まだ別れていない

「あいつ今日も来てないじゃん」

「え?」

「月曜から見てないし、これで三日目? あいつだけ一足先に夏休み入ったとかないよね?」

「なんやのいきなり。もしかして本間くんのこと?」

「決まってる」


 待ちに待った夏休みもようやく見えてきた七月、その最初の水曜日。

 真夏の強い陽光が差し込む廊下を、二人の夏服女子高生が並んで歩いていた。


 藤ノ井舞魚と斎藤萌奈。


 二人が胸に抱えているのは化学の教科書と参考書で、今まさに理科室へと続く道順をゆっくり進んでいる。この調子ならば、一時限目開始のチャイムが鳴り響く直前、理科室のドアを開けることになるだろう。にぎやかな男子の一団がさっき二人を追い抜いていった。


「風邪? 季節外れのインフルエンザとか?」

「いや、知らんて。うちかて本間くんから聞いてへんもの――学校、休んどる理由」


 言葉を選ぶかのごとくほんの少しだけ言いよどんだ舞魚の声。


 すると、舞魚の腕に身体をぶつけてじゃれついた萌奈が、「え? マジ? それマジで言ってる?」途端に嬉しそうな声を上げるのだ。


「連絡取ってないって相当じゃん。あいつ何やらかしたの? もしかして、別れの危機?」


 舞魚は、身体全部でくっついてくる萌奈をうざったそうに押しのけつつ。

「やらかしたんはうちの方や。本間くんはなんも悪ぅない」

 数日前の行為を悔いるかのごとく下唇を軽く噛んだ。

 苛立たしげに、肩に掛かっていた自身の黒髪を指先ではねのける。


「本間くんやったら全部受け止めてくれはるんちゃうやろか思て。勝手なわがままを通そうとしただけ」


 そして。

「向こうの気持ちやら一切考えんとね」

 そう呟きながら、まるでここにいない誰かに許しを求めるかのような顔を一瞬浮かべる。


 とはいえ、今にも泣き出しそうな頼りない苦笑は、すぐさま自嘲の表情へと変わっていった。


「ほんで、勢いで本間くん突き放してしもたから……なんや、連絡しづろぅて」


 不意に――光溢れる窓の外を眺めて小さくうなずいた。

「そやね……今日で、三日目やしね……」


 ガラス窓の向こうに見えるのは、すでに閉め切られてしまった校門だ。人影はない。


「……あの日大雨やったし……風邪ひいてへんかったらええんやけど……」


「むか」

 舞魚の呟きに反応した萌奈。もう一度舞魚に身体をぶつけ、不服そうに鼻を鳴らした。


「ムカつくなぁ。舞魚、あんなのに未練があるの?」

「まだ別れてへん」

「でも、間際じゃん。今の話聞くかぎり」

「……………………」

「わけわかんない。本間だよ? わかってる? 本間。去年も一緒のクラスで、一年ずっとダメダメで――なんであんなのと付き合ったわけ? 知ってるじゃんあいつのこと」


 ひどい言葉。舞魚はすぐさま苦笑まじりに反論した。


「萌奈とは見とるとこが違うんよ。男の子の好みいうか。本間くん、萌奈が思っとるよりずっとええ人やって。そら、引っ込み思案なとこあるかもしれへんけど。あんな頑張り屋さん、そうはおらへん」

「ただのオタクでしょ」

「今の男の子、みんなそんな感じやろ」

「根暗だし」

「普通に話しかけたら、結構よう話さはるよ? 面白いこともポンポン言わはるし。ほんまに根暗やったら、可愛い妹はんにあんな好かれてへんて」

「顔も地味すぎ」

「そやろか? それこそ好みの問題やん。うちは本間くん、ええ思うし」


 考えなくそこまで言って、咄嗟、視線を回した舞魚。クラスメイトだっているかもしれない往来で口にする話題じゃないと思ったのだ。


 しかし――ちょうど周りには誰もいない。どこかに隠れて耳をそばだてている人間も、おそらくいないだろう。だから舞魚は、もう少しだけ、恋話に興じることにしたらしい。

 萌奈の言葉を遮ることはしなかった。


「舞魚にはもっと良い人がいると思うけど。例えば、えっと、三組の吉田とか」

「テニス部のイケメンにうちは無理」

「じゃあ柔道部? でもデブとガリとチビしかいなかったはずだし。そんなこと言ってたら、三年のあの怖い人――片桐先輩しかいなくない? 彼女持ちだけど」

「どうやろか。なんやうち、あの人とは合わん気がするんよ」

「めんどくさぁ」

「そらそうやわ。うちかて我ながら思うもん。なんでこんな風に生まれついてしもたんやて」

「でもさ、でもさっ。男ってオラオラしてんのも多いからさ、舞魚に合う人だってどっかにいんじゃない? あたしは趣味じゃないけど、ヤンキー系で探してみるとか」


 すると、舞魚がいきなり「あっはは」と乾いた笑いを上げる。

 小さく頭を振って萌奈の提案を否定した。


「ちゃうって。前にも萌奈に言うたことあるけど、うちが好みなんはそういうタイプやない」


 わざわざ隣を向いて萌奈を見ると、母親が赤子に言い聞かせるような穏やかな口調で言う。

「ちゃんとうちの性質と向き合うてくれる人よ」


 その優しさに惹かれて萌奈も舞魚を見上げた。


「虎は虎として受け止めてくれはる人」


 それで二人は視線を合わせることになり――同じタイミングでまばたきを一つ。先に視線を逸らしたのは舞魚の方だった。相変わらず遅い歩調で廊下を歩き続ける。


「気分で彼女ぶつような男にそんなんできる思う? うちはぶたられたら喜んでぶち返したるえ? 自分より強うて、普通に殺しにくる彼女やら手に負えへんやろ」


 それから幾らかの沈黙があって、やがて萌奈がいぶかしむような声で問うた。

「本間ならそれができたわけ?」


 舞魚の方も唇を止めて一時の思考。静かな声で答える。

「もしかしたら思うた。本間くん真面目やし――鼻血出るほど考えて、納得してくれはったら、ワンチャンあるかもって」


 すぐさま萌奈が「本間だよ?」と、嫌そうな顔をつくった。


 対する舞魚は柔らかい苦笑だ。

「本間くんやからね」


「買いかぶりすぎじゃない?」

「どうやろ。割とええ線いってた思うけど。ただ……少しだけ、常識的すぎたんかもしれへんね」


 舞魚の言葉に首を傾げた萌奈。


 舞魚は小さなため息を吐きつつ、「自分は男やから女の人は叩かへん。そういうとこ、しっかりしてはったんやと思う」と、理科室へと続く校舎二階の渡り廊下を渡り始める。すぐさま渡り廊下の向こうから歩いてくる百九十センチオーバーの大男へと目を移した。


 案の定の片桐雄吾。見間違えるわけがない。


 半袖シャツから伸びる日焼けした両腕も、襟元ボタンが留められない首も、ズボンの上に筋肉の影が浮き出る脚も、何もかもが長く、太く、はち切れんばかりに膨らんでいる。

 唯一、細いと言えばベルトできつめに締められた胴体ぐらい。とはいえ、それも、胸と背中が広がりすぎて相対的に、というだけだが。


「……やば……」

 萌奈が小さくそんなことを呟き、しかし舞魚にはその言葉の意味がわからなかった。


 普通に擦れ違い――擦れ違う瞬間、「おはようございます」と普通に小さく会釈する。


 雄吾は何も反応しなかった。圭介の怪我のことは花村瑞姫から聞いているだろうが、彼を痛めつけた少女を問い質すどころか一瞥もしない。間違いなく意図的に無関心を貫いた。


 何事もなく擦れ違った二十数秒後……雄吾の姿が廊下の向こうに消えたのを確認して、「ふへぇ~~」萌奈がそんな鳴き声を上げながら一息つく。


「大げさやねぇ。いきなり襲われるわけやなし」

「いやっ、めっちゃ怖いから! 絶対何人か殺してる! そういう目!」


 恐ろしい先輩を無事にやり過ごした安心感からか、顔を合わせて笑い出した二人。

 とはいえ――萌奈が笑いながら「それはそうとさ舞魚。今度の日曜、合コン行かない? 行くよね?」なんて言うものだから。

「えぇ?」

 舞魚の笑い声だけが一足先に止まるのである。怪訝な顔で説明の言葉を待った。


「塾で仲良しの子がいるんだけどね、知り合いの大学生に女の子集めるよう頼まれてんだって。その子、あたしが舞魚の親友ってのも知っててさぁ。そんで、もし舞魚が出てくれるんなら、相手も格好いいメンツ揃えるからって」


 すると舞魚はあからさまに嫌そうな顔をして。

「えぇぇ……絶対嫌やわ。うちがそういうん興味あらへんて、萌奈知っとるやないの」

 見えてきた理科室へと足を速めるのだ。


 即座、萌奈が舞魚の腰にしがみついて声を上げた。

「出会い! 新しい出会いだって! 結局本間とは終わりそうなんでしょー!」

 しかし、「せやから! まだ終わってへんて!」萌奈程度の力と重量で舞魚を止められるわけがない。まるで戦艦に繋がれた小舟かのごとく、為す術もなく引きずられていった。


「おーねーがーいー! もし舞魚が都合付かなくてもあたし一人で出る言っちゃったのー! その場のノリでー!」

「そやったら一人で出たらええやない。楽しんどいで」


 もしも舞魚の足取りに介入できる可能性があるとしたら、それは「さぁーびーしーいー!!」彼女の優しさ・甘さに付け入ることのできる萌奈の懇願だけだろう。


 やがて、理科室に入る直前、舞魚の足が止まった。諦めたような大きな大きなため息を一つ。


 ここんとこ休みはずっと本間くんと一緒やったし、萌奈も寂しかったんかな――そう思った舞魚は、心からの面倒くささに顔を歪めながらも、こう言ってやるのである。


「わかった、わかったて。そやったら、うちは、萌奈の保護者役ね。萌奈、下手したらまた変なロリコン趣味に絡まれそうやし。今回だけは付いてったげるわ」


 直後、萌奈の顔にぱあっと満開の花が咲いた。


「マジ!? やった!!」

「ほんま興味あらへんし、割と塩対応になるかもしれへんけど。それで文句あらへんね?」

「全然いい! あたし、舞魚がいてくれるだけで無敵だもん!」

「……ほんまにもう……」


 苦笑とも困惑とも安堵とも取れない、なんとも微妙な表情の舞魚。


 しょうがないことや。萌奈一人やと心配やし――そう思って無理矢理自分を納得させながらも、圭介への罪悪感に胸の奥がズキンと痛んだ。

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