殴り合うのが日常
巨拳が腹に迫り来るのが見えた。
どう甘く見積もっても一撃必殺の拳だ。どれだけ腹筋に力を込めたとて耐えられるものではない。そのまま喰らえば腹筋ごと内臓をグチャグチャに潰されるだろう。
だから、Tシャツ・ハーフパンツ姿の圭介は、必殺の正拳中段突きに外受けを合わせた。
左腕を外側から内側斜め下へと走らせ、相手の右拳を叩き落とす。勢いのある拳は完全には止まらなかったが、それでも当たり所をずらし、威力を殺すことはできた。
そのまま相手の腕が伸びきったのと同時、圭介の右脚がかすむ。
神速の中段回し蹴り。
鍛えられた脛が相手の下腹部へと飛び込み、分厚い筋肉の下の小腸へと衝撃をばらまいた。
「ぐ、う――」
息が漏れる音を聞いた圭介は、ここが攻め時と思って拳を繰り出そうとする。
しかし、突然飛んできた大きな手のひらに動きを制された。両肩を思い切り突き飛ばされ、一歩、二歩と下がってしまう。
さすがに体重差がありすぎた。
三十キロ――三十キロを超える体重差だ。
圭介の前に立つ空手着姿の男は、縦にも、横にも、日本人離れした大きさであった。
本当に大きい。身長は百九十センチを超えているし、体重が百十キロを下回ることもおそらくないだろう。金剛力士がごとき筋骨隆々とはまさしくこのこと。上半身は見事な逆三角形に、下半身は太い石柱のように、厚手の空手着が男の筋肉の形に合わせて膨らんでいた。
片桐雄吾。
もしもこの場に格闘技雑誌の記者がいれば、本間圭介に襲いかかる眼光鋭い巨漢に向かってカメラのシャッターを切り続けただろう。
若干十七歳でフルコンタクト空手の全日本大会決勝戦に登り詰め、世界大会三連覇中の絶対王者・藤咲健一と真っ向勝負の打ち合いを繰り広げた天才。試合には惜しくも判定で敗れたものの、絶対王者のあばらに三カ所ものヒビを入れた猛獣。格闘技雑誌でも散々取り上げられ、次世代のヘビー級エースとして話題沸騰中。
そんな若き空手家が繰り出した拳を、「――ぐうっ」圭介は右腕で受ける。防御した腕がきしむほどの威力だ。そう何度も受けられず、下手すれば前腕骨を砕かれてしまうだろう。
そして雄吾が更なる圧力をかけてきたタイミングで。
「シッ!!」
圭介は前蹴りを放った。
足指の付け根である上足底が雄吾のへそを叩き、その突進力を一瞬殺す。
圭介が前に出た。
雄吾の用いる典型的な組手構え――両拳で顔面を守りつつ半身になった構えの隙間を縫うように、固く握った拳を突き刺す。
「おおおおっ!」
左の上段突きで鎖骨。
右の中段突きでみぞおち。
左の下突きで肝臓。
右の鉤突きで脇腹。
一呼吸で四つの拳をねじ込み、常人相手ならばそれで決着を迎える一気呵成の連撃。
だが、雄吾から圭介にもたらされたのは降参のうめき声ではなく、「ぅおりゃあ!」マサカリを振るうような中段回し蹴りだった。
「――んなっ!?」
間違いなく防御は間に合った。
肘受け。肘を張りだして雄吾の脛に合わせる攻防一体の受け技。
問題は、その中段回し蹴りが防御できる威力ではなかったことだ。脛に刺した肘ごと強く蹴り込まれる。
まるで竜巻に巻き込まれたがごとくに身体が浮いた。足裏が完全に床から離れ、吹き飛んだ距離は二メートル近く。
――嘘だろ――
そして、着地直後の体勢もままならない圭介を狙ったのは、「しぃや!」雄吾の上段回し蹴りだ。
腕で防御すれば間違いなく骨折する――そう判断した圭介は勇気を持って前に出た。
雄吾の驚く顔が見えた。
いくら必殺の上段蹴りといえども、蹴り足が伸び切る前に懐に潜り込んでしまえば、いとも簡単に無力化できる。雄吾の太もも内側に上段受けを合わせて前方に押し飛ばした圭介。
バランスを崩した雄吾は背中から転がったが、しかし当たり前のように受け身を取ってみせた。そのまま一回転して片膝立ちまで持っていく。
両拳を握った圭介が距離を詰め、雄吾がそれに応じた。
始まったのは胴体に的を絞った殴り合いだ。
「あああぃっ!!」
「おらぁっ!!」
圭介の正拳が三発続けて空気を裂けば、雄吾の巨拳が体重の乗った一撃を返す。
肉を叩き合う音は意外と乾いていた。その中に時折、水袋にバットを振り下ろしたようなこもった音が混ざる。
三十秒間は正拳のみを用いた壮絶な殴り合い。
しかし圭介が拳の打ち終わりに下段回し蹴りを放ったことで、次の三十秒間は下段回し蹴りの蹴り合いとなった。
大腿四頭筋や内転筋といった太ももの筋肉、そして膝の靱帯を狙ってローキックが飛び交う。
――ドスンッ。
それは、圭介の下段回し蹴りが雄吾の膝上に叩き込まれた音であり。
――ガスッ。
それは、雄吾の下段回し蹴りを圭介が脛を上げて受けた音。
やがて二人は。
「ふっ!!」
「ぜいっ!!」
再び拳を握り、突き技と蹴り技を縦横無尽に使い始めるのである。
下段回し蹴りで雄吾の意識を下半身に集中させておいてから、上段回し蹴りで頭部を狙った圭介。しかしすんでの所で雄吾にかわされ、圭介の足の甲は空を切った。
すると雄吾は体格差を生かした正拳の連打で一気にたたみかけようとする。しかし、圭介の防御は堅かった。連打の一つ一つを丁寧にさばき、有効打を最小限に抑えてみせた。
何の防具も装着しない素手、素足の叩き合い。
肉体に染み付いた技術を用いた本気の壊し合い。
とはいってもルールがないわけでなく、いわゆるフルコンタクト空手ルール――手技と肘打ちによる顔面殴打禁止、金的禁止、目突き禁止、頭突き禁止、関節技禁止、投げ技禁止――と、殺し合いにならない程度にはお互い手加減しているのだった。
本間圭介と片桐雄吾がフルコンタクト空手の組手を開始してから、すでに四分が経過している。
一時も気を抜かずに全力駆動を続ける肉体は汗にまみれており。
「あああああああああっ!!」
「おおおおおおおおらっ!!」
正拳を放ち、蹴りを振り抜き、受け技を披露する度、二人の前髪や顔面、胸元から大量の水滴が飛び散るのだった。いまや足元に敷き詰められた青色と黄色のフロアマットに大きな水溜まりができあがろうとしている。
そして、それは、ふとした瞬間であった。雄吾の拳が圭介の受け技をすり抜けてまともに腹部へと到達した。
「ごふ――」
圭介の口から重たい吐息が漏れる。
今の今まで軽やかに動き続けてきた圭介の身体が衝撃に硬直し、その隙を見逃す雄吾ではなかった。
「し――」
両拳を握りしめて、冷静に、確実に仕留めに来る。
正拳のみを用いた猛烈な連打。正面から、右から、左から、下からと硬い拳が圭介に襲いかかり、そのすべてが彼の肉と骨に響き渡った。
「がっぐ!!」
連打の最後に圭介が腹に喰らったのはアッパーカット気味の軌道を描いた正拳だ。それまでのダメージをこらえきれずに背中が丸まった瞬間を狙われた。
下半身の感覚がなくなり、勝手に膝が折れる。
右膝をフロアマットについた。
ピピピピピピピピピピピピピピピピ――――
その時、キッチンタイマーの乾いた電子音が圭介の耳に届き、しかし彼は息もできない鈍痛に歯を食い縛りながら顔を上げるのだ。
下段回し蹴りの体勢に入った雄吾が見えた。
相手は百九十センチを超える巨体。圭介が膝を付けば、その顔面の高さは雄吾の腰より下だ。体重差三十キロ超えの下段回し蹴りが頭部に入るのである。
まともに喰らえば命などあるわけがない。
――――――――
だから圭介は『両手』を持ち上げた。防御ではない。まるで雄吾の蹴りを快く迎えるかのごとく、開いた両手を顔の前に構えたのだ。
雄吾の下段回し蹴りが最高速度に到達し――
その足首を圭介の両手が挟み込もうとした瞬間――
「やめだっやめっ!!」
「タイマー鳴ってるだろうが! 時間切れだぞ!」
二人の成人男性が、雄吾の空手着を背後から思い切り引っ張った。
それで動きを止めた雄吾。蹴り脚を床に下ろしてから。
「……はっ、はあ、はあ……なんだ……大田先輩と、井島先輩か……」
荒い呼吸を邪魔者二人に向ける。
ヒゲ面の大田、スポーツ刈りの井島。彼ら二人も空手着に身を包んでいて、いかにも空手家という筋肉質な体躯だった。だが片桐雄吾と比べればかわいいものだ。
「いいところだったんすから、邪魔しないでくださいよ」
そう頭上から見下ろされて。
「い、いいところって……本間は膝ついたし。それで一本だろうが……」
「オレらが止めなきゃ、あいつ死んでたぞ」
生唾を呑むのである。
雄吾は乱れた空手着の胸元を正してから、「んなわけないでしょう。本間ですよ?」と小さな嘆息を一つ。左手を腰に当ててゆっくり振り返った。
「ほら。もう立ってる。ノーダメだって」
立ち上がった圭介は背筋を伸ばし、「馬鹿言わないでください。死にかけですよ」と気の抜けた苦笑いを一つ。腹をさすりながら「さすがに一発でもいいのもらったら、そのまま持っていかれますね」なんて、口元を弛めるのだった。
雄吾が問う。
「本間。お前最後、俺の足首狙ったろ?」
圭介が苦笑しながら答えた。
「すみません。あのまま下段喰らったら本当に殺されてましたし、つい咄嗟に」
すると大きく息を吐いて笑った雄吾。
「関節技もお手の物かよ。さすが、古流空手家は引き出しが多いな」
そのまま圭介に歩み寄り、「勉強になった。またよろしく頼む」大きな右手で握手を求めるのだ。
そして。
「こちらこそ。世界レベルの打撃、堪能させてもらいました」
圭介が迷いなく握手に応じた時、どこからともなく巻き起こった拍手が二人を包む。
総勢三十二人。コンクリート打ち放しの壁際にずらりと正座していた空手着の男たちが、もれなく手を打ち鳴らしていたのである。
広さ九十畳。
雑居ビルの二階フロアを目一杯に使った広い空手道場。
そこで行われたのは、『道場で一番の強者・片桐雄吾』と『出稽古にやって来た他流派の客人・本間圭介』による模範組手だ。
とはいえ、二人の若き空手家が披露したのは、『模範』とは言えないほどの壮絶な真剣勝負だったのだが。
それにしても、いつまでも拍手がやまない。当然だ。あんな叩き合いを見せられたら、白帯から有段者まで、どんなレベルの空手家だって二人に惜しみない拍手を贈りたくなるだろう。
「悪いな。琉球空手のお前に、フルコンをさせちまって」
「いやいや。ああやって殴られる感覚も大切ですから」
「次は古流空手の領分――『何でもあり』でやってみるか?」
「冗談。道場で殺し合いはまずいでしょ。僕だってこの歳で再起不能はごめんです」
「怖がりめ」
「褒め言葉として受け取っておきますよ。君子危うきに近寄らずが、モットーですしね」
手を握り合ったまま会話する間も、二人の前髪や顎先、前腕から大粒の汗が滴り落ちる。
不意に、雄吾が歯を見せてニッと笑った。少しだけ声をひそめて言う。
「初恋の
途端、雄吾を見上げる圭介の眉間にしわが寄り、心底困ったような顔になった。
「……ったく……なんで僕、この人に相談しちゃったかな……」
「そりゃあ俺が彼女持ちだからだよ」
「言いふらしたりしてませんよね」
「さてな。瑞姫くらいには言ったかもしれねえな」
「……ま、まあ……瑞姫さんだったら。吹聴するような人じゃないですし」
先ほどまでは歴戦の空手家同士。しかし今は、高校の先輩と後輩という顔に戻った二人。
やがて、道場正面の壁に設けられた神棚の下に正座していた初老の男性が、「それじゃあ今日の稽古はこれで締めますよ――全員、整列!!」とよく通る声で言い。
「押忍っ!!」
その場の全員が即座に動き出した。道場内での順位に従って綺麗に整列した。道場のエースである雄吾は最前列に並び、出稽古の客人だからと空手着すら着ていない圭介は一番後ろだ。
時刻は既に夜九時を回っている。
五月五日。火曜日。
三時間を超える過酷な空手稽古が今まさに終わろうとしていて。
「片桐と本間くんは、最後の組手、お疲れ様でしたね。特に本間くんは体重差があるのによくやりました。いいですか皆さん、突きというのは――」
しかし、疲労困憊といった様子の大人たちの中に混じって高校生二人は、まだ体力が残っているような顔色だった。
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