっとりと湿っている。
あるいは、興奮から体温が上がっているのかもしれない。
李喬は心を落ち着けるように一つ呼吸をすると、薄闇に目を凝らす。
視線の先には、うっすらと蝋燭の灯りに照らされた絵が掛かっていた。
物悲しい表情をありありと描いた男女の絵に、思わず何度目かのため息が漏れる。
李喬はしばらくその絵を眺めた後、ふふん、とその顔に小さく笑いを浮かべた。
どのような怪異が起ころうとも、この李喬を驚かすことなどできるか。
そういう自負がある。
李喬は
仲間内からも、その腕っ節の強さと豪胆さは認められていた。
だから、この絵をもらってきたのだ。
夜な夜な怪異を起こすというこの絵。
李喬の仲間のうちの一人が好奇心からこの絵を手に入れ、その日の夜に怪異に遭い、恐ろしさのあまり捨てようとした。
それを、李喬は貰い受けたのである。
この怪異を肴に一杯やろうと、侍女に用意させた酒は既に何本かが開けられ、瑠璃の杯は乾き始めていた。
何杯飲んでも興奮が勝ち、李喬は酔えなかった。
しかし、怪異をこの目でしかと見届けるためにはその方が都合が良い。
怪異を見届けても、酔うていたと言われては堪らない。
李喬は立ち上がり、再びかかっている絵をしげしげと見つめる。
ーーー泣き声まで聞こえてきそうだ。
李喬がそう思った矢先、不意に背にひんやりと何かが伝うのを感じる。
ぽたり
冷たいそれは李喬の背筋を直接撫で、つと腰まで下がった。
ぱたり
ぽたり
李喬は、強張った首をどうにか動かして、ぎこちなく背後を見る。
ぱたり
今度は生暖かい何かが、李喬の頬に落ちた。
「ーーーヒッ!」
その頬を流れる生暖かい何かに手をやり、ぬめりと滑ったそれ恐る恐る視線をやる。
手に、ベッタリとついていたのは、まごう事なき鮮血だった。
「くっ…!!」
李喬は己の恐る心を無理矢理押さえ込むと、引けていた腰に力を入れる。
こんな所で怯えていては、仲間たちに笑われてしまう。
いつのまにか消えている蝋燭の灯りに、李喬は目を細め手探りで刀を掴んだ。
刹那。
李喬の目に飛び込んできたのは、絵にかかっていた男女の姿。
その目からは、涙。
その口からは、血が滴っている。
そんな男女が、音もなく、李喬の前に立ちはだかっていた。
「う、うわああああああ!!!」
少し遅れて、己の絶叫が耳に届く。
しかし、刀を抜く間も無く、そこで李喬の意識は完全に途切れた。
※1……日が暮れる時になる太鼓の音。これが鳴り終わるまでにいずれかの房内に入らねばならない。
※2…… 宮城の警備、巡察機構の役人
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