虎と虎

 カツン。カツン。

 静かな道路を照らすヘッドライトにカナブンがぶつかっている。


「本当にこちらで下ろしてしまってよろしいのです?」


 黒塗りの国産高級車、その助手席の窓が開き――顔を出した茶髪の美女がすぐそばの歩道に声を掛けた。パンツルックのダークスーツ姿がいかにも津賀沼の部下らしいのである。


「ご自宅の前までお送りしますが」


 そう提案した美女の涼しい視線の先には、若い男女がいて。


「大丈夫。あとは歩きます。藤ノ井さんも、夜風に当たりたいそうですし」

「ありがとうございました。わざわざ車を出していただいて」


 右手に重傷を負った青年が、ふらつく黒髪美少女を抱き寄せる形で支えていた。


 とはいえ……その支え方にはだいぶ遠慮がある。黒髪美少女の腰に左手を回すのがはばかれるのか、指先を浮かせて、できるだけ接触面積を減らそうと苦心しているのだ。

 一方、黒髪美少女の方は、かなりしっかり青年に寄りかかっていた。


 微笑ましい高校生カップルの姿。


 美女は一瞬口元を弛めただけで、どうのこうのうるさく言うこともない。「わかりました。それでは良き夜を」なんて小さく会釈すると車の窓を閉めるのだ。運転席でハンドルを握っていた恰幅の良い男性がアクセルを踏み、黒塗りの車は驚くほど静かに走り出した。


 二人きりになってもしばらくその場から動かない高校生カップル。

 生ぬるい七月の夜に立ち尽くす圭介と舞魚の二人。


 やがて。

「はあ――風が気持ちええね……」

 心地良い夜風が西から東に吹き抜けていった。


 風音まで堪能できたのは、車の波が途切れ、辺り一帯に静寂が広がっているからだ。


 舞魚の美しい黒髪が風に踊り、圭介の鼻先に甘い香りを振りまいた。


「……うん……」


 周囲を見れば、二人にとって見慣れた光景が広がっている。


 ――私立芳凜高等学校近くのバス停――


 ここから始まる長い坂道を登り切れば、そこにあるのは二人が青春を送る学び舎だ。夜で昼間とは印象が違うとはいえ、間違いなく圭介と舞魚共通のホームグラウンドであった。 


『なあ本間くん。うち、学校が見たいんやけど』

 国産高級車の後部座席でいきなりそんなことを言った舞魚。


『その……色々あったし。今日はもう少しだけ一緒におれへんかな?』


 だからわざわざこんな場所で車を降ろしてもらったのだ。


「…………あの……」


 長い沈黙を嫌ったのか、先に声を上げたのは舞魚の方で。どんな言葉を紡ぐか、唇を震わせて散々逡巡した結果、「……怒らんの?」とだけ。


 圭介は、短い問いかけに何も思い当たらなかった。


「怒るって、何のこと?」

「……うちが、本間くんに何も言わんと、あんな場所に行ったこと」


 そこまで舞魚に言わせて初めて「ああ。そうか」と、ひどく納得したように喉を鳴らす。


「それを言うなら、僕も藤ノ井さんに黙って学校サボってたしね」


 察しの悪い自分のせいで舞魚自身に罪の告白をさせてしまった、そんな罪悪感を苦笑でごまかすしかない。


「良いか悪いかで言ったら――もやもやはするけどさ」

「堪忍え。もう二度とせえへんから」


 まるで懇願するかのような舞魚の謝罪。

 心底申し訳なさそうな声色に、圭介はそれ以上この話題を続けることができなかった。無言でしばらく考えた後、「少し歩こうか。歩けそう?」と静かに提案するのだ。


 返事はない。

 その代わり、舞魚は、学校に続く坂道に向かって頼りない足取りで歩き出した。

 三時間ほどぶっ通しで正座し続けた直後のような――これでもかと痺れ切った足でおそるおそる地を踏むような頼りない歩き方。たったの五歩に三十秒近く掛かってしまう。


 舞魚を支える圭介が思わず言った。

「やっぱり止めよう。今日はもう、家で休んだ方が良い」


 しかし即座に返ってきたのは「嫌や。絶対学校行く」という意外な強情っぱり。


「今日だけはどうしても、学校見ぃひんと一日が終わった気にならへんもん」


 それで圭介は心底困ってしまう。舞魚の思いは可能な限り叶えてやりたいが、彼女の身体にこれ以上無理もさせたくもない。


 だからこそ、「わかった。藤ノ井さんの気持ちは、なんか僕もわかる気がするし。僕も気が落ち着かない」と前置きしてから、こう言うのだ。

「だから、あの――藤ノ井さんさえ良ければ、僕がおんぶしようか?」


 舞魚はキョトンとした顔。とはいえ拒絶はしなかった。


「ええの? うち、見た目よりだいぶ重たいえ?」

「大丈夫だと思う。藤ノ井さん、百キロは絶対超えてないよね?」

「当たり前やん。そこまで筋肉詰まってへんわ」

「足腰には結構自信があるんだ」

「……ほんなら、お言葉に甘えますけど。あんな、右手は絶対使たらあかんえ」

「え?」

「怪我した手の上に乗ってる思たら、ひやひやするさかい。その――ただでさえうちが怪我させた右手やのに、これ以上悪なったら――」

「わかってる。その辺は上手くやるから」


 そして圭介がアスファルトの歩道に片膝をつく。

 Tシャツの広い背中。舞魚はおそるおそる圭介の背中に手を置き、ゆっくりゆっくり体重を預けていった。

 次の瞬間、圭介の両腕が舞魚の膝裏に回り、軽々と腰が持ち上がる。


「きゃっ」

 思ったよりもスムーズな立ち上がりに舞魚は慌てて圭介の首にしがみついた。


「……本間くん? なんや、おんぶ上手やない?」

「そりゃあ、筋トレする時とか、重り代わりに恭子を背負ってるから」

「あはっ。恭子ちゃんも難儀やなぁ」

「歩くよ? しっかり捕まってて」

「うん。スカートでおんぶはどうか思うけど。どうせ夜やし、誰も見てへんよね?」


 深めに前傾しつつ悠々歩き出した圭介。舞魚の右脚は右手首で上手く支えているから問題ない。折れた指に痛みが走ることはなかった。


 ズリ上がった白のフレアスカート。舞魚は最初、少し腰を動かしたりと、大きく露出した太ももを気にしていたが……歩かなくても勝手に進んでいくことの方が感動的だったのだろう。

「めっちゃ楽」

 思わず笑い声が出た。夜に染み入る美しい声で「あははっ」と笑った。


 そのうちに学校へと続く長い坂が始まり――圭介の歩く速度もほんの少し落ちたようだ。

 やがて、少しだけ力のこもった言葉が圭介の口からこぼれた。


「……でも……チョコレートが駄目なのは聞いてたけどさ……」

「まさかここまでとは思わんかった?」

「……そうだね」

「うちの、唯一にして最大の弱点やもん」

「病院とか行かなくても大丈夫?」

「心配いらんて。もう少し時間が経てば、多分、一気に抜けるから」

「わかるんだ?」

「そらわかるわ。何年この身体と付き合うてきた思てるん? 間違ってチョコ食べたんも一度や二度やないし。ほんま、良うなる時は一気に良うなるんよ。安心して」


 確かに、つい三十分前と比べて舞魚は桁違いに回復している。声色だけならばもう普段の彼女となんら変わるところはないだろう。やせ我慢や強がりではないと直感した。


 ――午後九時前――


 日曜日の夜だ。当然、学校の方から坂を下ってくる者はなく、学校の方へと登っていく車もない。圭介と舞魚の姿は夜のとばりに隠され、『彼氏が彼女を背負って登校する』という一種滑稽な行為は、二人だけの秘密であった。


 遠くの街灯の明かりを頼りに、一歩ずつ確実に歩を進める圭介。

 そんな彼の後頭部をじっと見つめていた舞魚であったが……ある瞬間ふと、その髪の毛に顔を埋めてみる。そして熱っぽい吐息と共に呟いた。


「汗臭い」


 舞魚の行為の意味を知らず、圭介は苦笑を浮かべるだけだ。


「ごめん」

「ちゃうから。嫌なわけやないの」


 舞魚が鼻先で後頭部に触れたまま喋るものだから、少しばかりくすぐったかった。


「うちね、本間くんの匂い、めっちゃ好きなんよ。初めて押し倒した時も思ったん。なんや、ずっと嗅いでいたい匂いやなぁて――」


 それで圭介は『あの日の屋上』で舞魚に馬乗りされた時のことを思い出し――僕もだ――長い黒髪から感じた香りの記憶に、今さらながら鼻を鳴らす。


「……せやから、本間くんは嫌いや……」


 舞魚がいきなりそんなことを口にしても、圭介は動じることなく坂を上り続けた。


「……うちやのうて、あんな人らと闘うんやもん……ほんま、うちの気持ち振り回すだけ振り回して、ひどいお人……」

「……ごめん……」

「助けに来てくれた時は、死ぬほど嬉しかったし。でも、死ぬほど悔しかった」

「……うん」

「だってな。さっきの本間くん、うちと神社でやった時とは別人やったやろ?」

「……かもしれない」

「うち、さっき初めて、ちゃんとした本間くんの空手見たいうか」

「……うん」

「うちの時もああして欲しかったいうか」

「……うん」

「身体がちゃんと動いとったら、ちゃっかり本間くんに飛びかかっとったかもしれへん」


 そうまで言われると、さすがの圭介も相づちを打つだけということができなかった。茶化すような声色ではなく、苦笑一つ伴わない言葉を返すのである。


「無理だよ。藤ノ井さんの相手しながら五人をさばくのは」


 すぐさま「ムカつく。絞め殺したくなるわ」と吐き出した舞魚だったが、鼻先で愛おしそうに圭介の後頭部を撫でただけ。圭介の首元で交差させた両腕に力をこめることはなかった。


 そして。

「はあ――っ、結構疲れた」

「堪忍な。うちが普通の子の重さやったら」

「やっ違――正直あんまり変わらないから!」

 ようやく見慣れた建物のシルエットが夜に浮かぶ。私立芳凜高等学校の四階建て校舎だ。


 圭介が背中から舞魚を下ろしてやると、舞魚は「あはっ。なんやめっちゃ懐かしゅう感じる」と閉め切られた正門へと歩いていった。


 先ほどよりも幾分軽い足取り。圭介は――本当に回復する時は早いんだな――なんてホッと胸を撫で下ろしたが、次の瞬間、あり得ないものを見てしまって思わず声を上げた。


「ちょ――ちょっと藤ノ井さん!? 何やってんの!?」


 正門に辿り着くなり正門をよじ登り始めた舞魚。

 圭介は面食らいつつも、「危ないって」慌てて舞魚に駆け寄るのである。


「こんな夜に学校やら来ることあらへんし。ちょう教室も覗いとこか思て」


 地上百八十センチ。正門上部に舞魚が片足を引っかけた瞬間、フレアスカートがめくれ上がり、長い脚を露わになった。


 舞魚のすぐ真後ろで困惑していた圭介が「あ、ずっ――」と妙な声を漏らしたのは、白い下着が一瞬見えた気がしたからだ。そしてそれと同時に、目から火花から飛んだからだ。


 顔面への衝撃は予期してなかった。まさか、正門を乗り越えようともがいた舞魚の足裏が顔に当たるとは……。


 顔を押さえた圭介が目を開けると、舞魚は正門の向こうの地面に尻もちをついており。

「ナイス足場♪」

 親指を立てて可愛くウィンクするのだった。


 圭介は苦虫を噛み潰したような顔で後頭部を掻く。今さらながらに言った。

「さすがにさ、学校に忍び込むのは良くないと思うよ?」


 舞魚は立ち上がりながら「圭介くんはついてきてくれはらへんの? 誰かに見つかって、怒られるんが怖いんどすか?」と尻についた砂を払い落とす。


 すると圭介も深いため息を吐いて、正門に取り付いた。

「手伝って。こちとら、右手まともに使えないんだから」


 そして――生徒二人を黙って受け入れた夜の学校。

 昔は宿直の先生が泊まり込んでいたと聞くが、ずいぶん前に大手警備会社の機械警備に取って代わられた。そんなわけで各廊下の天井には温度感知用の赤外線センサーが点在し、窓やドアの開閉を感知するマグネットセンサーまで完備している。


 普通、校舎に忍び込むことなどできるわけがないのだが……。

「日曜やのに職員室に電気ついてるわ」

 一階の職員室を外から覗き見れば、「……お疲れさんやね、田辺先生」若手の英語教師が一人、ノートパソコンに突っ伏して眠りこけていた。日々の授業に期末テストの作成、そのうえ男子バレー部の顧問、生真面目な英語教師に休日はないのだろうか……。

 とはいえ、圭介と舞魚にとっては都合が良い。


「ほんとに入る気なんだ」

「少しだけ。ほんまに少しだけやから」


 職員室そばの扉には鍵が掛かっていなかったし、警備システムもまだ起動されていなかった。

 この頃になると、舞魚の体調はほとんど普段どおりまで回復しており。


「ドキドキせえへん? たまには不良すんのもええもんですやろ?」

「僕はもう一週間もズル休みしてるし。これで先生に見つかったら、間違いなく生徒指導室行きだよ……」


 気が乗らない圭介の手を引っ張って真っ暗な廊下を行くのだった。


 日曜夜の学校はどこもかしこも夜の海のように暗く、静かすぎる。


 だからこそ。

「――ムカつく……あんな悪い男らに、ええようにされて……」

 二年四組の教室に向かう廊下の途中で、舞魚の涙声がはっきり聞こえた。

 何の前触れもなく震えた独り言、鼻をすすった音が、暗闇の中ゆっくり響き渡っていった。


「……藤ノ井さん……」


 何が舞魚の琴線に触れたのかは知らない。


 こんな真っ暗闇でもいつもと変わらない学校の匂いが先ほどの屈辱を呼び起こしたのかもしれないし、繋いだ手から伝わる圭介の体温が彼への罪悪感を刺激したのかもしれない。

 ようやくまともに動くようになった肉体が、不本意な敗北を拒絶しているのかもしれないし。

 藤ノ井舞魚という存在の奥底に潜む破壊衝動が、本来ならば思う存分暴れることができたはずの緊急事態を惜しんでいるのかもしれない。


 あるいはそれらすべてかもしれない。


「堪忍な、本間くん。ちょう待ってて――」


 不意に足を止め――――声を上げることなく静かに泣き始めた舞魚。


 圭介はしばらく動かないでいたが、闇の中、その顔は困惑と焦燥に沈んでいるわけではなかった。いつもと変わらぬ優しい眼差しで、舞魚のありのままをありのままに受け入れていた。


「行こう」


 舞魚の涙が涸れるのを待つことなく、左手で彼女の腕を強く引く。


 今来た道を引き返そうとした圭介に舞魚はほんの一瞬逆らったが、その瞬間も拒絶の声は上げなかった。結局は圭介の意志に従い、廊下に涙を落としながらついていく。


 そして大股で夜を突っ切った圭介。

 彼が迷いなく辿り着いたのは、屋上に続く階段であり――屋上と校舎を隔てる重たい鉄扉であり――青白い月明かりに満ち満ちていた屋上であった。


 太陽に比べれば極些細な光。

 しかし校舎内の暗闇に慣れていた圭介と舞魚には『明るすぎる』と感じられた光。


 屋上に出入りするための鉄扉が施錠されていなかった幸運よりも、誰に見られることもないのに屋上を照らし続けていた月明かりの方が遙かに上等な奇跡に思えた。


 淡く降り注ぐ月光をこんなにも美しいと思うなんて……。


 屋上の中央付近まで進み出て、圭介はようやく舞魚の腕を離す。


 奥にそびえる円筒形の給水タンク、四方を囲む高い金網フェンス――広い屋上を一通り見渡してから、静かに問うた。

「身体の調子はどう? もう、だいぶ動けるように見えるけど」


 舞魚が人差し指の背で涙をぬぐいながら微笑んだ。

「本間くんがおんぶしてくれはったおかげやね」


 月光に照らされた舞魚の美貌にはいつもと同じ色が戻っている。動きの一つ一つから気だるさが消え、屋上に連れてこられたことに首を傾げる仕草もとにかく美しいだけだった。


 すると圭介はもう一度舞魚の立ち姿を見直し、「そっか……」と小さく喉を鳴らした。


 それから左手一つで襟首を握ってTシャツを脱ぎ始めるのだ。慣れない片手作業にそれほど手こずることもなく、すぐさま上半身裸となった。


 Tシャツを背後に投げ捨て、素足にそのまま履いていたスニーカーも後ろに蹴っ飛ばし。

「なら、やろう」

 何でもないことを提案するかのごとく、力の抜けた声でそう言った。


 とはいえ圭介の行動の意図も言葉の意味も掴めず、キョトンとしかできない舞魚である。


「――――っ!?」


 完全に気を抜いていたから反応が遅れた。突如として距離を詰めてきた圭介に驚いて、何はともあれ猫みたく大きく横っ飛びする。コンクリートの地面で一回転して四つん這い。


 見れば、上半身裸の圭介が左拳をまっすぐ突き出していた。


 もしも横に飛んでいなければ、もしもあのまま突っ立ったままだったら……間違いなく顔面を打たれていたことだろう。


 舞魚は言葉をつくらなかった。抗議や問いかけの代わりに、四つん這いのまま頭を下げ、尻を持ち上げ、グルルルルル……と低く喉を鳴らす。


 まるで強敵に牙を剥く虎のごとき舞魚の姿。


 それで圭介は、「わからない? リベンジマッチだよ」と、あえて言葉で問われずとも舞魚の疑問に答えてやる。


「この前のこと、本当に申し訳なく思ってるんだ。初恋の人を失望させて、『あんな顔』をさせてしまったこと。だからね、次、藤ノ井さんと会った時はちゃんとしたいと思って――学校休んでる間に覚悟を決めてきた」


 すると姿勢を崩すことなく舞魚が圭介を睨み付けた。

「……覚悟やて?」


 圭介は何一つもったいぶることなく、苦笑や照れ笑いでごまかすこともなく、至極当たり前のことを伝えるようにはっきり言った。


「殺し合う覚悟だよ」


 両手を下ろして一見無防備を装いつつも、五体すべてから異様な気配を漂わせて言った。

「藤ノ井さんの期待に応える覚悟」


 優しい夜風が舞魚の黒髪を揺らす。

 沈黙の時間の中、明るい満月がゆっくりと天空に登っていった。


 やがて、おもむろに舞魚が立ち上がり。

「……………………」

 履いていたフレアスカートへと無言で指を伸ばすのだ。スカートを留めていた腰のベルトを外し、ストンと足元に落とした。


「ふう」


 肌を包むのはシンプルな白ショーツ一枚。下半身のほぼすべてが露わになったという開放感に、舞魚は思わず小さなため息を吐いた。笑いたいわけではないのについ口元が弛んでしまう。


 すると圭介は、何も言うこともなく屋上を囲む金網フェンスへと歩き。

 ガシャッ。

 ひんやりとした金網にもたれかかって、舞魚の肢体をまじまじ眺めた。


 圭介が離れる間に舞魚はスニーカーを脱いだらしい。また一つ露出度が上がっている。


 ……はたして、今日という夜が満月だったことを誰に感謝すればいいのだろう……。


 屋上に溢れかえった月明かり。

 昼の太陽とはまるで違う、輪郭をぼやけさせる弱い光。

 青白い世界に物体が浮き上がって見える魔性の光。


 ――乙女の柔肌を堪能するのに、これほど適した照明はない――


 圭介は思いがけない幸運を心から喜び、知らず知らずのうちに口端が上がってしまう。


「おっと――」


 しかしすぐに気が付いて、左手で自身の口元を握り潰した。

 口周りの筋肉を入念に揉みほぐしてから、舞魚にも聞こえるほどの大きなため息を一つ。


 ……やれ、どうにも浮ついているな……そう苦笑いしつつ、高さ二メートルを超える金網フェンスに裸の背中を押し付ける。


「……もう七月だってのに……少し、冷えてきたね……」


 静かな声でそう言って、空手の稽古で鍛え上げられた身体が腕を組んだ。固定具だらけで見るも無惨な右手だが、圭介自身、その取り扱いに細心の注意を払っているわけではないらしい。


 ひどく落ち着いたたたずまい。


 いつもは本間圭介を馬鹿にしているクラスメイトたちも、今の彼を見れば口をつぐむしかないだろう。人体破壊の技術を扱うのに必要十分な肉体、鍛錬の日々に裏打ちされた自信、歴戦の武人然とした立ち振る舞い――誰が今の彼を『雑魚筋肉』などと揶揄しようか。


 まっすぐな圭介の視線、不意に舞魚が困ったように笑った。


「そないまじまじ見られたら、うち照れるわ」


 すると圭介はゆっくりとしたまばたきを一つ。腕組みしたままの格好で、「今さらそれを言う? これから僕ら二人、他人様に言えないことをやろうってのに」なんて笑うのである。


 圭介の視線がくすぐったのか、思わず太ももの内側を一撫でした舞魚。

「そらそうかもしれへんけどね……ほんま、乙女心のわからんお人やね」


 そして――月明かりの下、ほっそりとした美しい指がいよいよ半袖シャツのボタンに触れた。


「まあ、ええけど。一度始まってしもたら、すぐえらいことなるんやろうし」


 真っ白なフレアスカートを脱いで濃紺の半袖シャツ一枚になっていた舞魚が、今まさにその一枚を脱ぎ捨てようとしていた。


 少しうつむき加減の美貌。


 首元から一つ一つボタンを外し。

「一応言うとくけど、はしたない娘て幻滅せんといてね。こんな肌見せるやなんて、本間くんが初めて。嘘やないえ」

 白磁のように輝く胸元を、柔らかそうな腹を、官能的な曲線を描く下腹部を圭介の前に晒したのだ。


 次いで、半袖シャツから丸い右肩が現れた。


「地味な下着やけど、堪忍え」


 そして左肩も。半袖シャツが舞魚の肌から離れ、彼女の手元で夜風にたなびく。風の吹き終わりに合わせて、フレアスカート同様、足元に落とされた。


「ちょい待って。靴下も脱ぐさかい」


 最後に黒い靴下が適当に背後に投げられ、黒髪少女の肌に残ったのは大きな胸を包むスポーツブラとシンプルなビキニショーツだけ。双方とも色は純白。


「ふふふっ。正真正銘、下着だけ。これで動きやすぅなった」

 あられもない格好にはしゃぐ舞魚は裸足でターンを決め。


「……やれやれ……ほんと、目に毒だ……」

 そう呟いた圭介は、突如として眼前に現れた美の女神に気が遠くなる思いだった。金網に寄りかかっていなければ思わず尻もちをついてしまったかもしれない。


 満月の下に立つ舞魚のなんと美しいことか。


 夜風に揺れた黒髪も、全校生徒を魅了する美貌も、すらりと流れた首から肩のラインも、谷間をつくるのに苦労しない胸も、女性的なくびれと丸みを帯びた腰回りも、適度な筋肉が付きつつもすらりと伸びた脚も――それらすべてから目が離せない。


 ……まるでネコ科の獣だな……。


 ……人型の虎だ……。


 へそを隠すように右腕で腹を抱いた舞魚を見つめ、圭介はそんなことを考えていた。


 華奢というわけでなく、当然、豊満というのも違う。あの一見均整の取れた肢体の内側には、その実、圭介以上の剛力を誇る『化け物』が息を潜めているのだ。


 ふと、舞魚が顔をほころばせて言った。華のような笑顔だった。

「楽しみやねえ。ほんまに、楽しみ」


 笑うこともなく圭介が短く応えた。

「そうだね」


 そして腕組みを解く。金網から背中を離して、一歩だけ前に出た。


 相対する本間圭介と藤ノ井舞魚。

 圭介は両手を下ろした自然体の姿勢で、舞魚は右腕でへそを隠したまま。


 長い沈黙の後――真顔に戻った舞魚が圭介を呼ぶ。

「……なあ、本間くん……」

 彼と視線を合わせないよう少しうつむいて、夜風にまぎれるような静かな声だった。


「なに?」


 遠く、大きな国道を行き交う車の音が聞こえる。


 しかし……圭介と舞魚は、学校の屋上から見える夜景を楽しむわけでもなく、手を繋いで寄り添うわけでもなく、お互いに肌を見せ合いながら三メートルの距離で向き合うのだった。


「その……ほんま堪忍え、うちの勝手に付き合うてもろて。どない謝ってええか――」

 耳横の髪を撫でながら舞魚がそう言いよどめば。


「いいよもう。大丈夫。もう、いいから」

 圭介の言葉は、幼い子供に語りかけるみたいに優しかった。


「僕が好きになった人は、ほんの少しだけ愛し方が変わってた。ただそれだけのことだよ」


 瞬間、舞魚が顔を上げる。

 少し驚いたような瞳で圭介の顔をまっすぐに見つめ。


「僕のこれまでの人生で藤ノ井さんの気持ちを満たせるなら、それでいい。覚悟はできてる」


 桃色の唇を震わせ。

 何か言いたげに、しかしすぐには言葉にできなくて。


 やがてたった一言――「ありがとうな」


 それと同時にその左頬を伝った一筋の涙。

 舞魚は濡れた頬をぬぐうこともせず、小さな微笑みを浮かべるのだった。ほんの少しだけ目尻を下げ、口元をゆるめただけの、今にも消えてしまいそうな儚げな微笑みを。


 最愛の男に愛を囁くかのように言った。

「殺してくれてもかまへんからね。うちも、その気でやるし」


 そして。


 …………………………………………………………………………。


 舞魚の言葉から三十秒後、圭介の返答は。


「おおおおおおおおおおおおおおおおああああああああああああああああああああああっ!!」


 空手家らしくない獣のごとき咆吼。顔面を野獣の形相に歪め、大口を開き、全身の筋肉を収縮させて、肺の中の空気を一滴残らず音に変える。


 嬉しくなった舞魚が途中で圭介の咆吼に加わった。

「があああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 そして――――二人、まったく同時に相手に飛びかかる。


 満月を背負って天空に跳んだ舞魚が繰り出したのは、『あの日』と同じ、飛び回し蹴りだ。

 対する圭介は、地に足を付けながらも月へと左手を伸ばした。


 ――手刀――


 尋常ならざる速度で迫り来る舞魚の蹴りに合わせて、まっすぐに切って落とす。


 激突の刹那――圭介も、舞魚も、思い切り歯を剥いていた。

 鬼のように、ではない。

 虎のように、牙を剥いて笑っていたのだ。


 ほとんど同時に互いに打ち込んだ飛び回し蹴りと手刀打ち。


「がっ!?」


 しかし打ち勝ったのは圭介の方だった。手刀と共に深く腰を落とすことで、側頭部を狙ってきた蹴りをかわし、一方的に舞魚の右胸を叩いた。


 舞魚が初めて喰らう本間圭介の全力。人より胸が大きめで本当に良かったと思う。多分、ワンカップ小ぶりだっただけでも、胸の骨を折られていたと思うから。


 渾身の飛び回し蹴りを打ち落とされて、コンクリートの地面に背中から叩き付けられる。


「ぶはっ」


 肺の中の空気が半分漏れ、それでも舞魚は硬直だけはしなかった。

 すぐさま身体を丸めると、開いた両足を振り回しつつ足先から真上に跳ね上がる。烏龍絞柱とも、スターフィッシュキックアップとも呼ばれる大技を決めた。


 舞魚の異常さは、そんな大雑把な技で圭介の顎を蹴り抜こうとした点にある。

 ちゃんとは見えていないはずなのだ。それでも、圭介が寸前で身を引かなければ、舞魚の変則蹴りは彼の意識を奪い去っていただろう。


 回転力を残したままの着地。当然、舞魚が生み出す暴風はまだ止まらない。

 右足の上段回し蹴り、左足の上段後ろ回し蹴り、更に五百四十度回転しつつの右の飛び上段回し蹴り――文字通りのトルネードキック。


「しい」


 圭介を三歩後退させた連続技に割って入ったのは、鉄槍がごときシンプルな中段前蹴りだった。鍛え上げられた圭介の上足底――足指の付け根――が舞魚のへそ下をえぐる。


「――っ!?」


 一瞬だけとはいえ腰が抜けたような感覚に襲われ、さしもの舞魚も止まるしかない。下半身に残された力を振り絞って、十メートル近いバックステップを踏んだ。


 片膝をついた舞魚。口元のよだれを手の甲でぬぐいながらも、圭介を見て不敵に笑う。

「べ、別人……っ」


 圭介も笑っていた。虎の威嚇顔を崩すことなく、普通に歩いて舞魚との距離を詰めるのだ。


 とはいえ、野獣並みの肉体を有する舞魚がこれで終わるわけがない。

 ふう――と一息つくと、「反則や。右手いわしてはるのに、そない強いやなんて。こないだの『腑抜け』と同じ人間とは思えへんよ」何事もなかったかのように立ち上がった。


「藤ノ井さんこそ。ついさっきまで半死半生だったとはとても思えない」

「言いましたやろ? 抜ける時は早い、て」

「……期待には沿えてるかな?」

「ええ感じですけど、まだ二発やし。うちを殺す気やったら、も少し気張ってもらえまへんと」

「正直硬すぎだよ。人間を打った感触じゃなかった」

「嫌やわ本間くん。いけずなこと言わはって」


 そう笑うと、拳を上げて構えた舞魚。

 脇を少し開け、両拳を耳の高さまで持ち上げたそのスタイルは、ムエタイの構え方に近い。というより、アクション映画フレイムオーダーの主人公、リック・カーターそっくりだった。


 圭介は相変わらずの『無構え』だ。自然体で立っているだけに見える。


「ふふふ――」

「何?」

「どつき合うんがこない気持ちええやなんて、不思議やな思て。本気でぶって、本気でぶたれて。なんや、本間くんと繋がっとる気、するんよ」


 圭介は言葉を返さなかった。いや、返す暇がなかった。アップライトに構えていたはずの舞魚が、何の前触れもなく低空タックルを仕掛けてきたからだ。


 極端すぎる上下動に舞魚が消えたかのような錯覚を覚えるが、圭介は冷静に腰を落とした。


 足に抱き付く寸前だった舞魚のこめかみに左の鉤突きを合わせる。

 ゴッと鈍い音。十分な手応え。


 とはいえ――――次の瞬間に跳ね上がったのは、なぜか圭介の頭だった。眉間に舞魚のつま先が刺さったのである。


 低空タックルを圭介の鉤突きに潰された刹那、頭の位置はそのままに背中を反り返らせた舞魚。バレリーナのアラベスクのような、サソリの尻尾のような、あり得ない体勢から圭介の顔を蹴ったのだ。


 意識外からの攻撃に反応できるわけがない。

 藤ノ井舞魚ほど頑丈なわけでもない。


「ち、い――っ」

 よろめいた圭介は思わず片膝をつき、頭を振る。何はともあれ歯を食い縛って顔を上げた。

 そして、今まさに握り拳を振り下ろさんとする舞魚を見た。本当に嬉しそうに笑っていた。


 すると圭介も彼女につられるようにかすかに微笑み。

 ――すぅ――

 指を開いた左手、指を伸ばした形で固定具をはめられた右手を、顔の高さまで持ち上げる。


 まずは振り下ろしの右ストレートを左手でさばいた。さばくと同時、後ろに身を引きながら立ち上がった。


 とはいえ、拳一つスカされたからといって舞魚のラッシュが止まるわけがない。

 むしろ、「がっああああっ!!」続く連撃の突進力が増すだけだ。すぐさま左フック、右のボディブローが飛んだ。


 対する圭介は反撃することもなく――――――ひたすら柔らかく、時には頬や脇腹にかすらせながら、舞魚の拳を弾き、はたき落とし、受け流し続けるのである。常に舞魚の視界の中に陣取って、じりじりと後ろにさがっていくのである。


 広いとはいえ限りがある屋上。フェンス際に追い詰められないのは、円を描きつつの後退だからだ。踏み込んだ右ストレートをぎりぎりでかわしたと見せて、その実、横に回っている。


 あと少しで絶対当たる。

 一発でもクリーンヒットすれば、それだけで勝負が決まる。


 もはや舞魚自身ですらコントロールしきれぬほどに回転数を増した左右の滅多打ち。舞魚のスピードと相まって、如何なるカウンター技も入り込む隙はなかった。そもそも圭介が拳を握る時間だって存在しないのだ。


 あと少し。あと少し。あと少し――っ!!


 しかし本能任せに腕を振り回していた舞魚は、とある瞬間、拳の大乱舞に巻き込まれんとする圭介の呟きを聞いた気がした。


「斬拳、蟷螂」


 悲鳴やうめき声ではない。意味はわからなかったが、何か『技の名』のようにも聞こえた。


 刹那――拳を振り抜いた舞魚の顎先がカツンッと揺れる。


 カウンターと呼ぶにはあまりにもか弱い接触。舞魚が前のめりで空手家を仕留めにかかったその瞬間、圭介の指先が顎をかすめたのだ。


 たまたまかもしれない。それでも顎を揺らされた舞魚は脳震盪を起こし、瞬間、完全に意識を断ち切られた。

 視界を失い、思考を失い、身体感覚のすべてが舞魚の元から消え失せる。


 ――――――ダンッ!!


 つんのめって倒れるはずだったのに、寸前で足が出たのは、『藤ノ井舞魚の愛情深さ』が成せる業だろう。本間くんの覚悟にうちが応えんでどうする――そんな舞魚の熱情が、断ち切られた意識を無理矢理たぐり寄せたのだ。


「があ――っ!!」


 短い叫びと共に身をひるがえして拳を放った舞魚。寝起きに放った運任せの右ストレートだったが、幸運にも圭介の顔面ドンピシャリだった。当たりは浅いものの、「ぐがっ」追撃を狙って踏み込んできていた圭介の顔を捉えた。


 素早く拳を引くなり右ストレートをもう一発。今度は殺す気で打ち込んだ。


 とはいえ圭介はさがらない。

 即座に最高速度に到達する独特の歩法で、更に深く踏み込んだのである。顔面狙いの拳を紙一重でかわして、舞魚の背中に回った。背中合わせだ。


 流拳・羽衣。


 そして――――圭介が舞魚の首筋に打ち込んだのは、命すら奪いかねない右肘だった。


「あっぶな!」

 嫌な予感を感じた舞魚が前方に飛ばなければ、圭介の肘打ちは舞魚の頸椎を粉砕していただろう。良くて再起不能、最悪死亡。試合やじゃれ合いに使う技ではなかった。


 死闘。


 それを理解し合っているからこそ、圭介は『死を招く技』を解禁したし、舞魚だって生まれて初めてと思えるほどに深く深く力を込めているのだ。


 その結果、大切な恋人を殺してしまったら…………そんなこと、今は知ったことではない。


「がああああああああああああああああああああああああっ!!」

「おおおらあああああああああああああああああああああっ!!」


 圭介は『本間圭介が人生を費やしてきた空手』を舞魚に見て欲しかったし、舞魚は『藤ノ井舞魚という獣のすべて』を圭介に受け止めて欲しかった。


 そして咆吼の末に始まったのは、壮絶な叩き合い。


 大きく振りかぶったオーバーハンドパンチと共に飛び込んできた舞魚を、圭介が中段回し蹴りで迎えたのである。


 どんな技だって届く至近距離――幾多もの突きと突きが交差する。

 放たれた蹴りと蹴りがお互いの身体の感触を堪能する。

 圭介と舞魚の短い呼吸、二人の奏でる鈍い打撃音が幾重にも重なり合う。


「しぃ!!」

 舞魚の左フックを右腕でガードした圭介が、鋭い下段回し蹴りで裸の内ももを蹴り抜いた。その後の正拳上段突きはスウェーバックでかわされたが、「うぐ――っ!?」更に一歩踏み込んで放った膝蹴りが舞魚の脇腹を深くえぐる。


 一方。

「があっ!!」

 舞魚はもうクリーンヒットなど狙っていなかった。右ストレート、左フック、上中下段の回し蹴り、飛び膝蹴り、飛び後ろ蹴り。例えガードされたとて、ガードの上からでも効かせることできる攻撃の数々が彼女にはある。今だって必殺の上段回し蹴りを両腕で防がれたが、その結果、圭介は口から血を流す羽目となった。


 圭介は常に攻防一体。

 舞魚は攻撃に全身全霊、防御は肉体に備わった反射神経頼み。


 二人とも、距離を取って相手の隙をうかがうことは一切なかった。常に手の届く位置にいて、その場その場で最も威力が出るであろう技を繰り出していた。


 戦況は一進一退。やがてそのうち――

「ぶっ」

 ほとんどたまたま、単発で振るわれた舞魚の左フックが圭介の顔面を直撃する。


 圭介の顔から汗とよだれが散った。


 何しろ固く握られた舞魚の拳だ。どんな攻撃だろうと軽い一撃ではない。圭介の視界に星が飛び――――しかし圭介は崩れ落ちなかった。

 真っ白に染まった世界、その中で唯一黒く見えた『宝石』に左手を伸ばしたのである。


「痛っ」


 それは舞魚の胸元に落ちていた長い黒髪で、思い切り引き寄せて一瞬身体を支えた。その上、目の前にやって来た舞魚の側頭部に右の肘打ちを叩き込んだ。


 結局、起死回生の肘打ちは舞魚の左腕に防御されて決まらなかったが。

 ガシャンッ。

 圭介はまだ立っている。二、三歩よろめいて手近な金網フェンスに身体をぶつけたものの、まだまだ問題なく闘える。深呼吸一つでほぼ百パーセント意識を回復させた。


 休むことなく金網フェンスから飛び退る。

 千載一遇のチャンスを逃すまいと舞魚が突っ込んで来ていたからだ。


 空を切った舞魚の右拳が勢い余って金網フェンスを叩いた。そして、その拳の常軌を逸した威力にフェンスの穴がねじ曲がり、手首までズッポリはまってしまった。


 ガシャンッ!!

「あぐっ!!」


 次の瞬間、圭介の鉤突きが舞魚の背中を貫いて、彼女を金網フェンスに叩き付けた。


 それで、フェンスの穴から無理矢理腕を引き抜くなり、大きく後退した舞魚。「はあー。はあー。はあー」なんて荒い呼吸と共に、「ぐ――う」強く腹を押さえるのだった。


 舞魚の背中に突き刺さった圭介の鉤突き。

 あの瞬間の衝撃が、いまだ内臓を駆け巡っている気がした。


 そもそも、打撃箇所がどこであれ、突きであれ、蹴りであれ――圭介の攻撃は、一々すべて、舞魚の内臓に響き渡っていたのだ。


 いくら頑強な肉体だといっても、決して潰れぬ内臓など存在しない。先ほどの背中への一撃で、内臓に蓄積されたダメージが一線を越えただけのこと。


 どれだけ気を張っても下半身に力が入らない。

 どうしても足が前に出ない。

 少しでも集中が逸れると身体が勝手に丸まろうとする。


 それなのに――だ。

 それなのに舞魚は、もう一度ファイティングポーズを取った。ムエタイにも似たアップライトな構え。彼女の愛するアクションヒーローがどんな窮地でも使い続けた構え。


「……あの。ほんまに悪いんやけど……本間くんから来てくれはらへん……?」


 そして圭介は、この期に及んでも両手を下げたままだった。

 決着が近いことは理解しつつも、油断など一切ない。舞魚の打撃を受け続けた両腕は歪に腫れ上がり、赤黒く色付いていたが、その戦闘力に陰りはないだろう。


 一歩、二歩、三歩と――普通に歩いて舞魚との距離を詰める。


 もう少しでお互いに拳の届く距離。


 必殺の拳が届く直前で静かに向き合った圭介と舞魚は、さながら時代劇の剣豪同士、西部劇のガンマン同士のようでもあったし……満月の下、愛を語り合う恋人同士のようにも見えた。


 沈黙の後――――――先に動いたのはやはり圭介の方だ。


 一拍遅れて、舞魚も最後の力を振り絞った。圭介が一歩で最高速度に到達したのを確認すると、彼の空手の腕前を信頼して拳を振り抜くのだ。


 舞魚の拳が向かう先は眼前の虚空であり。

「が、あ――っ!!」

 まばたきの間に懐に入り込んでくるであろう圭介の機先を制そうとしたのである。


 本間くんならきっとうちの期待に応えてくれる――と、常人相手ならば、かすりもしない早いタイミングで拳を打ち込むのである。


 しかし圭介がやってのけたのは、舞魚の想像が及ばなかった領域の動きだった。


 『破れかぶれの一撃』に打たれると直感した刹那、踏み込んでいた足の指のすべてで無理矢理地面を掴む。そしてそれと同時、膝を開きつつ重心を一気に後ろに引くことで、『前進するための速度』を『腰を落とす速度』へと置換したのだ。


 結果、圭介は大きく膝を開いた構えで急停止することになり――舞魚の拳は空を切った。


 虚拳・残月。


 拳の打ち込みをわざと遅らせる技術であった。

 そして、空振りで舞魚の体勢が崩れきるのを待って、「ふんっ!」満を持して圭介の左拳が舞魚のみぞおちに突き刺さる。深々と突き刺さってから、手首を回して彼女の腹筋をえぐった。


「――――――――――」


 いよいよ立つことすらできなくなった舞魚。深く腰を落とした圭介の肩にもたれかかると、その耳元でこう囁くのだ。


「堪忍、え。これで最後やから」


 どこか満足げな口振りにハッとした圭介。見れば、左手首を舞魚の両手に掴まれている。


 舞魚が――――圭介の首に噛み付こうと桃色の唇を開いた。


 そして、舞魚の綺麗な歯が圭介の首の皮膚を裂こうとしたその時だ。今の今までまともに使われることのなかった圭介の右手が、舞魚の脇腹にあてがわれた。


 寸勁。


 圭介の下半身から発生した衝撃力が、右手を伝って舞魚の体内で暴れ回る。内臓を叩き潰し、揺らし回り、思う存分にひねり上げた。


「がは――っ」


 やがてその衝撃は肺まで伝わったらしく、舞魚の口から空気が吐き出される。


 散々痛めつけられてとうとう完全に力が抜けた舞魚。もはや圭介の首に噛み付くこともできず、彼の身体に沿ってずり落ちていった。

 圭介の足元にぺたんと座り込むと………………心底疲れ切った顔、しかし長年の憑き物が落ちてスッキリしたような顔で、圭介を見上げるのだった。


「…………………………うちの、負け……」


 圭介は、寸勁を放った体勢のまま、微動だにしていなかった。石像のように固まり、舞魚を見下ろすことも、声を掛けることもなかった。


 そのうち。

「ほんまに空っぽ。もう、腕一本、上がらしまへん」

 自らの頭を支えることさえもおっくうになった舞魚が圭介の脚に頬を寄せたところで。


「……痛っ……てぇぇ……」


 ようやく圭介がうめき声を絞り出す。左手で右の手首を強く握り、そのうえ思い切り歯を噛みしめることで、右手由来の激痛をこらえるのだった。


「やっぱり右手駄目だ。寸勁一発でこんな響くかぁ……」


 舞魚がキョトンとして、「あの――大丈夫です?」首を傾げた。


 やがて……大きな大きなため息を吐いた圭介。

「大丈夫か、大丈夫じゃないかで言ったら、大丈夫じゃない。右手は痛いし。顔も痛いし。全身ズタボロだよ」

 そう苦笑いしながら、その場に腰を下ろしてあぐらを組むのである。


「藤ノ井さんは? その、怪我とか」


 緊張感のない圭介の言葉に舞魚もくすりと微笑んだ。


「いちいちはわからへんよ。それに、うちがどこ痛めてんかは、本間くんの方がよう知ったはるんやない? うちを滅多打ちにしはったんは本間くんなんやから」

「……ごめん……」

「何がごめんやの?」

「いや……何かその、色々と」

「阿呆やなぁ本間くん。本間くんが謝ることなんか一つもあらへんえ」

「……何回か、本気で殺そうとした」

「……そんなんうちもや。殺す気でやるから、うちも殺してくれてかまへん言うたやん」


 すると圭介は何とも微妙な顔を浮かべ、「そんなこと言わないでよ。初恋が悲劇に終わるなんて、冗談じゃない」と、血に濡れた唇を噛むのだった。


 舞魚が圭介の左手を両手でそっと包みながら言った。

「……堪忍え……うち、ほんま悪い女やね。本間くんの気持ちやら何も考えんと」


 あれだけの死闘の直後だというのに、闘いの前とまったく同じ綺麗な顔の美少女。変わったところと言えば、多少黒髪が乱れたぐらいだろう。月光の下、色っぽい下着姿で優しく微笑んでいる。


 その美しさに目が離せなくなった圭介。夜風を浴びたまま舞魚と見つめ合い、まばたきし合い、微笑み合うのである。自分が笑うと、彼女が笑みを返してくれることが心底嬉しかった。


 ――――――――――――――


 誰も知らない秘密の死闘の後、沈黙が陳腐化してしまうほど静かに向かい合っていた二人。


 やがて圭介が、ポツリと……しかし心のすべてを込めて言うのである。どうしても舞魚に聞いてもらいたい言葉があって、こんなに月が綺麗な夜ならば届くかもしれないと思った。


「大好きです、藤ノ井さんのことが。お願いします、僕と付き合ってください」

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