上級生にさらわれて

「おい。本間いるか?」


 五月八日、金曜日の昼休憩。

 重たい問いかけと共に教室の前扉が開いた瞬間、その場の空気が一変した。


 つい数瞬前まであれほどにぎやかだったのに、仲良しクラスの団欒があったのに、誰もが弁当をつつく箸を止め、おしゃべりを止め、強い緊張感を伴って教室の前方に視線を送るのだ。


 無理もない。何一つ遠慮することもなく二年四組の教室に入ってきた大男は、縄張りを散歩するヒグマのごとき雰囲気だったのである。


 校則どおりにブレザー制服を着用し、ネクタイだってしっかり締められている。

 それなのに、教室の生徒たちが恐怖を感じたのは、彼の異様な大きさと自信に満ち溢れた立ち振る舞いが原因だろう。


 片桐雄吾。


 ここ私立芳凜高等学校において、その三年生の名前と風貌、実績を知らない人間は存在しない。


 超凄腕の空手家で、ひとたび大会に出場すれば対戦相手全員を病院送りにして平然と帰ってくる。当然、体育祭や球技大会では圧倒的な無双っぷりを披露し――去年の文化祭、近くの高校の不良たちが徒党を組んで乱入してきた時だって、たった一人で事を納めた。つまるところ校内最強どころか、日本最強、世界最強という称号にだって手が届きそうな偉丈夫として、全校生徒が認識しているのだった。


「なんで片桐先輩が――」

「本間? 本間って言った?」

「やっべ。やっぱでっけぇ」


 そんな上級生が前触れもなくランチタイムに侵入してきて、ざわつきが広がらないわけがない。クラスの誰もが教室の前方出入口に注目し、彼の一挙手一投足を見守った。


 雄吾が悠然と首を回す。

 そして窓際の席に目当ての人物を見つけ、「おい本間――」


 しかし次の瞬間。

「入り口で止まんなクソバカ」

 そう言った何者かに後頭部をはたかれた挙げ句、太ももの後ろを思い切り蹴飛ばされて「おっと――」一歩、二歩と前に出た。


「ついでに言うと、あんたは人様のクラスで態度がでけえ」


 二年四組に新たなざわめきが巻き起こる。

 雄吾に続いて教室に入ってきたのは、スタイル抜群なうえ、涼しげな美貌が目を引く女生徒であった。


 身長は百七十センチに届くだろうか。

 明るい色のショートカットヘア。前髪を右眉の位置で分け、右の髪束は丸ごと耳の後ろに流している。


 無垢な美少女という印象ではない。

 自らの容姿に絶対の自信を持った大人の美女と讃えるべきだろう。

 鼻は高めで、ラメ入りのリップクリームを塗った唇も大きめな方。そしてぱっちりとした二重まぶたと整えられた眉が、強い意思を宿すアーモンド型の瞳に花を添えていた。


 三年一組、出席番号二十二番――花村瑞姫。


 これまた芳凜高校では知らない者のいない有名人だ。


 大病院の跡取り娘で、全国模試の最上位常連という、とびっきりの才女。一年生の時は圧倒的大差で『ミス芳凜高校』に選ばれ、去年こそ藤ノ井舞魚に後塵を拝したとはいえ堂々の二位。


 しかし、そういったことよりも瑞姫を有名にしている事実はこれだろう


 ――片桐雄吾のカノジョ――


「でかいか? 態度」

「規格外よ。見なさいこの状況。みんな雄吾にビビっちゃってるじゃない」


 ブレザーを着崩さない雄吾とは違い、シャツは第二ボタンまで開き、ノーネクタイ、スカートだってミニスカート並みに短い瑞姫。


「ごめんね後輩ちゃんたち。ちょっとお邪魔しちゃうわね」


 しかしウィンク一発で二年四組のほぼ全員を虜にできるほどの愛嬌があった。この人は絶対に悪い人ではない――会う人全員をホッとさせるような優しい雰囲気を纏っている。


 そして、インパクト抜群の上級生二人は、窓際の机で一人弁当を食べていた圭介に向くと。

「本間。お前、ちょっとツラ貸せ」

「お姉さんたちとお茶しよう」

 そう言って彼を教室から連れ出そうとするのだ。


 教室中の視線が圭介に注がれる。それと同時に、あちこちでひそひそ話が立ち上がった。


「え? え? 本間くん、なにやったの?」

「知んないわよ。本間なんかが、あの二人と知り合いなわけないし」

「修羅場? ねえ、修羅場?」

「わかった。本間の奴、花村先輩に色目使ったんだ」

「ストーカーやってた可能性もあるよな」

「な、なんつーか……片桐先輩、怒ってるように見えるんだけど」

「あの人に目ぇ付けられるとかヤバすぎだろ。殺されるんじゃねえか?」


 クラスメイトの口から出るのはどれもこれも物騒な予想ばかり。教壇の上に登った苦笑いの瑞姫が、「違う違うっ」と手を振ってそれを全力否定する。


「ちょっと話があるだけ! 全然荒事とかじゃないから!」


 それから黒板の方に一瞬顔を隠して――少し強めに唇を噛んだ。

「……ほんと、圭介の奴、舐められきってるな……」


 しかし肝心の圭介といえば、雄吾と瑞姫の到来以来ずっとポカンとしたままである。愛用の弁当箱を左手に、唐揚げをつまんだ箸を右手に、力の抜けた表情で固まっていた。クラス全員の視線を浴びていることにも気付いていないかもしれない。


「ちんたら飯食ってんじゃねえ。おら、行くぞ」


「…………」


 顎を振って指図してきた雄吾を無視して、圭介は唐揚げをつまんでいた箸を口に入れる。

 いつもと同じ味付けの鶏肉を一噛み、二噛み。口の中に肉汁が染み渡ったのを見計らって、白米を追加した。リスのように頬を膨らませながら、肉と米を咀嚼する。


「あの。もう食べ終わりますから」

 圭介ののんびりとした反応。


「ああ?」

 雄吾は少し声が漏れてしまっただけだ。別に気分を害したわけではなかった。


 とはいえ……二人の姿を見比べるクラスメイトたちの緊張感は、そのやり取り一つで急上昇だ。水を打ったように静まり返り、気の弱い女子なんて真っ青な顔に変わってしまう。


 すかさず瑞姫が動いた。両足ジャンプで教壇から降りると。

「あのねえ圭介。先輩のお誘いよりタンパク質の方が大事って、そりゃないでしょ」

「ちょ――ちょっと。瑞姫さん?」

 圭介の右腕を小脇に抱える形で彼を立ち上がらせた。


 雄吾に動じなかった圭介といえども、瑞姫に腕を取られてしまったらどうしようもない。Fカップとも噂される巨乳を腕に押し付けられ、いとも簡単にコントロールされてしまうのだ。


「瑞姫さん。僕、昼飯がまだ――」

「まあまあ。ジュースおごってあげっからさあ」

「ジュースじゃあ、腹ぁふくれないですって」

「うっさいなあ。先輩命令よ。ちょっと付き合いなさい」


 そして瑞姫と圭介は黒板の前を通って、教室前方の出入口へと。


「ったく。俺と瑞姫が呼んでんだ、とっとと来やがれ」


 待ち構えていた雄吾に左腕も捕まってしまい、「な、なんなんですか……いったい」もはや逃げることは不可能だ。警察に連行される犯人のような絵面となった。


 いまだ声を発すこともできない二年四組の三十四人を振り返った瑞姫。

「それじゃあ圭介借りていくわねー」

 彼ら彼女の緊張を解きほぐすべくそう笑いかけるのだが――その実、教室後方の中央付近に集まっていた女子グループを見たのである。


 恋人持ちだったり、ほかのクラスにも友達が多かったり、比較的可愛い上に運動部のエースだったりと、学校生活を存分に満喫している華やかな女子が十人集まったそのグループ。

 見るからにスクールカーストの上位陣だけで構成されているというのがわかる。


 そして、藤ノ井舞魚――去年のミスコンテストで瑞姫を破った黒髪の美少女もその輪の中にいた。


 舞魚は、いつもどおりの美貌を保ったままで、事態の行方を見守っている。ほかの女子たちのように目を伏せて嵐が過ぎ去るのをひたすら待っているわけではなかった。


 ――涼しい顔しちゃってまあ。相変わらず、ムカつくぐらい美人なんだから――


 内心そう舌を打った瑞姫であるが、結局、顔色一つ変えることなく舞魚から視線を外す。


 そして。

「邪魔したな」

「お邪魔しましたー」

 圭介を引きずって雄吾と瑞姫が教室から消えると……やがて、舞魚以外の全員が深い深いため息を吐いた。


「ちょっと誰か、片桐先輩たちのあとつけてこいよ」

「馬鹿言うな。見つかったら殺されちまうじゃねえか」

「でも、雑魚筋肉の奴がなんで連れていかれたか……気にはなるよな」


 すぐさま、上級生二人が冴えないクラスメイトを連れていった理由の詮索が始まり、圭介の身を案じてくれる優しい人間など一人もいない。

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