身体能力お化けの彼女
「本間――お前なあっ! いいかげんサーブ決めろよ!!」
昼休憩後の体育の時間、バレーボールネットが張られた体育館に苛立ちの声が走る。
コート奥のサービスゾーンには体操服姿の本間圭介が立っており、ひどくばつの悪そうな顔で両手を顔の前で合わせた。そのままペコペコ頭を下げる。
「ごめんなさい。申し訳ない」
三回連続サーブ失敗。腕を振り下ろすオーバーハンドサーブはもちろん、成功率が高いと言われるアンダーハンドサーブさえも相手コートに入ることはなかった。ボールの叩きどころが悪かったのだろう。ネットは越えたが、大きく右に逸れてしまった。
「ったく。その筋肉、何のためにあるんだよ?」
「ほんとコイツ、貧乏くじだわ」
コートに戻った圭介に投げかけられる冷たい言葉。チームメイトのうんざりとした視線。
圭介はネット横のスコアボードを一瞥してから、「本当、申し訳ない」もう一度頭を下げるしかなかった。
十五対十七。
接戦である。二点のビハインドとはいえ、バレー部のエースを擁する相手チームによく食らい付いているといえよう。野球部、サッカー部、ハンドボール部の三人が持ち前の運動神経を遺憾なく発揮し、科学部と写真部の文化系の二人も意外なほどボールを拾った。
コート上の六人――本間圭介が一番大きな穴だ。
半袖から伸びる腕はクラスの誰よりも太く、筋張っている。剥き出しのふくらはぎだって筋肉が角張るほどに鍛え上げられ、某有名ロボットアニメの巨大人型兵器の脚のごとくだった。
一見、運動が得意そうな身体である。
「本間は端っこ守ってろ。あとは俺らが全部やっから」
「う、うん」
とはいえ、圭介が体育の授業で活躍することは滅多になかった。
不器用も不器用。とにかく不器用。
ボールに触れれば大抵明後日の方向に飛んでいき、体育祭のクラス対抗リレーではバトンを落とす。短距離走はスタートで大きく出遅れ、唯一長距離走だけが人並み程度。
それが本間圭介という帰宅部の高校二年生である。
見た目の期待を裏切り続けてきた反動か、彼を揶揄するあだ名は色々あるが……最近は『雑魚筋肉』というのがクラスの男子の間で流行の兆しを見せているらしい。
「しゃあっ! こっからこっから! 逆転すっぞ!」
中腰になってボールを待つ野球部がそう声を張り。
――――――――――――――
ちょうどその時、右隣のコートで女生徒たちの短い歓声が上がった。
バレー歴八年の女子バレー部員が打ち込んだスパイクに、一人の少女が反応したのだ。
コート隅を狙った弾丸スパイクにぎりぎり届いたフライングレシーブ。
コートの端から端を横断する横っ飛びに大きく揺れた黒髪ポニーテール。
どれだけ無茶な姿勢になっても空中バランスを維持し続けた美しい肢体。
誰もが少女の反応速度、運動神経に舌を巻くしかなく、自然と歓声が漏れたのだった。
「
そしてボールが相手コートに返る。
板張りの床にダイブした少女は――まるでビーチフラッグスのスタートがごとく――これまたおそるべき速度で守備位置のバックレフトまで駆け戻り、「――っ」桃色の唇を舐めた。
汗に濡れて重くなった前髪が一房、綺麗なひたいに張り付いている。
肩幅に足を開き、腰を落とし、レシーブ姿勢をつくり。
「……今度も――あんなん来たら、おもしろいんやけど……」
校内随一とも言われる少女の美貌も、今だけは獲物を狙うネコ科の猛獣の顔だった。
相手チームのアタッカーは今度も女子バレー部員だ。
「ブロック! せーの!」
前衛の三人がブロックに飛んでくれたおかげで、スパイクコースが絞られた。
女子バレー部員はバックレフト方向、コート上の空白地帯にボールを打ち込み――
とはいえ、バックレフトを守る『超絶反射神経の少女』が、そのままボールが落ちることを許すはずがなかった。突如としてボールの落下地点に現れ、完璧なレシーブを決めた。
「上がった!」
「藤ノ井さんっナイス!」
それから、十分な余裕を持って上げられたトス。
「藤ノ井さん! お願い!」
セッターが要求したスパイカーは『超絶反射神経の少女』であり。
しかしバレーのルールでは、後衛の選手はネット近くからスパイクを打つことができない。ネットから三メートルの位置に引かれたアタックラインを踏み越えてはならない。
それでも。
「任せてください!」
アタックライン手前で力強く踏み切った黒髪ポニーテール。
誰もが想像していなかった大ジャンプを見せつけ、背中を弓なりにしならせた空中姿勢だって獲物に飛びかかるヒョウのごとく美しかった。
ジャンプの最高到達点で少女の右手がボールを叩き――あまりにも強烈な一撃である。
まるで空を切り裂く流星。
当然、相手コートの女子高生たちが反応できるわけもなく、後衛の女子柔道部員の右腕に当たって進行方向を変えた。
「危ない!!」
思わずそう叫んだのはいったい誰だったのだろうか。
大柄な女子柔道部員の身体で跳ね返ったボールは、ほとんどそのままの勢いで隣のコートへと。
「んぁ――?」
鋭い叫びに反応して首を回した本間圭介の顔面に突き刺さろうとするのだった。
間近に迫ったバレーボール。
その瞬間、圭介の瞳孔がギュッと開いた。
直後、圭介の左腕がかすみ、その手先は反時計回りに弧を描こうとする。
回し受けという空手の受け技だ。本来であれば、相手の突き技を絡め取りながら外側へと流す技。バレーボールを打ち落とすのにだって使えるだろう。
動き出しは多少遅れたが許容範囲内。圭介の技のキレであれば、十分間に合う。
だが、ある瞬間――圭介の左腕がビタッと止まった。
まるで、反射的な動きを強い意志で抑え込んだかのように、急ブレーキがかかったのだ。
結果。
「ぶべっ」
バレーボールは叩き落とされることもなく、圭介の顔面に直撃。彼の頭を首ごと跳ね上げることとなる。
目の前が真っ白になり、「本間っ!?」という男子の驚愕と女子の悲鳴が遠くに聞こえた。
そして――――――次、気が付いた時には、背中に硬い感触。どうやら体育館のフローリングに大の字に倒れているらしい。天上に設置されたLED照明を眩しいと思う。
ふと、圭介の視界に影が落ち。
「ごめんなさい本間くんっ、大丈夫ですか!?」
黒髪ポニーテールが揺れるのが見えた。
ほかにも人が集まっているらしい。クラスメイトたちが心配半分、呆れ半分といった微妙な顔色で圭介を見下ろしては、彼の意識の有無を確認して立ち去っていく。
圭介は、「ああ、うん。大丈夫大丈夫」と笑って上半身を起こすのだが――その時、鼻の奥に嫌な感触を覚えた。何か、一筋の液体が鼻腔の壁面を伝う感触だ。
あっ――と思って顔を上げる暇もなかった。すぐさま鮮血が鼻の下を濡らし、体操着にボタボタ落ちるのである。盛大な鼻血。出血はかなりの量だ。
「あ、あれ?」
圭介は手で口元を隠し、申し訳なさそうに顔を曇らせる美貌から目を逸らすしかなかった。
大きな涙袋が特徴的な優しげな目元。
思わず触れてみたいと思ってしまうほどに綺麗な鼻筋。
小さめながらも色っぽく膨らんだ唇。
目鼻立ちの美しさを損ねてしまう歪さなど一つもない顔の輪郭。
クラスで一番の――いや、間違いなく学校で一番の美少女が圭介の顔を覗き込んでいる。
長い黒髪をポニーテールにまとめ、ついさっきまでの激しい運動に少し呼吸が荒かった。
華奢ではないが、先ほどの殺人スパイクを打った張本人とは思えぬほどに女らしい肉体である。小顔で、ウエストは締まっていて、脚も長い。胸だって……間違いなく平均以上だろう。
「ご、ごめんなさい本間くん。まさか顔に当たるなんて――大丈夫、じゃないですよね」
イントネーションにわずかな違和感の残る丁寧語。
圭介は「大丈夫。ちょっと鼻に当たっただけだから」なんて口走りながら、これ以上鼻血が落ちないように天上を見上げた。
「少し休めば、すぐ止まるだろうし」
そのままの格好でヨロヨロ立ち上がるのだが、その最中にも真っ赤な雫が圭介の体操服にこぼれ落ちる。鼻を吸ってどうにかなる出血量ではなかったのだ。
男子組と女子組、どちらのコートも試合は一時中断している。
まずは周囲の生徒たちのざわめきを止めたジャージ姿の体育教師が圭介のところにやってきて言った。
「本間。鼻血か?」
「あ、はい。すみません」
「どれ。手をどけて顔を見せてみろ。倒れた時に頭を打ったとかはないか?」
「はい。それは、大丈夫だと思います」
「そうか。……見た感じ、鼻が曲がってるとかはなさそうだが……」
「大丈夫です。少し休めば」
「いや。念のため保健室で診てもらえ。ええと、誰かに一緒に――」
すると。
「私が行きます」
真っ先に立候補したのは、元凶となるスパイクを打った藤ノ井舞魚だった。
体育教師はあごヒゲの剃り残しを撫でながら少し考え、一瞬難しい顔もしたが、やがて「なら頼めるか、藤ノ井」と美少女の申し出を認めるのだった。
故意ではないとは言え、加害者と被害者を二人っきりにするのは良くないと思ったのだろう。そしてその考えを改めさせたのが、本間圭介という生徒の性格だ。
クラスで目立つ方ではなく、不器用なところも目立つが、全体的には温厚そのもの。
少女の非を責めるような無粋な男ではないと信用されたのである。
「行きましょう本間くん」
「すみません」
藤ノ井舞魚に促され、天を仰いだままフラフラ歩き出す圭介。足元を見ていないのだからどうしても足取りがおぼつかなくなり――しかし、すぐさま舞魚が圭介の手を取った。
突然の柔らかい感触に圭介はひどく驚き、「ふ、藤ノ井さん?」と声を漏らす。
「保健室まで私が手を引きますから」
「いいよいいよ。血が付いたりしたらいけないし――」
「いいえ。ダメです。さあ、行きましょう」
舞魚の右手は、まるで赤ん坊の頬かマシュマロのようだ。信じられないほどになめらかで、たおやかで、ゴツゴツした圭介の指に自然と吸い付いてくるのである。
それと花のような香り。
鼻腔を支配する鉄臭さの中にふっと香った『女の子の匂い』。なんとも言いようのない、ただただ心地よく、限界知らずの甘美さを漂わせる匂いが、圭介を動揺させた。
「恥ずかしいからって手を離したらダメですよ?」
「あ。うん」
極上の柔らかさと芳香に圭介は思わず思考停止してしまい、舞魚の為すがままとなる。気恥ずかしさなど感じる余裕もなく、体育館をあとにした。
ふと、男子の誰かが呟いた「なにあれ。羨ましい」という言葉が耳に残った。
そして体育館を出た圭介は、意外なほど力強く引っ張ってくれる舞魚を全面的に信用しながら足を運び――廊下の天井ばかりを眺めている内に、校舎一階にある保健室へと辿り着く。
何分歩いたかは知らないが、体感はわずか十秒だった。
「失礼します」
そう言って保健室の引き戸をノックした藤ノ井舞魚。
その瞬間、圭介は、思わず苦笑してしまうほどの物悲しさを感じてしまう。あと五秒もすれば舞魚の右手が離れていってしまうことをひどく惜しく思ったのだ。
ハッと我に返り――馬鹿野郎。身の程を考えろ――そう自戒した。
引き戸を開けた舞魚が、保健室の中を見渡し。
「あの。バレーボールが顔に直撃して――あれ? 吉永先生?」
しかしカーテン付きのベッドが三つと薬品棚が二つ、大きな事務机、冷蔵庫、大きめの流し台があるだけで……肝心の養護教諭の姿がない。
「吉永先生?」
舞魚は圭介の手を引いて保健室の中に入り、今年五十歳を迎える中年女性を探した。
もう一度だけ「先生」と呼びかけて、きっぱり諦める。
「先生どこ行ったんでしょうね。あの――本間くん、ここ座ってください」
そして圭介が導かれたのは丸椅子の座面。
圭介を丸椅子に座らせるやいなや、舞魚は何のためらいもなく彼から手を離し、応急処置のためにテキパキと動き始めるのである。
「口に血が残っているようなら、これに吐き出してください」
そう言って洗面器を圭介に持たせ、自分は戸棚の中から綺麗な手ぬぐいを取り出す。
「本間くん。鼻血の正しい止め方って知ってます?」
「下を向いて鼻押さえてればいいんだよね」
「ご名答です」
その手ぬぐいを流し台で濡らしてから水気が残る程度に絞り、小鼻をつまむ圭介に渡した。
「これ、鼻に当てておいてください。血管が収縮して血が止まりやすくなると」
「ああ。どうも」
これにて鼻血の応急処置は終わり。あとは血が止まるのを待つしかなく、余計なことはすべきではないのである。
しかし舞魚には「本間くん。あの……怪我をさせてしまって、本当にごめんなさい」と神妙な声で謝罪する以外にも、やるべきことがもう一つ。
「大丈夫大丈夫。全然気にしてないから。そもそもボールがどこ飛んでいくかなんて、誰にもわかんないし。むしろ僕の運が悪すぎっていうか」
「じゃあ――服を脱いでもらえますか?」
「……へ?」
「服の血をそのままにしておいたら染みになってしまいますし。今のうちに洗っておきます」
「あ――ああ! そうだよね! そういうことだよね!」
「私、何か変なこと言いましたか?」
「いやっ、違うんだ。ちょっとびっくりしただけ。で、でも――いいよ。別に染みぐらい」
「ダメです。本間くんのお母様を困らせることになりますし。せめてもの罪滅ぼしに、それぐらいやらせてください。もう授業に戻る時間もありませんし」
「そ、そう……? まあ……それじゃあ……」
すると圭介は鼻から指を離し、おずおずと体操服を脱ぎだした。
丸太のような胴体が、膨らんだ大胸筋が、翼のごとくに鍛え上げられた広背筋が露わになる。
その瞬間――
「なんやその身体」
舞魚が思わずそんなことを口走り。
「え?」
圭介は丸めた体操服を右手に、呆気にとられるのだった。
すぐさまわざとらしい笑い顔で場を取り繕おうとする舞魚。「ごめんなさい。思っていた以上に凄い筋肉だったから、つい驚いてしまって――」なんて口を回しながら、圭介の右手から血だらけの体操服を取り上げる。
「今も筋トレ、がんばっているんですか? 去年よりも大きくなっていますよね?」
圭介の顔色が一瞬変わった。再度鼻を押さえながら言う。
「き、帰宅部で、やることもないしね」
そして舞魚は窓際の流し台へと。圭介に背を向けて彼の体操服を洗い始めた。蛇口から落ちた流水のシンクを叩く音だけが保健室に響き渡る。
圭介は舞魚の後ろ姿へと視線を移し、そのしなやかそうな体付きを心底美しいと思った。体操服を洗うに合わせてグリグリ動く肩からどうしても目が離せない。
不意に、「でも」と舞魚が涼しげな声をつくった。
「正直、嘘ですよね? その、本間くんの趣味が筋トレって奴」
「い、いや。なんで僕が嘘なんか――」
「さすがにわかりますよ。去年も一年、同じクラスだったんですから。本間くん、筋トレが趣味って言ってたわりに、全然自慢しないじゃないですか。身体のこと」
「……それは……」
「そもそもが、誰かに見せびらかすための身体ではないのでしょう? 隠したい理由があるようですから、詳しくは聞きませんが」
まるで呟くように静かにそう言ってから、背中を震わせてクスクス笑い始めた舞魚。
「うちかて、京都訛りは学校やと浮くいうて、基本隠しとるから」
あえて素を出した美少女に圭介は何も言わず――この人、僕が何やってるか、大体察してそうだな――とハラハラするばかりだった。
水道の音が止まる。
舞魚は洗い終えた体操服がしわにならないよう、綺麗に畳んで押し絞り始めた。
一度、二度、三度、四度。
少女の薄い背中に力がこもる度、ステンレス製のシンクがボボボボボ――と鈍い物音を立てる。
あらかた水を落としたところで、濡れ手ぬぐいを顔に当てながら鼻を摘まむ圭介に振り返った舞魚。
「実はうち、結構見させてもろうてたんよ? 本間くんのこと」
「そ、そうなんだ」
「わー、隠し事仲間やー、いうてね」
それから、まだしっかり濡れている圭介の体操服を胸に抱くと。
「そんでな」
そのまま好奇心に声を跳ねさせながら言った。
「本間くん、球当たる前、ちょう変な動きしはったでしょ。えらいこなれたいうか、普通の人はしはらへんような動き」
圭介は緊張に固まっている。まさか『反射的に回し受けを繰り出そうとした瞬間のこと』を言われるとは思っていなかったのである。
まるで蛇に睨まれた蛙。
舞魚にはその気などさらさらないのだが、隠し事を咎められているような気がした。
「せやから、うちの球かて――実はよけられたん違う?」
すべてを見透かすような問いかけに。
「気のせいだよ藤ノ井さん」
それだけ言うのが精一杯だ。
五月初旬の光差し込む明るい保健室。養護教諭は一向に戻ってこない。
学校随一の美少女の言動に空手家が冷や汗をかく中、今にも五時間目終了のチャイムが鳴ろうとしていた。
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