恋―虎威―わずらい ~人喰い美人と相対し~

楽山

月明かりと白い肌

 今日という夜が満月だったことを誰に感謝すればいいのだろう。


 月明かり――いつもはその淡い光に気付かない日々を送っているが、こうも辺り一面真っ暗だとどうしてもそれに頼らざるを得ない。そして、現代を生きる若者はこんな状況になって初めて、月明かりの風情というものに気付くのだ。


 昼の太陽とはまるで違う、輪郭をぼやけさせる弱い光。

 青白い世界に物体が浮き上がって見える魔性の光。


 ――乙女の柔肌を堪能するのに、これほど適した照明はない――


 青年は思いがけない幸運を心から喜び、知らず知らずのうちに口端が上がってしまう。


「おっと――」

 しかしすぐに気が付いて、左手で自身の口元を握り潰した。


 口周りの筋肉を入念に揉みほぐしてから、大きなため息を一つ。……やれ、どうにも浮ついているな……そう苦笑いしつつ、高さ二メートルを超える金網フェンスに裸の背中を預ける。


 いよいよ月も高く昇った夜更け。


 小高い丘の上にそびえ立つ私立芳凜高等学校校舎の屋上。


 そしてそこに立つ青年――本間ほんま圭介けいすけ――は、上半身裸で、足元とて裸足だった。


 身に付けているのは黒地のズボンだけで、いくら青春真っただ中の十七歳とはいえ、この格好で街中を歩けば確実に後ろ指を指されてしまうだろう。


 筋肉を見せびらかしたい変人。

 そんな奇異の目で見られてしまうかもしれない。


 夜風を浴びる圭介の肉体……それは、帰宅部の高校生とは思えぬほど、大量の筋肉を備えていた。


 六つに割れた腹直筋だけでなく、外腹斜筋や内腹斜筋、腹横筋、背中側の脊柱起立筋群、それらすべてが尋常を超えて鍛え上げられた結果、丸太のごとく太くなった胴体。

 だというのに、広背筋も異常に発達しているために、無理矢理逆三角形スタイルを維持しているのである。

 そして、十分な長さを備えた両腕。手首の屈伸を司る前腕が、立派な二の腕に負けず劣らずの太さにまで育っていた。


「……もう七月だってのに……少し、冷えてきたね……」


 静かな声でそう言って、見るからにおそるべき膂力を備えた肉体が腕を組む。


 クラスでは『人畜無害な草食系』『見せかけ筋肉の運動オンチ』『アニメオタク』『地味すぎて顔が覚えられない』などと散々に評価される圭介であるが、どういうわけか今は、幾多もの死線をくぐり抜けた武人のようなたたずまいであった。


 そういう彼が目を向けた先から、ふと。

「そないまじまじ見られたら、うち照れるわ」

 ほんの少しだけ鼻にかかったような甘い声が上がる。


 関西弁、しかし大阪のなまりではない。

 上品な京言葉。

 活気に溢れた大阪弁よりもゆっくりとしたテンポを持ち、言葉そのものから物腰の柔らさが伝わってくるような……そんな古都・京都の方言だった。


 圭介はまばたきを一つ。腕組みしたままの格好で、「今さらそれを言う? これから僕ら二人、他人様に言えないことをやろうってのに」なんて笑うのである。


 直後、困ったような声が続いた。

「そらそうかもしれへんけどね……ほんま、乙女心のわからんお人やね」


 そして月明かりの下――――ほっそりとした美しい指が、半袖シャツのボタンに触れる。


「まあ、ええけど。一度始まってしもたら、すぐえらいことなるんやろうし」


 屋上の無機質なコンクリートの上に少女が立っていた。


 真っ白なフレアスカートを脱いで濃紺の半袖シャツ一枚になっていた黒髪の少女が、今まさにその一枚を脱いで下着姿になろうとしていた。


 少しうつむき加減の美貌。

 長いまつげとすっと通った綺麗な鼻筋、それからぷっくりと膨らんだ唇が見える。長い黒髪の幾らかが、ほくろ一つない頬を横切り、唇の端にまで届いていた。


 黒髪少女は首元から一つ一つボタンを外し。

「一応言うとくけど、はしたない娘て幻滅せんといてね。こんな肌見せるやなんて、本間くんが初めて。嘘やないえ」

 白磁のように輝く胸元を、柔らかそうな腹を、官能的な曲線を描く下腹部を圭介の前に晒すのだ。


 次いで、半袖シャツから丸い右肩が現れた。


「地味な下着やけど、堪忍え」


 そして左肩も。半袖シャツが黒髪少女の肌から離れ、彼女の手元で夜風にたなびく。風の吹き終わりに合わせて、フレアスカート同様、足元に落とされた。


「ちょい待って。靴下も脱ぐさかい」


 最後に黒い靴下が適当に背後に投げられ、黒髪少女の肌に残ったのは大きな胸を包むスポーツブラとシンプルなショーツだけ。双方とも色は純白。


「ふふふっ。正真正銘、下着だけ。これで動きやすぅなった」

 あられもない格好にはしゃぐ黒髪少女は裸足でターンを決め。


「……やれやれ……ほんと、目に毒だ……」

 そう呟いた圭介は、突如として眼前に現れた美の女神に気が遠くなる思いだった。金網に寄りかかっていなければ思わず尻もちをついてしまったかもしれない。


 満月の下に立つ少女のなんと美しいことか。


 墨を流したような光沢のある黒髪が背中の半分辺りまで伸び、長い前髪の間からは細く美しい眉が覗いている。

 綺麗な二重まぶたとはっきりとした涙袋を伴った大きな双眸。圧倒的な魅力を振りまく優しげな目元に本気で恋した男たちは、果たして何人になるのだろうか。


 そして、天は、黒髪少女に二物も三物も与えたもうた。


 眉、目、鼻、口、輪郭――すべてが整った顔だけではない。首から下だっておよそ完全無欠。


 すらりと伸びた首筋。

 谷間をつくるのに少しも苦労しない、形の良い胸。

 女性的なくびれと丸みを帯びた腰回り。

 適度な筋肉が付きつつもすらりと伸びた美脚は、肉感といい、長さといい、大多数の女子高生を敵に回してしまいそうなぐらいに完璧だ。身長百六十五センチにして股下八十三センチ。


 ……まるでネコ科の獣だな……。

 圭介はへそを隠すように右腕で腹を抱いた黒髪少女を眺め、そんなことを考えた。


 華奢というわけでなく、当然、豊満というのも違う。とにもかくにも均整の取れたスタイル。月明かりを映して輝く柔肌の下には、しなやかな筋肉が隠れているはずだ。


 黒髪少女が顔をほころばせて言った。華のような笑顔だった。

「楽しみやねえ。ほんまに、楽しみ」


 笑うこともなく圭介が短く応えた。

「そうだね」


 そして圭介は腕組みを解く。金網から背中を離して、一歩だけ前に出た。


 相対する圭介と黒髪少女。

 圭介は両手を下ろした自然体の姿勢で、黒髪少女は右腕でへそを隠したまま。


 夜の校舎屋上を沈黙が支配し始め…………しかし、いつの間にか笑顔の消えていた黒髪少女が、不意に圭介を呼んだ。視線を落として、夜風にまぎれるような静かな声で、だ。


「……なあ、本間くん……」


「なに?」


 遠く、大きな国道を行き交う車の音が聞こえる。


 地域で一番高い場所に建てられたせいで毎日の丘登りを生徒に強いる私立芳凜高等学校。その屋上から下界を見れば、ベッドタウンの明かりが星の海のごとく広がっているだろう。


 しかし高校生の男女二人は、美しい夜景を楽しむわけでもなく、手を繋いで寄り添うわけでもなく、お互いに肌を見せ合いながら三メートルの距離で向き合うのだった。


「その……ほんま堪忍え、うちの勝手に付き合うてもろて。どない謝ってええか――」

 耳横の髪を撫でながら黒髪少女がそう言いよどめば。


「いいよもう。大丈夫。もう、いいから」

 圭介の言葉は、幼い子供に語りかけるみたいに優しかった。


「僕が好きになった人は、ほんの少しだけ愛し方が変わってた。ただそれだけのことだよ」


 黒髪少女がパッと顔を上げる。

 少し驚いたような瞳で圭介の顔をまっすぐに見つめ。


「僕のこれまでの人生で藤ノ井ふじのいさんの気持ちを満たせるなら、それでいい。覚悟はできてる」


 桃色の唇を震わせ。

 何か言いたげに、しかしすぐには言葉にできなくて。

 やがてたった一言――「ありがとうな」


 それと同時にその左頬を伝った一筋の涙。


 黒髪少女は濡れた頬をぬぐうこともせず、小さな微笑みを浮かべるのだった。ほんの少しだけ目尻を下げ、口元をゆるめただけの、今にも消えてしまいそうな儚げな微笑みを。


 最愛の男に愛を囁くかのように言った。


「殺してくれてもかまへんからね。うちも、その気でやるし」

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