空手家の初恋

 空手の道に女はいらぬ。

 そう固く信じていた時もあった。中学生の頃だ。


 あの頃の圭介は『学校でのちょっとしたゴタゴタ』もあって、『武の求道者』と化していたのである。


 人との付き合いを避け、朝も晩も空手の稽古ばかり。朝食前には二時間近く空手の型を練り、学校が終われば動けなくなるまで身体と技を鍛え上げた。ちょうどその頃、片桐雄吾がいる空手道場への出稽古も始まり、大人の黒帯相手に二十人組手をこなしたこともあった。


 常軌を逸した空手バカ。

 貴重な青春を古流空手なんぞに捧げる愚か者。


 毎日ボロボロになって帰る息子を心配した母親からは、空手なんかやめるよう説得を受けるのだが――歯牙にもかけない。今になって思えば、あれが圭介の反抗期だったのだろう。


「ふっ」

 五月の夕日が飛び散る汗に反射してキラキラ輝いた。


「――っ」

 固く握った拳が分厚い牛皮にめり込み、拳が離れると同時その周囲が大きく波立っていく。少しのロスもなく打撃の衝撃が走り抜けているのだ。


 殴る。

 本物のサンドバッグに正拳を打ち込む。


 一風変わった黒い空手着を纏った圭介の眼前にあるのは、高さ百七十センチに及ぶ本革のサンドバッグだ。大きなサンドバッグは、耐震・耐衝撃性を備えた分厚いコンクリート塀に立て掛けられ、その重量は実に六百キログラムに届こうとしていた。


 なにせ、中身は布切れやウレタンではない。本物の砂だ。粒の小さな砂がこれでもかと詰め込まれ、抜群の重さと安定感、そして堅さをもたらしているのだった。

 人間の力で容易く動かせる代物ではない。


「しぃ――っ」


 だからこそ圭介は、遠慮なく拳を放つし、本気で蹴り込むのである。


 砂袋を用いた部位鍛錬。


 か弱い人体を一撃必殺の武器とするための過酷な鍛錬だ。パンパンに張った砂袋の堅さは、コンクリートよりも多少柔らかい程度。素人が圭介の真似をしたならば、たった一発で反射的に拳を引っ込め、脛や足の甲を襲う激痛に絶句することになるだろう。


 本日サンドバッグを叩いた回数は、突き蹴り合わせて既に千五百回以上。


「ふっ」


 新興住宅地から距離を置いた古い町並みに建つ築十五年の木造二階建て――たいして広くもない土の庭が、本間圭介の稽古場だ。


 木刀、二メートル近い木の棒、砂利の詰まった甕、金属プレートが片側にしか付いていない変形ダンベル、一抱えもある岩。圭介が普段の稽古に使用する品々が無造作に転がっていた。


 ふと。

「ああっクソ――!」

 中段前蹴りを繰り出した圭介の口からそんな声が漏れる。


 脳内にフラッシュバックする『気恥ずかしい思い出』を消し去ろうとして、「あぁぁっ!!」全力の中段回し蹴りをサンドバッグに叩き込んだ。


 悶々としている。

 悶々としていて、いても立ってもいられなかったから――下校後、準備運動も無しにサンドバッグを叩き始めた。それからずっとサンドバッグを叩き続けている。


「だあっ。ほんと、かっこわりぃ」

 まったく隙間のない正拳五連撃。


「鼻血出してっ。保健室まで手ぇ引かれてっ。服まで洗ってもらって!」

 飛び込みの上段突きから下段回し蹴り、更に中段膝蹴りと続く。


 やがて。

「……なんで……もっと器用にできねえかな……」

 ポツリと呟きながらも、強烈すぎる下段回し蹴りでサンドバッグを揺るがした。


 ――初恋――


 ――ガチ恋―― 


 いくら『空手の道に女はいらぬ』なんて言い張ってきた空手バカといえども、自らの恋心に気付いていないわけがない。


 ――藤ノ井ふじのい舞魚まな―― 


 あの美少女のことを考えると、胸が締め付けられて仕方がなかった。


 学校の休み時間、彼女のことが話題に上がるとついつい聞き耳を立ててしまうし。

 ダメだダメだとはわかっていながらも、彼女の姿が視界に入ると無意識に目で追ってしまう日々が続いている。


 昨年の文化祭で『ミス芳凜高校』の栄冠に輝いた、学校一の美人。

 あんなに綺麗なのに愛嬌だって抜群のクラスのアイドル。


「……保健室でだって、もっと別に話すことあったろ……藤ノ井さんと話せる機会なんて、そうそうないのに……」


 圭介自身、とんでもない相手に恋してしまったことは自覚していた。どう考えたって、一番競争率の高い美少女だ。藤ノ井舞魚のことが好きな男子生徒など、学校には掃いて捨てるほどいるだろう。百人や二百人の話じゃないかもしれない。


 藤ノ井舞魚とは去年も同じクラスだった。

 だが別に、圭介は、一目見た時から舞魚に恋しているわけではない。めちゃくちゃ綺麗な人がいるなぁ……と思うくらいで、今みたく分不相応な恋心に身を焦がしてはいなかったのである。


 恋に落ちた瞬間は、一ヶ月ちょっと前。

 春休み明け、桜舞う始業式の朝だ。


 友人も少なく一人でいることが多い圭介にとって、クラス替えはそれほど緊張するイベントではなかった。

 どのクラスに入っても待ち受けている運命は大体同じ。男子の多くには侮られ、女子たちからは見向きもされない。冴えない男子高校生の寂しい一年が待っているはずだった。


 それなのに――恋を運ぶ春の風は、圭介を選んだ。


 クラス替え発表の喧噪が落ち着いた頃を見計らって、校門脇に設けられた特設掲示板の前に立った圭介。満開の桜を横目に、張り出された紙の上に自分の名前を探していると。


『本間くん』


 甘い声に呼ばれてぼんやり振り返る。その瞬間、一陣の風が吹き抜けた。


 そして――圭介が見てしまったもの。

 桜の花びら舞う中、長い髪を軽く耳元で押さえて立つ藤ノ井舞魚の姿。

 艶やかな黒髪の毛先が軽やかに踊り回り、ひるがえったスカートの端から真っ白な太ももが見えていた。


 それは、圭介が人生で初めて目にした――強烈な攻撃力を伴った美。


 まるで天上に座する美の女神が戯れに下界に降りてきたような、イタズラ好きな春の妖精が圭介を驚かせようと美少女の姿をとって現れたような……あまりにも幻想的な光景であった。


 目など離せるわけがない。

 声など上げられるわけがない。


 やがて舞魚は小首を傾げながら、固まっている圭介に優しい微笑みを一つ。


『また同じクラスですね。よろしくお願いします』

 それだけ言うと、校舎の方へ歩いて行ってしまった。


 圭介はと言えば……その場から動くこともできず、ただ呆然と舞魚の後ろ姿を見送っただけ。

 怖くなるぐらい心臓が高鳴っていた。

 足腰にまったく力が入らない。自分でも理解できない興奮と混乱に下半身の感覚を失い、その場にへたり込んでしまいそうだったのだ。


 圭介自身、その時の興奮と混乱が『初恋』だと気付いたのは、始業式の日から三日後。出稽古に行っているフルコンタクト空手の道場で、片桐雄吾と殴り合っている最中であった。


 雄吾の拳に腹を貫かれた瞬間――ああ、そうか。僕、藤ノ井さんのことが好きなんだな――と、妙に納得してしまった。腹の痛みよりもその事の方がよっぽど重大事項だった。


「――しぃっ!」

 足刀――足の小指側の側面――がサンドバッグに深々と突き刺さる。


 モヤモヤ解消も兼ねた部位鍛錬。圭介が足刀横蹴りを反復練習し始めた頃には、いいかげん太陽も落ちきり、見慣れた庭も紺色に染まっていた。


 ふと。

「兄ちゃん! ごはん!」

 なんて乱暴な呼びかけに気付いて、「――っと」蹴りを止める。


「……はあ、はあ……なんだ。恭子か」


 圭介の背後に立っていたのはセーラー服姿のショートカット女子。腰に両手を当てて仁王立ちしていた。足元は茶色のつっかけサンダルだ。


 今年中学三年生に上がった生意気な妹は、もちもち肌の幼い頬を思いっきり膨らませながら空手バカの兄に近寄っていく。


「お母さんすっごい怒ってるよ! 兄ちゃんがご飯に来ないから片付けられないって!」


 ハムスターみたいな可愛さのある少女だ。大きな目と太い眉、丸めの輪郭。身長百五十センチと小柄ではあるものの、いかにもすばしっこそうな元気に溢れていた。

 確かに……胸の肉はだいぶ物足りないかもしれないが……今までに三度、同学年の男子から告白された経験を持ち、十分美少女で通るだろう。


 母親の怒りを代弁した妹・恭子に、圭介は汗まみれの苦笑を向けた。

「なんだよ母さんも。呼んでくれれば、すぐ行くのに」


 すると、つっかけサンダルの一撃が圭介の右脛に飛んでくる。

 ガスッと音がするぐらい強く蹴られ、しかし空手家の向こう脛がその程度の衝撃に痛みを覚えるわけもなかった。


「何度も呼んでたよ! 兄ちゃんが生返事してんのあたしも聞いたっ」

「ええ……そうだったかあ……?」

「しっかりしてよ。どうせ学校でもそんな感じでボーっとしてんでしょ?」

「ごめんごめん。次は気を付けるから」

「前にも言ったけどさ。あたし、第一志望が『芳凜』なんだからね。兄ちゃんがあんまりアレだと、あたしまで学校に居づらくなんじゃん」

「わかってるって」

「つーかさ。いいかげん兄ちゃんも学生っぽいことやってみたら? 彼女つくってみるとかさあ。空手ばっかじゃなくてさあ」

「はははっ。それはハードル高すぎ」

「なんだってやってみないとわかんないじゃんよ。なに? 空手家のくせに戦う前から負けを認めんの?」


 問い詰めてくるような恭子の視線。


 圭介は「つっても……僕は、殴りっこしかできないしなぁ……」なんて言って視線を逸らしてから、空手着の袖で汗をぬぐった。


 母親そっくりな気の強い妹。言い争ったって万に一つも勝ち目はない。


 それで圭介は。

「飯だったな。シャワー浴びてすぐ行くって母さんに言っておいて」

 さっさと話題を切り上げることにしたらしい。恭子の隣を抜けるついでにその小さな頭を撫でてやろうとしたら――ババッと両手で頭を隠されてしまった。


「汗まみれのまま触んないで!」

「おお。ごめん」


 庭を歩きながら真っ黒な空手着の帯を解く。二つ折りにした帯を右肩に引っかけて、「……告白、ねえ……」そう呟いた。


 何とはなしに空を見上げれば、幾つもの星が目に入る。自然と足が止まった。


「……そりゃあ……今すぐにでも、『この気持ち』に白黒つけたいとは思うけど……」


 そして自嘲気味に笑った圭介。

 後ろから投げかけられた「何か言った兄ちゃん?」という問いかけには。

「何でもないよ」

 と短く答えるだけだった。


 本当――恋心というのは、コントロールしがたいものだ。手足が砕けんばかりにサンドバッグを叩き続けたというのに、圭介の心にはまだモヤモヤした大きなものが残っている。

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