骨が折れてからが第一歩

「お大事に。右手、使ったら駄目だよ」


「すみません。ありがとうございました」


 頭を下げつつ診察室を出た圭介は、引き戸を閉めるなり真っ白な右手を見下ろしてため息を吐いた。中指と薬指と小指、その三指が金属プレートに包まれ、分厚く包帯が巻かれている。露出しているのは人差し指の先と親指だけだ。


 廊下に出たらすぐさま「お疲れさま」と声があり――腕を抱いた花村瑞姫が白い壁に寄りかかっていた。私服である。半袖Tシャツに七分丈の細身パンツを合わせた、いかにも活動的な彼女らしい格好。足元は厚底のウェッジソールサンダルだ。


 負傷した右手を胸の高さで縮こめつつ頭を下げた圭介。水色の患者衣姿なのは、雨に濡れた服の代わりがこれしかなかったからだ。


「その……本当すみませんでした。いきなり電話しちゃって。車まで、出してもらって」

「かわいい後輩の一大事だもの。助けになれて良かったわ」


 花村総合病院。四百五十もの病床を有し、内科から産婦人科まで地域の医療を一手に担う大病院。花村瑞姫の曾祖父が興し、世界有数の外科医であった祖父がその地位を確固たるものとした災害拠点病院である。瑞姫の父と母もこの病院で医者として働いている。


 外来患者のいない日曜日夕方。


 広い広い一階フロアは平日とは違う静けさに満ち溢れ。

「……だから言ったでしょうに。藤ノ井舞魚はダメだって」

 瑞姫の小さなため息すらもが廊下のあちこちに反響して、ひどく大きく聞こえるのだった。


「圭介が悪いわけじゃない。多分、あの子は誰相手だってダメなのよ。そういう子」


 実のところ、圭介は瑞姫にほとんど何も伝えていない。彼が電話口で口にしたのは――右手が折れちゃったみたいで。助けてくれませんか――そして竹津神社の場所だ。


 とはいえ、運転手付きの黒塗りベンツで神社に駆け付けた瑞姫は、土砂降りの中で一人立つ圭介を見てすべてを理解したらしい。事の次第を根掘り葉掘り聞くようなことはしなかった。


 圭介の包帯まみれの右手を見つめつつ、「結構ひどい骨折? 橋本先生はなんて言ってた?」手近な待合椅子を指差す。


「薬指と小指が脱臼で、中指が綺麗に折れてるって。全治一ヶ月らしいです」

 圭介がそう言いつつ待合椅子の端に腰掛けると、「重傷」と笑ってその隣に座った。


「橋本先生が当直で良かったわ。あの人、お父さんの次に整復上手いから」


 すると圭介は座ったままで――突き技の真似事――包帯に包まれた右手を前に突き出してみるのである。

「麻酔打ってもらったせいか、あんまり痛みはないんですが」


 医者の治療を無下にするような行為。ジト目の瑞姫がそれをいさめた。


「覚悟しとくことね。薬が切れたら手を切り落としたくなるだろうから。いくら圭介が痛いのに慣れっこっても、四六時中の鈍痛はこたえると思うわよ」

「……痛み止めもらえますかね?」

「頓服は出るわ」

「そうですか。でも痛い方が良いし、薬がいらないこと伝えておかないと。あの――瑞姫さん。こういうのって、看護師さんにお願いすればいいですか?」


 その質問から数秒が経ち――不意に会話が途切れる。

「?」

 沈黙を疑問に思った圭介が視線を横に振ってみると、眉をひそめて険しい顔の瑞姫と目が合った。『痛い方が良い』と口走った圭介に何か言いたげに、唇をわなわなさせている。


 圭介は、そりゃあそうだよなと思い。

「なんというか……色々、反省すべきと思いまして」

 瑞姫から目を離して、申し訳なさそうな苦笑を浮かべるのだった。


 直後――圭介の頬に鋭い痛みが走る。

「アッホらし! 反省したいから痛い方が都合が良いって!?」

 気付けば、眉をつり上げた瑞姫に頬をつねられているではないか。力いっぱいに突き立てられた爪が圭介の皮膚に食い込み、今にも血が滲みそうだ。


「圭介だけが無駄に痛い思いをして、誰が誰が許してくれるって言うのよっ? そんなのただの自己満。意味のないナルシシズムでしかないわ!」


 瑞姫はそのまま立ち上がり、更なる力を指先に込めようとする。頬の肉をねじ切ろうとする。圭介のさっきの発言、それを――藤ノ井舞魚の期待に応えられなかった罰を受けたい――と解釈し、どこまでも後ろ向きな後輩を許すことができなかったのだ。


「違います違います!」


 圭介がそう否定しても「な・に・がっ、違うってのよ!」聞く耳を持つわけがない。瑞姫は花村総合病院の跡取り娘なのだ。痛みを尊び自ら破滅に向かおうとする人間、回復を拒絶する人間、そういった類いのネガティブな言動がひどく癪に障るのである。


 とはいえ。

「痛みだって感覚です! 感覚を薬で鈍らせたら空手の稽古に支障が出ますから! それなら普通に痛い方がまだマシだろうって!」

 圭介は自虐的なことを思ってあんなことを言ったわけではなかった。誤解を解きたかった。


「はぁあ?」


 おそらく『空手の稽古』という言葉が気になったのだろう。瑞姫の指先から力が抜ける。

 圭介は爪の痕が残った頬を左手でさすりながら安堵のため息。自嘲しながら言った。


「正直なところ、どうにかなると思ってたんです」

「何がよ?」

「藤ノ井さんの闘い癖のことです。そうは言っても藤ノ井さん優しいし、そもそも普通に常識人だし。告白の時に襲ってきたのも、僕の本気を確かめたかっただけで――なんだかんだ、マジでやり合うことはないだろうって」

「……恋人を選ぶ時、相手の手を潰そうとすんのを『常識人』とは言わないけど」

「ははは――でも本当、色々気を遣ってくれたんですよ? 週末はちゃんと会ってくれて、秘密にしてた学校の中でだってサイン送ってくれたりして」

「圭介は楽しかったわけ?」

「死ぬほど」

「まあ、だいぶ浮かれているようには見えたわね。雄吾の奴も、圭介の空手がぬるくなったって不満そうだったもの」

「それは謝ります。片桐さんとの組手で怪我したら週末に響くから、受け主体にはなってたかもしれません。イチかバチかで突っ込むのとか、やりませんでしたし」


 そして圭介は、不意に瑞姫から視線を外し、「……でも多分、楽しかったのは僕一人なんですよ。藤ノ井さんは――なんというか……『今日』のために僕の機嫌を取ってただけで……」と膝の上で左拳を強く握った。ほこり一つないアイボリー色の床を見る。


 沈黙は十秒間だ。


「……ちゃんと殴るべきだったんでしょうね……僕は。藤ノ井さんを」

「そこまでは知らないけど」

「……少なくとも、拳を弛めるべきじゃあなかった。あんなに強い人が、あんなにちゃんと仕掛けてきてくれたんだから。……舐めプなんてできる立場かよ」


 立ち上がったままの瑞姫は、トップモデルみたく片手を腰に当てて、圭介のつむじを静かに見下ろしている。それはどこか、ひざまずいた罪人の前に降り立った天使のようでもあり。


「藤ノ井さんを失望させただけじゃない。僕は、僕の空手にも、また泥を塗った」

 圭介はそう呟くなり、瑞姫を見上げてかすかに笑った。


「今さらですけど、ちゃんとしたいんです」


 瑞姫が存外優しい顔をしていたので、思わず本音が漏れてしまったのかもしれない。


 しかし瑞姫にはその言葉の真意がわからない。唇は動かさず、ほんのわずか首を傾けた。


 圭介は、目を逸らすことも、まばたきをすることもなく短く言った。

「しばらく一人で空手して――それで、どうするか考えます」


 それにはさすがにこう問いかけざるを得ない瑞姫。

「どうするって。圭介あなた、いったい何を考えるつもり?」


 とはいえ、すぐさま返ってきた「殺すか。諦めるか、です」という言葉に驚き、数秒間絶句するしかなかった。

 やがて生唾で喉をうるおし、「殺すって圭介、どういう――」無理矢理言葉をひり出した。


 一方の圭介は、迷いこそいまだ残るものの、どこか達観したような穏やかな顔をしていて。

「藤ノ井さんと向き合うってのは、多分そういうことです。僕に求められてるのは、男らしい彼氏でも、安心してじゃれ合える遊び相手でもない」

 瑞姫よりもだいぶ早く、廊下に現れたダークスーツの男へと視線を送るのだ。


「いやはや。殺すとは、ずいぶん恐ろしいことをお話になっていらっしゃる」


 黒髪のオールバック、レンズにうっすら青い色が入った銀縁メガネ、少し痩せた頬、細い顎。


 年齢不詳の長身である。片桐雄吾ほどではないにしろ、百八十五センチには届くだろう。長い手足をオーダーメイドの高級スーツで包み、まるでハリウッド俳優のような印象だった。


 圭介は初対面となる優男。「津賀沼さん」と名前を口走ったのは瑞姫の方だ。


 津賀沼は銀縁メガネを外して胸ポケットに引っかけると、小さく会釈して優しく微笑んだ。

「失礼。お二人の話が一息つくまで待つつもりだったのですが。次の予定があったもので」


 瑞姫が何気なく言う。

「会長さんのお見舞いですか? 師長から聞いてます。毎週大変ですね」

「いえ。ほとんど父親のようなものですから。それでですね、瑞姫お嬢さん。会長が、『時間があれば病室に顔を見せて欲しい』と」

「あたしに?」

「お菓子があるのでお裾分けしたいそうで。まあ、本心は、久しぶりにお顔を見たいのだと」

「そっか。確かに最近ちょっとご無沙汰でしたね――わかりました。夕食の配膳までには上がります」

「申し訳ありません。長々お引き留めしないようには強く言ってありますので」


 瑞姫と津賀沼の会話はそれだけ。


「お邪魔をいたしました。それでは私はこれで」

 深々とお辞儀した津賀沼は、最初から最後まで礼儀正しく振る舞って、さっさと廊下を歩いていってしまった。


 やがてダークスーツの後ろ姿が廊下の向こうに消えて。

「……知ってる? あの人、だいぶ怖い人だから。圭介はあんまり関わらないようにね」

 瑞姫がそんなことをぽつりと言う。


 キョトンとした圭介。


「ただ者じゃないとは思いましたけど。瑞姫さんは大丈夫なんですか?」

「あたしはほら、子供の頃からここが遊び場だったから。色んな人に孫扱いで可愛がられてるわけよ。それこそテレビで見る政治家さんから、ヤクザの大親分まで」

「さすが、コミュ力おばけ」

「馬鹿にしてる?」

「そんな。僕にはとてもできない芸当ですから」


 それから二人してクスクス笑い、「あたしはまだ医者じゃないから空手の稽古は止めないけど。それでどっか骨折し直しても、次は助けないわよ」そんな瑞姫に圭介は言うのだった。


「なんかすっげぇ腹減りました。骨折った時って、無性にステーキ食いたくなりません?」


 藤ノ井舞魚を殺すとか、諦めるとか――物騒で難しい話は一時棚に上げることにしたらしい。

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