虎が酔って、鬼が来る

「痛い痛い!! だから痛ぇって!」


 坊主頭のチンピラが甲高い悲鳴を上げても、舞魚は彼の手の甲をテーブルに叩き付けない。


 テーブルから三センチ浮かせた状態で彼の右手をじわじわ握り潰して、可能な限りの痛みと恐怖を与えていくのである。このまま力を込め続ければ、坊主頭の右手を使い物にならない肉塊に変えることだってできた。


 テーブルの上で行われている腕相撲。勝負にもならない一方的な力比べ。


 五人もの男のうざったい力自慢を軽くあしらった美少女の姿に、今日が初対面のひなっちは我が目を疑い、親友を自称する萌奈でさえ興奮して舞魚の背中をバシバシ叩くのだった。


「これで五人抜き! 凄すぎだよ舞魚!」


 腕相撲の始まりは、ビールを飲み干した金髪ホスト風の男が『舞魚ちゃんもいいけどさ、そっちのちっちゃい子も可愛いよな。結構オレ好みだわ』なんて萌奈を見てニヤニヤ笑ったこと。


『少しお話ししようよ。名前なんつーの?』

 そう言いながらデリカリーの欠片もない大きなゲップ。


 萌奈がビクリと震えて本気で怖がったから、舞魚が『ダメですよ。この子とお話ししたいなら、ちゃんと私を通してください』と萌奈を庇ったのだ。


 それから、わざと挑戦的な微笑みを浮かべ、『私に勝てたら、話すの許可してあげます』肩に掛かった黒髪をはらはらと撫で落とす。その妖艶さと強気に男たちが大いに盛り上がった。


『ひゃはっ! 舞魚ちゃんが? オレらに勝つ?』

『女子高生が言うねえ』

『で? 何の勝負よ? まさかじゃんけんとか、シラけたこと言わねえよな』


 すると舞魚はおもむろに前屈みになって、テーブルの上に右肘を置いた。そして、薄笑みを浮かべながら五人の男を軽く見回した。

『これで』


 このやり取りがつい十五分前のこと。『なに下手な演技こいてやがる。美人相手だからって手ぇ抜いてんじゃねえよ』などと第一の犠牲者――金髪ホスト風の男――を笑っていた他の四人も、舞魚の剛力無双に散々もてあそばれて身の程を知っただろう。


 痛めつけられた右手を大事そうに抱えながら、お互い顔を見合わせるのである。さっきまでの威勢も、酒による後押しも消えて、恐怖と困惑が彼ら五人の表情を支配していた。


「再戦したい人がいれば、受け付けますけど……?」


 身体を起こして姿勢を正す舞魚。しかし、ウーロン茶のグラスに口を付けた瞬間、思わずふっと鼻で笑ってしまった。ウーロン茶一口で湿らせた唇を舐めてから。


「なんや。『へげたれ』ばっかりやない」


 そう小さく独りごちる。思わず口をついて出た悪態に「あ、ごめんなさい」舞魚は唇を押さえるが、『へげたれ』という言葉を『いくじなし』『だらしがない』と解せる者はなかった。


 なんだかよくわからないが馬鹿にされた――それぐらいはわかっても、もう一度腕相撲を挑む度胸はない。


「んだよ、女子高生なんかに全敗しやがって。だらしねぇぞ」

「うっせえ。お前もだろーが」

「いつもの喧嘩自慢はどうしたよ?」

「はあ? 別にオレぁ腕力じゃあ売ってねえし。喧嘩で重要なのはハートだからよ」

「ま。女の子には優しく、がオレたちのモットーだし。全力発揮すんのはベッドの中ってのが、真の男ってもんだろ」

「あーもう。せっかく舞魚ちゃんの手ぇ握れたのに、感触、全っ然記憶に残ってねえ」


 男同士そう強がって、それぞれのジョッキに残っていたビールを一気飲みするぐらいが関の山だ。「マスター!! レモンサワー全員分!!」ヤケクソ気味にそうキッチンに呼びかけると。


「叫ばなくても聞こえるよ。すぐ用意してやるから、これでも食ってろ」


 キッチンから出てきた金髪中年が持ってきたのは、スパイス香るカレーライスだった。


 一人一皿。当然、舞魚や萌奈、ひなっちの前にも、大盛りのカレーライスは運ばれる。


 舞魚が苦笑いしながら言った。

「あの。さっきからお料理の量、多くありませんか?」


 スプーンを手にしたドレッドヘアの大男がしたり顔で応えた。

「いいから食ってみなよ。マスターの特製カレー、マジ絶品だから。食わねえと損よ?」


 どこか不穏な合コンのスタートからもうすぐ一時間半が経とうとしている。


 その間ずっと萌奈とひなっちは萎縮しっぱなしで、舞魚は男たちの好色な視線に晒され続けて――何一つ楽しくない女子高生三人は、どうにか帰れそうな機会をうかがい続けてきた。


 まあ……ええかげん頃合いやろか……?


 そう思った舞魚が、男たちの顔色を見ながら苦笑で伝える。

「それじゃあ、カレーいただいたら、私たちはそろそろ。もうお腹いっぱいですし」

「はあ!? うっそだろう!? まだまだこれからじゃん!」

「でもお腹いっぱいで――」

「あんさ、オレらもっと舞魚ちゃんたちのこと知りたいわけよ。今日集まった男全員、割と無理して来てんだからさ」

「そうそう。オレなんか、大事なバイトサボって来てんだぜ」

「おめーのサボりはいつものことだけどな。なあ、頼むよ。もうちょっとだけさあ」


 ソファの隣に座る茶髪ホスト風に強くせがまれ、舞魚は困り顔だ。無理矢理愛想笑いを浮かべつつ、「なら、また腕相撲で決めるというのは? 次は両手でやってもらってもいいですから」スプーンを手に取った。


「――――」

 瞬間、男たちがまた何か言い出しそうな気配を察し、萌奈とひなっちが助け船を出す。


「ご、ごめんねぇゆーくん。あんさ、ウチら塾の宿題やらなくちゃいけないし」

「あんまり遅くなるとママが心配しちゃう」


 二人ともさっきの腕相撲を間近で見ていたのだ。数という点では男たちに分があるが、腕力ならば舞魚の方がずっと上――それで、男たちに少しだけ強く出ることができたのだろう。


 しかし……カシャンッ。


 突然、耳障りな金属音が響き渡り、驚いて首を回した萌奈とひなっち。


「あ、あれ? なんやのこれ。ふわふわするん、やけど――」


 いきなりひたいを押さえて頭を振る舞魚の姿に、意味がわからなくて言葉を失うのだ。舞魚の手にしていたスプーンが、硬い黒石の床に転がっていた。


 明らかな舞魚の異変。


 しかしそれを見つめる五人の男たちにたいした驚きはなく、ドレッドヘアの大男はカレーを口に含んだまま、もごもごと言葉を吐き出すのである。

「驚いたな。もう薬入れてもらったのか」


 坊主頭のチンピラがスプーンでカレーを崩しつつ、「オレぁ知らねえ」と短く言った。


 反応したのは、金髪中年からレモンサワーを受け取っていたイケメンの裕也だ。

「あ、それオレな。オレがマスターに頼んでチョコ入れてもらったの」


 茶髪ホスト風が机に並べられたレモンサワーのグラスに手を伸ばしながら問う。

「チョコぉ? 薬じゃねぇんだ?」


 裕也は、レモンの爽やかな香りと炭酸の喉越しを一口分堪能してから。

「ああ。なんか舞魚ちゃん、チョコですんげー酔っ払うってひなたに聞いてたからさ、本当にそうなのかなって思って。カカオ九十五パーセントのチョコ、大量に入れてもらったわけ」

 人好きのする無邪気な笑顔を仲間たちに向けた。


「んなもんで酔っ払う女なんていんのかよ? しかも、食ってこんなすぐ」

「知らないけど。アレルギーの一種なんじゃない?」


 不可解そうな目で舞魚を見る金髪ホスト風だが――力なくソファにもたれかかった舞魚は、右腕で顔を隠そうとしつつも、とろんとした目、紅潮した頬を隠しきれないでいた。


 一気に力が抜けて首がすわらず、「――あんた、ら――なんて、ことを――」ソファの背もたれ上部に沿う形で天井を仰いでいる。半開きの唇から熱っぽい吐息を吐いた。浅く速い呼吸に合わせて、ボリュームのある胸が小さく上下していた。


「舞魚! ちょっと舞魚!? 大丈夫!?」

 舞魚の肩を強く揺すって悲鳴のような上擦り声を上げる萌奈。 


 ひなっちも「藤ノ井さん! 誰かっ、助けを――」と周りを見回し、しかし眼前の男たちは当てにならないと思ったのだろう。スマートフォンを手にすると即座に画面を叩くのだ。


「ちょ――っ。止めろよひなたぁ! ……そういうの、NGだってのわかるだろう?」

 とはいえ結局、どこかに通話が繋がる寸前、テーブル対面から身を乗り出してきた裕也にスマートフォンをもぎ取られてしまうのだけれど。


 顔見知りのイケメンがあんな乱暴に手を出してくるとは微塵も思っていなかった。


 驚いたひなっちは、愛用のスマートフォンの電源が落とされ、カウンターの方に投げ付けられるのを半ば呆然と見守るしかなく。

「お前の役目は舞魚ちゃん連れてくる時点で終わってんだよ。オレらの邪魔すんじゃねえブス」

 そんなことを言われても文句の一つすら出て来ない。萌奈が揺すってもほとんど動かない舞魚を青ざめた顔で再び見るだけだ。


「ひゃは♪ 死んでる舞魚ちゃんも色っぽいなあ。興奮してきた」

「どうする? 念のため追加で薬も飲ませとくか?」

「いらねえよ。ヤクだってタダじゃねえんだ。こんだけへばってんなら十分だろ」

「なあ、お前ら。オレのファインプレーに拍手は?」

「はいはい。裕也様はスゲーよ。実際、どうやって潰すかがキモだしな。酒飲ませるにしろ、薬盛るにしろ」


 明るい声で会話しながらソファから立ち上がった五人の男たち。


 ドレッドヘアの大男が一人、店の扉まで歩き――カチャン――鍵を掛ける。


 残る四人は勝ち誇ったような下卑た笑みで、ソファに沈んだ舞魚、そして彼女の名前を呼び続ける萌奈を見下ろしていた。悔しそうに男たちを睨みながらも力の入らない舞魚の美貌、うっすらと涙を浮かべた萌奈の怯え顔が、彼らの加虐心を刺激するのである。


「さて、てめぇら。仕事の時間だ」


 坊主頭のチンピラがそう言うと。


「今回は合コンの時からずっと隠し撮ってんだっけ?」

「おう。あれはあれでちゃんと需要あることがわかったからな」

「世の中何でも金になるもんだ。『本番』だけじゃなく、前座からノーカットの方が、値段が跳ね上がるなんてさ」

「ひひひっ。オレらの顔にモザイク掛けねえといけないし、一手間二手間かかるけどな」


 裕也、茶髪ホスト風、金髪ホスト風が、明確な目的を持って店内を動き始めた。一度トイレに入って最新の手持ちビデオカメラ、照明機材を引っ張り出すと、それを手際よくセッティングしていく。LEDの白い光が、ソファから動けない女子高生三人を色鮮やかに描き出した。


「てめぇら、いつものだ。そろそろ被っとけ」


 そう言って坊主頭のチンピラが持ってきたもの――それは、茶色い紙袋を利用した覆面。


「これこれ。これがなくっちゃな」

「気合い入るねぇ」

「変身っ、つってな」


 両目の部分にだけ適当な穴が開けられており、ただ被るだけで正体を隠してくれる。その上、少し動くだけでガサガサ鳴ったり、吐息が熱っぽくこもったりと、見た目以上に不気味な雰囲気なのだ。男たちが少女三人を恐怖の底に叩き落としたいのなら、もくろみは成功だろう。


「気合い入れて良い画撮れよ。今回、予約スゲーんだからな」


 厨房から顔を出した金髪中年。紙袋を被った男五人にそう声を掛けると、さっさと厨房の奥に引っ込むのだった。


 ――味方などいない――


 ――助けてくれる大人なんて誰もいない――


 罠にはめられたこと、そこから逃れる術がないことが明らかになった今でも舞魚は気丈で。

「萌奈。ひなたさんとあっち行っとき。大丈夫、ちゃんと帰れるから」

 朦朧とする意識に頭を振りながらも、最後までクラスメイトを気遣うのである。


 少しだけ身体を起こし、紙袋の男たちを見据えて言った。

「あんたらも、目的はうちですやろ? 頼むし二人には手ぇ出さんといて」


 しかし。

「うるせえよ。誰をどうするかはオレらが決めることだ」

 そんな美少女の自己犠牲も、五人の暴漢にとっては考慮する必要のない些末なことだ。


「こっちの小せぇガキは映りも良さそうだし、ロリコンに高く売れそうだな」

 紙袋の内側でそう笑って……テーブル越しに萌奈に右手を伸ばす。


 その時だ。

「やめえっ!!」

 舞魚が動いた。萌奈に伸ばされた右手を思い切り弾くと、即座、萌奈とひなっちを両脇に抱えてソファの背もたれ上部を蹴り付けるのである。


 強靱な脚力と背筋力で跳び上がり、フレアスカートをひるがえしながら大股で壁を一歩、二歩、三歩――猫のごとき俊敏さで店内最奥の壁を走り抜けた。


 そのまま、何の反応もできなかった男たちの背後に回る。


「なんだ今の!?」


 紙袋の覆面で狭くなった視界では、舞魚の壁走りはほとんど見えなかっただろう。驚愕の声を上げたのも舞魚が床に着地した後だった。


 舞魚の跳躍力だと店の出入口まで五歩以内。


 当然、少女二人を抱えていても余裕たっぷりに逃げ切れる――――はずだった。普段の舞魚ならば。せめて、インフルエンザの高熱で寝込む程度の体調だったならば。


 ガラスが割れるような強烈な物音。


 振り返った男たちが見たのは、「あ……ぐ、ぁ……」カウンターに並んでいたスタンドチェアをなぎ倒して横向きに倒れた舞魚だ。加速した瞬間に下半身の感覚を失い、そのままカウンターの足元に突っ込んだのだが、自分の身体を盾に萌奈とひなっちには怪我をさせなかった。


 震える手を床について、「……まだや……まだ……っ」ゆっくり起き上がろうとしている。


「囲え! 逃がすんじゃねえ!」


 ドスの効いた号令に紙袋の男たちが動いた。


 瞬間的だが異常な運動神経を見せた舞魚を警戒してか、不用意には近づかない。しかしスタンドチェアが散らばったカウンター前を取り囲み、用心深く腰を落とすのだ。


「舞魚っ! 舞魚ぁ! もういいからっ、それ以上動いたら舞魚が!」

「ごめんなさい! ウチが二人を誘ったせいで!」


 舞魚は、いよいよ涙をこぼした二人の少女を背中に庇いつつの四つん這い。まるで子供を守る母虎がごとく、牙を剥き、わずかに残る力のすべてを四肢に込めて紙袋五人衆を威嚇した。


 そして。

「がぁっああああああああああああ――――――っ!!」

 舞魚の唇から放たれたのは、必死の抗議でも、苦し紛れのほのめかしでもない。ただの咆吼だった。


 極上の美少女とは思えない気迫に、さしもの悪漢たちも怯む。


 気後れすることなく動けたのは、ついさっき舞魚に右手を弾かれた紙袋男だけだ。中身は坊主頭のチンピラだが――今は、左手で右手を強く握っており、もしかしたらさっき手を弾かれた時に負傷したのかもしれない。


 獲物の女なんかにやられた。痛手を負わされた。


 そのことが彼の自尊心に火を付け、舞魚への恐怖・警戒を吹き飛ばすのである。


「てめえはオレらにヤられんだよ!! いちいち抵抗しやがって!!」

 そうわめきながら舞魚の頭を左手で鷲掴んだ。そのまま力いっぱい床に押し付ける。


 チョコレートに運動能力を奪われている舞魚は、四つん這いの維持だけでぎりぎり精一杯。男の腕力に抗う力はもう残っていなかった。


「く――はぁ」

 呆気なく押し潰されて、冷たい床に頬を付ける。


 紙袋の中、坊主頭のチンピラが満足げに笑った。袋の穴から覗く両目が愉悦に歪んでいた。

「一応聞いといてやるよ。初めてか?」


 舞魚はもはや声も出せなくなりつつあったが、最後の意地を張って強く喉を鳴らすのだ。


「は、あっ?」

「処女かって聞いてんだよ!?」

「阿呆かいな! そんなん言うわけないわ……っ!」


 この期に及んでも屈服しない女子高生。反抗的な目付きが気に食わなかった坊主頭のチンピラは、舞魚を押さえ付けたままポケットからバタフライナイフを抜き――しかし負傷した右手では器用に扱うことができなくて、一度床に落としてしまう。


 正真正銘、舞魚の目の前で床を跳ねた銀色の刃。


 舞魚は、眼球からわずか五センチ先で光った刃の模様をはっきり見て取りながらも……その瞬間、たった一人の男のことを強く思うのである。


 ――本間くん――


 そして、うめきにも似たかすかな声で、しかし心のすべてを込めて言った。


「堪忍え」


 とはいえそれと同時――――――――――舞魚の謝罪を掻き消すような尋常ならざる音。


 鍵の掛かった店の出入口からだ。


 打撃音……のように聞こえた。まるで、ダイニングバー・ジャンバンの開かない扉を、巨大なハンマーか何かを持った誰かがぶっ叩いたように、と。


 深緑色の扉は開かないまでも、ドアノブの辺りが衝撃に跳ねた気がした。


「お、おい――今の……」

「……ああ……」


 悪漢たちの動きが止まる。紙袋の覆面に隠された顔を見合わせると、目の前の舞魚と遠くの出入口を気にして目を泳がせるのだ。


「……サツか?」

「馬鹿野郎。オレらの客にゃあ国のお偉方もいるんだぞ。警察が出てくるわけ――ひゃあ!?」


 もう一度だ。

 今度ははっきりドアが揺らぎ、それどころか、衝撃のあまり店内側のドアノブが外れかけて傾いたではないか。凄まじい打撃音の内には、金属部品が落ちるような音も混ざっていた。


 続いてもう一度。


 更にもう一度。


 とどめと言わんばかりにもう一度。


 ……店内への呼び掛けも、ノックもなく……。

 ……どこかの誰かが、単純な暴力だけで扉をこじ開けようとしている……。


 その恐ろしい事実を悪漢たちが受け止めた時にはもう遅い。


 ――キィ――


 外部からの衝撃によって留め金部分を破壊された扉は、ドアノブを回さずとも容易く開き、何者の通行も許す役立たずへと成り下がるのだ。


「……なんだぁ……?」

「……男の、ガキ……?」


 息を呑む悪漢たちの視線の最中、それはずいぶん物静かな入店だった。

 無地のTシャツ、少しだぼっとした黒ズボン、薄汚れたスニーカー。『地味』という言葉が服を着て歩いているような若者が、普通に歩いて店に入ってくる。


 そして何の表情もつくることなく――ソファ前に設置された照明機材。床に転がる幾つものスタンドチェア。ひしと抱き合いながら涙で顔を汚した女子二人。紙袋で顔を隠す男に押さえ付けられた黒髪の美少女――ゆっくり店内を見回した。


 ふと、一番大柄な紙袋男が前に出て、Tシャツの若者に声を掛ける。


「悪ぃが今日は貸し切りだ。さっさと出てってくれるか?」


 しかし、若者は出て行く素振りも、動揺する素振りもなく、「……はあ……なるほど……」なんて、驚くほど気の抜けた返事を向けただけ。


 その時、こぼれ落ちる涙に鼻をすすった萌奈が「本間――?」と漏らしたが、紙袋男たちは誰一人それを聞いていない。


「なるほどじゃねえ! 見りゃわかるだろうがっ、取り込み中だよ!」


 大柄な紙袋男が更にずんずん前に出て、「痛い目見てぇか!?」思い切り拳を振りかぶった。


 しかし。

 ――――――――――――――

 殴られて倒れたのはTシャツの若者ではない。


「あひゅ」


 そう短く鳴いた挙げ句床に沈んだのは、空手家・本間圭介相手に下手くそな素人パンチを打ち込んだ紙袋男の方だった。


 鮮やかすぎる三連打。


 悪漢たちは誰一人とて圭介の動きを捉えることができず、打ちのめされた紙袋男本人でさえ自分がどう倒されたかまったく理解できていないだろう。

 圭介が左手一本で倒してのけたことなど、誰も知らないのだ。


 ――人差し指と親指を伸ばした『矢筈』なる手形で、紙袋男の喉仏を強く打ち。

 ――指を握りながらひるがえした拳を落として右鎖骨を砕き。

 ――最後に掌底で顎をカチ上げる。


「それで? 次は?」

 だらりと両腕を下ろした圭介が言った。恐れや焦りを一切含まぬ静かな声だった。


 動いたのは裕也だ。

 細い支柱の上に大型ライトが取り付けられた照明機材へと走ると、「てめっ――なめやがってぇ!」重たいそれを必死で持ち上げ殴りかかっていく。


 野球バットのように振りかぶり、圭介の顔面めがけてフルスイングだ。


 とはいえ圭介に身をかがめられ――あえなく空を切った。

 それどころか、いきなり右脚の感覚を失い身体が崩れてしまう。咄嗟に視線を落とした裕也が見たもの。


「あ、あっ――」


 それは、身をかがめた圭介の下半身から伸びた横蹴りが裕也の右膝を貫いた瞬間だった。

 自分の右膝が見たこともない角度に曲がっていて、尻もちをつくまでのコンマ何秒かですべての血の気が引いていった。


「ギッ――ギャアアアアアアアアアアアアア――!!」


 硬い床に尾てい骨を打ち付けたが、下半身から押し寄せてくる痛みの津波にあらゆる感覚が消し飛ばされてしまう。右膝を動かそうとしてもまったく動かない。膝を抱きかかえて激痛をこらえたいのに、逆方向に曲がった関節は引き寄せることすら不可能だった。


 今の裕也にできることと言えば、右膝の惨状に悲鳴を上げることぐらいだが――裕也の顔面に真正面から激突した空手家の下段回し蹴り。


 ビターンッ!! と擬音が入りそうな勢いで仰向けに倒れた裕也は、両腕を胸の辺りで縮こめた格好でブルブル痙攣し続けるのである。


 残る三人の紙袋男に視線を回し、圭介が真顔で言った。

「で?」


 圭介が入店してからここまで一分。


 その自然な立ち姿は適度に力が抜け、しかし頭のてっぺんから足のつま先まで濃密な気配が立ちのぼっているような凄みがある。


 ……金剛力士というよりは、真っ赤な炎を背負った不動明王……。


 圭介を見つめた萌奈は、日本史の授業で使っている資料集のカラーページを思い出して、なんとなくそう思うのだ。金剛力士であれ、不動明王であれ、普段の圭介とは印象が違いすぎる。


 本当にこれがあの本間圭介なのだろうか?

 これが――クラスメイトから『雑魚筋肉』などと軽んじられている、本間圭介と――?


「……すご……」


 萌奈が息を呑むと同時。


「誰だか知らねえが、やってくれるじゃねえか」

 舞魚の頭を押さえ付けていた紙袋男が、覆面をガサガサ鳴らしながら立ち上がった。刃渡り十センチのバタフライナイフをチラつかせ、「ざけやがって。オレらの仕事、邪魔した落とし前は付けてもらうぞ」と舌を巻くのである。


 そして。

「お前らも手伝え。三人でボコる」

 紙袋で顔を隠した茶髪ホスト風、金髪ホスト風に目配せした。


 二人はズボンのポケットから小型警棒を取り出すと、素早く振って三十二センチの長さに伸ばす。スチール製の警棒だ。小さくとも、頭部に当たれば人を殺せる威力がある。


 武器を持った三人の覆面男。


 しかしながら――圭介は、恐怖に身をすくめるどころか、身構えることすらしなかった。


 何事もないかのように悠々歩き出すと。

「てめっ――なめてんじゃ――」

 そう目を血走らせてバタフライナイフを持ち上げた男の懐に一瞬で入り込む。


「んなっ!?」


 常人には理解できない高速踏み込みの正体は、片桐雄吾にも使った『膝抜き』なる歩法。重力を利用して、三メートルの距離を潰す瞬間移動を成し遂げた。


 そして――紙袋を被った坊主頭のチンピラは、Tシャツの若者が目の前に現れた直後、いきなり右側の視界がなくなったことを不思議に思っただろう。


 まさか自らの右目に若者の左親指が深々突き刺さっているとは思いもしない。


 次の瞬間、左半分だけ残った景色がぐるりと回転し、後頭部への強い衝撃で呆気なく意識を失った。


「……あ、あ……あ……」


 そう声を漏らしながら後ずさりする紙袋男が一人。中身は茶髪ホスト風だが、彼の握る小型警棒の先がブルブル震えている。


 仲間の危機だと思ったのだ。

 若者の左親指が眼球をえぐりながら眼窩に潜っていく様子をはっきり見た。だから慌てて警棒を振り上げた。無我夢中で突っ込んで――圭介が仲間の右目に指を突っ込んだまま身体を入れ替える可能性を考慮しなかった。結果、茶髪ホスト風が振り下ろした警棒が打ったのは紙袋に覆われた後頭部であり、仲間を殴った瞬間の嫌な感触が手に残っている。


 圭介が右目から親指を抜いて初めて、床に倒れることを許された坊主頭のチンピラ。


 茶髪ホスト風は、殴ってしまった仲間の様子を注意深く観察し、ピクリと動いた指先で彼の生存を確認するのだが。

「おぅふ――っ」

 油断した隙に圭介に股間を蹴り上げられて悶絶――壮絶な痛みに脳が耐えきれず失神した。


「………………あと一人……」


 残る紙袋男は、金髪ホスト風ただ一人。


「くっ、来んなてめえ! あっち行けぇ!」


 今にも泣きそうな甲高い声でそう叫びながら、手にした警棒をめちゃくちゃに振り回す。圭介が一歩一歩近づいていけば、「来んなアホぉ!」と考え無しに下がっていった。


 やがて壁際に追い込まれ、もう逃げられない。

 残る武器は「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」大音量の悲鳴だけ。


 しかし、それも。

「やめっ! やめっ――――」

 圭介の無言の正拳突きが胸骨に深くめり込んだ瞬間、パタリと途絶えた。


 そして――悪辣の報いを受けて半死半生の大学生五人、唖然とした顔で目をパチクリさせた萌奈とひなっち、まともに動かない身体を引きずって空手家を見上げようとする舞魚、いまだ油断なく立ち続ける圭介――誰一人とて音を立てることのない静寂が五秒間だけ訪れる。


「さっきからギャアギャアうるせえぞ! お前らいったいどんなプレイしてやが――る……」


 血相を変えて厨房から飛び出してきた金髪中年。音楽でも聴いている最中だったのか、耳にはイヤホンがはまり、画面の割れたスマートフォンを握っていた。


 彼は、店の惨状とその中に立つ見慣れない若者を見て。

「………………ちくしょう……」

 ある程度の事情を察したらしい。カウンター内の酒瓶に手を伸ばすと、壁で酒瓶の底を割って即席の武器をつくる。


 しかし、「まったく――本当に容赦がない。武術家の怒りは買うものではありませんね」なんて爆笑をこらえながら店内に現れたダークスーツの優男を見て、びくりと動きを止めた。


「………………津賀沼……さん……」

「はて。どちら様で? ああ、いや――そちらの素性は知っているのですよ。部下に散々調べさせましたから。そうではなくて、私の仕事で接点が有ったかなと思いまして」

「……そりゃあ、あなた……有名人だから」

「ははは。そうですか。それはどうも」


 津賀沼はカウンターに寄りかかり、少し首を傾げつつ金髪中年に微笑みかけるのだ。


 金髪中年が緊張に生唾を呑み込み、声を震わせながら言った。


「……なんでこんなこと……」

「なんでって、そちら様のご商売が気に食わなかったからですけど。ああ、あとは名簿。顧客名簿をいただけたらな、と」

「わ――渡せませんよ……名簿なんて」

「そうですか。まあ別に、了承していただかなくても結構なのですがね。我々の世界は力がすべて。今回ばかりは、原理原則にのっとってやらせていただきましょう」


 そう言ってニタリと笑った津賀沼。


 その瞬間、逃げ延びる術がないことを悟ったのか――ガチャン――金髪中年が手にしていた酒瓶を落として、力なく床に座り込んだ。絶望に腰が抜けたのかもしれない。


 津賀沼が銀縁メガネを中指で持ち上げながら圭介に向く。

「さてと。もうよろしいですよ。後の諸々は私と部下でやっておきます。彼らを病院に連れていってやりませんとね」


 圭介が無言で津賀沼の目を見ると、彼は毒気なく笑った。


「別に山に埋めたりしませんよ。治療費だって全額こちらで持ちましょう」


 圭介はあえて津賀沼と言葉を交わさないようにしている。それは津賀沼も承知していた。


「治療費など安いものです。それをダシに、彼らの将来すべてを好きにできるのですから」


 真面目な高校生と闇に生きる人間――普通にしていれば交遊することのない間柄。いや、決して交遊してはいけない間柄。

 それを十分わかっているから、圭介は津賀沼と距離を取ろうとしているのだ。


「さあ、そちらの女の子二人は瑞姫お嬢様に送り届けてもらいましょうか。空手家さん、あなたはどうします? 恋人と積もる話があるようなら、私の部下に送らせますが」


 とはいえ、津賀沼もこの期に及んで圭介を利用しようとは毛頭思っていない。


 それどころか。

「これにて『仕舞い』です。今日のことは一から十まで私の仕事。空手家さんはここにはいなかったし、手柄はすべて私一人のもの。もう会うこともないでしょう」

 分をわきまえて、何もかもをヤクザ者同士の揉め事ということで決着させようとしていた。


 圭介が異論を唱えるわけもない。こくりとうなずくと、「――ふう」ようやく戦闘態勢を解く。表情を弛めて、カウンターそばのクラスメイトの元へ向かった。


 いつもどおりの冴えない顔を懐かしく思ったのか、「本間ぁ……」と萌奈が鼻をすする。


 圭介は「大丈夫だから」と微笑みつつ膝を付き、四つん這いの舞魚の上半身を両手で支えた。


「――本間くん――本間くんてば、なんなん……ほんまに、阿呆な人やなぁ……」


 そうは言いつつも彼女の長い黒髪が圭介の腕に絡みつく。それはまるで、まともに動けない舞魚の本心を代弁するかのようで。

 ろれつが回らない彼女の言葉は、いつもよりずっと甘く聞こえた。


「あない酷いこと言うた悪い女、助けに来やるなんて」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る