冷たい鬼と化す
「失恋程度で世捨て人かよ。携帯ぐらい持ってろ」
苛立ち混じりのため息が静寂に染み渡った次の瞬間、夏の夕焼けに焼ける床板がギ――と鳴いた。それと同時、広い剣道場の奥まで長く太い影が伸びる。
影は、剣道場の中央であぐらをかいていた『黒い空手着』の背中に届き、しかし『黒い空手着の男』は微動だにしなかった。
身長百九十センチ超。体重百十キロ超。
ビーチサンダルを脱ぎ捨てて道場に上がった偉丈夫が仁王立ちしている。逆光のためその表情は明らかではないが、機嫌が良いような顔ではないだろう。ほぼ確実に仏頂面のはずだ。
「おい本間。聞いてんのか?」
白のスポーツTシャツに黒のショートパンツというラフな格好の片桐雄吾。そんな彼に乱暴に呼びかけられて、「聞こえてますよ。大丈夫」ようやく黒い空手着が首を回した。
力の抜けた苦笑が雄吾に向く。
「痩せた――わけじゃねえな。ぼうっとした顔しやがって」
「そりゃ、朝から稽古しっぱなしですから」
「ちゃんと喰ってんのか?」
「妹が毎日飯持ってきてくれてるんで。だいぶ文句は言われてますけど」
「風呂は?」
「先生の奥さんのご厚意で外の水道使い放題なんですよ。道着もそこで洗ってます」
「……寝袋とマット……まさかここで寝泊まりしてるとは思わなかった」
「ははは。いいでしょう? 朝から晩まで空手三昧」
「……学校サボってまでやることか?」
「……長い人生、こういう時があっても良いと思いますけど。自堕落に遊んでたわけじゃない」
「藤ノ井の奴から逃げただけにしか見えないがな」
「否定はしません。ただ、僕は、答えを出すためにここにいる」
すると、逆光の雄吾の背後に新しい影が一つ現れたようだ。彼女は雄吾に「勝手に人の家を歩き回らないで。雄吾もおばあさんに挨拶しておきなさい」そう苦言を呈すと、つばの広いストローハットを右手でくるくる回しながら道場に上がってくる。まず最初に、あぐらで座る圭介を見下ろし、思わず噴き出した。
「ひっどい顔、だいぶお疲れじゃん」
そんなにかな……? とでも言いたげに、左手で頬を撫でる圭介。
ノースリーブワンピースのすそを揺らした花村瑞姫が、道場の中を見回しながら言った。
「良い秘密基地じゃない。恭子ちゃんが教えてくれなかったらわからなかったわ」
「すみません。父さんが死んだ剣道の先生と親しくて――」
そして圭介は、板間に上がることなく道場内をうかがっていた『もう一人』を視界に入れる。
その人物は――七月上旬の屋外だというのに、暑苦しいダークスーツをきっちり着こなしていて――特徴的なその風貌を忘れるわけがなかった。
長身痩躯の黒髪オールバック。青レンズの銀縁メガネ。
花村総合病院で出会った『怖い人』だ。名前は確か……津賀沼とか。
どうして彼がここにいるのかまったくわからない。それで圭介は、「…………」気だるげに立ち上がり、小さく首を傾げるのだ。雄吾か瑞姫が説明してくれるのを期待して、だ。
しかし瑞姫は、圭介の仕草よりも骨折中の右手の方が気になったらしい。
「包帯取ってんじゃないわよ」
包帯が勝手に外され、シーネと呼ばれる指を包むだけの固定具が剥き出しになっている。
「あ、いや。これは――稽古中、めちゃくちゃ蒸れたから」
「拳、握ってないでしょうね?」
「それはもちろん。衝撃どころか、加速だってさせてないです」
「加速?」
「一週間、ゆっくり型やってただけなんで」
このまま答えを待ち続けても埒が明かないとでも思ったのだろう。圭介から「それで? お三方はいったい、どうして今日?」と切り出した。
「藤ノ井が危ねえ」
ぶっきらぼうにそう吐き捨てたのは雄吾。瑞姫は、なぜか心配そうな顔で圭介を見ている。
「ど――」
どういうことですか? そう問い詰めようとしたら、「良くない店に入ってしまったようで」道場の縁までやって来た津賀沼が静かに言うのである。津賀沼は道場に上がろうとはしない。
「良くないお店?」
「何の変哲もない、場末の居酒屋なのですがね。ここに集まる連中がまったくよろしくない。なんと言いますか……甘言を用いて目当ての女性を店に連れ込み、強姦するのですよ。もちろん、撮影も込みでね」
「はあ? 何の冗談――」
「冗談? 実に世間にありふれた、些細なことでは?」
「……そこに藤ノ井さんが行ったってんですか?」
「友人らしき少女二人とね。ああ、私が直接見たわけではありませんよ。店の監視に付けていた部下からの報告で。そろそろ潰そうと思って、情報を集めていたのですよ」
「潰す……? どうしてあなたが?」
「商売の趣味が合わない。それだけですが?」
はっきりそう言い放った津賀沼がメガネ中央のブリッジを中指で持ち上げる。すると、青いレンズがギラリと光って、彼の両目を一瞬隠すのであった。
「いたいけな少女らのレイプ動画を売りさばいて荒稼ぎ。顧客の中にお偉方がいるせいで、警察さえも見て見ぬふり。私自身、人様のことを言えるほどまっとうな人間ではありませんが、醜美の区別くらいはありますのでね」
すると圭介は津賀沼の顔から目を離さず、「なるほど。でも、どうして……そのことを僕らに?」と、冷静な表情で彼の言葉の真偽を推し量る。とはいえ、その全身から立ちのぼる普通ではない気配……動揺を通り越して、憤怒の感情が空気を揺らしているかのようだった。
「それはあれですよ。この前病院で、瑞姫お嬢さんと藤ノ井舞魚のことを話していたでしょう? ですから、お知り合いなのだろうなと思いまして」
「藤ノ井さんのことを知っていたんですか?」
「面識はありませんが。裏の界隈で、彼女の『そういうもの』がリクエストされていることは」
ギッ――それは圭介の左拳が握り締められる音。
しかし津賀沼は苦笑いを浮かべただけで、平然と言葉を続けた。
「藤ノ井舞魚なる女子高生が店に入ったのを聞いて――これは知らせておいた方が親切なのだろうな。会長がお世話になっている恩が返せるな――と」
瑞姫が口を挟む。
「あたしもほら、同じ学校の子がそういうことになったら夢見が悪いじゃない? だからすぐに雄吾に連絡して、そしたら助けに行くからって」
雄吾は腕組みをして圭介を見つめているだけ。一言も発さなかった。
だから、圭介の方から雄吾に話しかける。
「藤ノ井さんがその辺の男に不覚を取るとは思いませんけど」
五秒後に返ってきた雄吾の返答は、「わからねえな。多勢に無勢かもしれんし、毒を盛られるかもしれん」ひどく落ち着いていて、どこか突き放すような口調だった。
圭介は「まあいいです」と小さく一息。空手着のまま一歩踏み出すと。
「どこです? その『良くない店』ってのは」
一気に戦闘態勢だ。雄吾から店の場所を聞き出し次第、走り出さんばかりである。
雄吾が腕組みをほどいた。
「いや圭介。やっぱお前は来なくていい」
「……はあ?」
「一緒にカチ込むつもりだったが、気が変わった」
その言葉に喉を鳴らしたのは圭介だけではない。瑞姫もだ。「ちょっと雄吾。あなた何言って――」と雄吾に言葉の意図を聞こうとするが、雄吾は瑞姫を無視してこう言い放った。
「藤ノ井はこっちで助けるから、お前はここで大人しくしてろ」
ゆっくり首を傾げる圭介。何気ない仕草だったが、普段ののほほんとした本間圭介しか知らないクラスメイトが見たら、人殺しさえいとわぬような冷たい雰囲気に絶句したはずだ。
とはいえ、雄吾は少しも気後れしない。代わりに両拳を胸の高さで構えた。
「わからねえか? 藤ノ井のヒーローになりたけりゃあ、俺をぶっ倒していけってことだよ」
突然、決闘の申し出。
「雄吾――」
会話の展開に付いていけなかった瑞姫が慌てて恋人を制そうとするが。
「黙ってろ瑞姫!!」
いつになく強い口調で怒鳴られてしまっては、言葉と動きを止めるしかなかった。
雄吾はすでにオーソドックスな組手構えだ。右肩を引く形の半身になって足を開き、適度に腰を落とす。ボクシングのようにステップを踏むことはなく、山のような安定感があった。
「頭に血の上った武術家が、修羅場で何の役に立つ?」
片桐雄吾という若き空手家は、この構えで数多の格闘家を壊してきたのである。
例えフルコンタクト空手の全日本王者だろうが、今をときめく総合格闘技の日本エースだろうが、雄吾の真正面に立つことは恐怖そのものだろう。
「鈍器で殴られるかもしれん。ナイフが出てくるかもしれん。極論、銃の可能性だってある」
速度重視の刻み突き――ただのジャブすらもが一撃必倒。蹴り技ともなれば、そのすべてが人体破壊へと辿り着く。身長百九十センチ超、体重百十キロ超の空手家とはそういうことだ。
「速度が命なんだよ、相手ぇぶっ殺す速さが」
しかし、そんな日本人離れした天才を前にして、圭介は両手を下ろした自然体だった。
「なんだ、そういうこと」
背筋を伸ばし、へそを雄吾に向け、拳も作らない。端から見れば、ただ力なく突っ立っているだけにしか思えないが――これこそが古流空手家・本間圭介本来の構えなのである。
「圭介も乗るな!」
圭介と雄吾の間の空気が冷たくなったのを鋭く感じ取り、瑞姫が叫んだ。
それでも圭介は「すみません。僕も男でして」と雄吾から目を外さない。空手家二人が一触即発という状況になんら変化はない。
「好きな人も守れないで、何が空手家ですか」
何でもないような口調で圭介が苦笑いすると、三メートルの距離を挟んで相対する雄吾が鼻を鳴らして唇を曲げる。牙を剥くように不敵に笑った。
「童貞がよく言う」
「ここで童貞かどうかは関係ないでしょうが」
「まあ――恋人ができるのはいいさ。お前の学校での不遇っぷりはなんとかしてやりたかったし。恋人のために強くあろうとするんなら、お前の空手も報われる」
「だったら早く藤ノ井さんの居場所を教えてください」
「いいや、あの女は駄目だ。ここらで諦めろ」
「これだから片桐さんは……人の恋路に口出しするなんて、何様ですか」
「先輩様だよ」
「そりゃあそうですけど。でも、僕が誰を好きになるかは、僕が決めます」
「ったくよ――マジで大失敗だ。いいかげん見てられなくて無理矢理告白させたが、こんなことになるんなら口出すんじゃなかったぜ。一生片思いさせてりゃあ良かった」
「その節はどうも。本当、感謝しています」
「……なあ本間。お前だって、藤ノ井が『魔女』だってことわかってるんだろう?」
「魔女?」
「悪女みたいな生易しいレベルじゃねえってことだ。あんなヤバいのが良いなんて、破滅願望でもあんのか? あんな――共倒れの未来しか待っていない女よ」
すると圭介は少しだけ考え、「違います」と小さく言った。脳裏に思い浮かぶのは、大雨の中で見た藤ノ井舞魚の姿だ。獣のごとき肉体、強すぎる暴力性を持って生まれた少女の姿。
「……藤ノ井さんはただの『虎』ですよ……魔女とか、悪女とか、そんな器用な人じゃない」
「はんっ。虎なんざ、交尾以外、オスメス別行動じゃねえか」
そして――いよいよだ。
いよいよ雄吾が距離を一歩詰めてきた。圭介は自然体のまま、まだ動かない。
「本間。お前も虎だったら良かった」
「…………ですね……」
「だがよ、俺も、お前も、どこまで行ったって人間は止められねえ。……わかるだろう? 虎の生き方に付き合ったって潰れるだけだ」
「……かもしれませんね……」
小さく呟いた圭介が「でも――」と動いた。五指を開いた左手を、胸の高さで前に出す。
「諦めません。人間のまま、空手家のまま、虎よりも強くなる」
一瞬キョトンとした雄吾。
「空手家ですよ? 虎や熊との異種格闘技こそが僕らの専売特許でしょうに――っ」
二メートルの距離をぶち抜いて届いた中段前蹴りで、圭介の言葉を遮ったのである。
防御はぎりぎり間に合った。
十字に交差させた両腕で雄吾の足裏を確かに受け止め――しかし無傷で済むような手ぬるい一撃ではない。思いきり真後ろに吹っ飛ばされると、宙に浮いて一メートル、床に足がついて更に三メートル後退させられた。瑞姫だけでなく津賀沼も目を疑うような、壮絶な蹴りだった。
「もういい。ここに引きこもって出した結論がそれだな」
左右の拳を顎の高さに構えたまま、雄吾が一歩、二歩、三歩と、悠然と距離を詰めてくる。
四歩。そこまで行けば、また蹴りの射程内だ。
圭介は一刻も早く逃げなければならない。だというのに――「ははっ」両手を下ろして自然体で立つ圭介の口から、いきなり笑い声が漏れた。
雄吾の前進が止まる。
問いかけを発する代わり、鬼のような表情で首を傾げた雄吾。
圭介は、固定具まみれの右手を口元に寄せて、また笑みを漏らした。
「すみません。強さはどうあれ、片桐さんを前にする方が気楽だなと思って」
真剣勝負の最中に相手を軽んじるという愚行。
「そうかよ」
唇を歪めた雄吾が動き出し、たったの一歩で一気に加速する。
軽量級ボクサーのフットワークを容易く超える熟達の踏み込み。半端な格闘家ならば、反応はおろか、雄吾の接近に気付かぬまま正拳を叩き込まれて失神KOだろう。
だが、雄吾の左拳が放たれた刹那――圭介は動いていた。
「っ」
雄吾以上の速度で前に出る。『膝抜き』もしくは『縮地』と呼ばれる高等技術。両膝の力を抜くことで、重力の助けを借りて即座に最高速へと転げ落ちたのだ。
しかもただの『膝抜き』ではない。
膝を抜く瞬間、足指のすべてで床を蹴っているのである。
結果、圭介の踏み込みは、雄吾の速度を凌駕し――はたして、この踏み込み一つにどれほどの鍛錬を要したのだろう。
『格闘技的な打ち合い』を前提とした技術ではなかった。もっと……『命に届く一撃が当たり前の殺し合い』を意識したような……。
顔面狙いの左拳を紙一重でかわして、太い前腕、伸びた左肘と擦れ違っても圭介は止まらない。そのまま左肩まで一気に踏み込み、自身の身体を反転させて雄吾の背後に回るのだ。
背中合わせ。
まるで――春風に舞う薄布が雄吾の左腕に沿って流れ、やがて彼の背中に纏わり付く――そんな柔らかささえ感じる回避行動だった。
「――っ!?」
双方背中合わせとはいえ、渾身の正拳突きを見事スカされた雄吾よりも、いまだ回避運動の余韻残る圭介の方が速い。
だから圭介は、更に身体を回転させつつ左の手刀を後方斜め上へと伸ばすのだ。
そこには――雄吾の首がある。太い腕に守られることのない無防備な首筋が。
繰り出したのは回転手刀打ち。
鍛え上げられた首といえど、体重の乗った手刀をまともに打ち込まれればひとたまりもない。首側面を走る胸鎖乳突筋ごと頸動脈を潰され、脳への血液供給がいきなり寸断された。
「が」
雄吾の喉から湿った空気が漏れる。
わずか数瞬の酸素不足、そして脳を揺らした衝撃が、雄吾の視界をブラックアウトさせるのである。どれだけこらえようとも失神から逃げる道はなかった。
手足を硬直させたまま、巨体が前のめりに倒れ込む。
顔面を固い板間に打ち付けなかったのは、突き出していた左拳が一瞬支えになったからだ。
「雄吾っ!!」
瑞姫の悲鳴のごとき上擦った叫び。
そして圭介は、左手刀を振り抜いた格好で、「……流拳、羽衣……」なんて小さく小さく呟くのである。『父から教わった秘拳の名』が誰かの耳に届くことはない。
「――がはっ――くっそ。やられた――」
駆け寄った瑞姫に背中を叩かれ、すぐさま息を吹き返した雄吾。
圭介は、瑞姫にしっかり抱きかかえられている雄吾を見下ろして苦笑いだ。
「まったく……本気の片桐さんの相手が気楽なわけないでしょう。いっぱいいっぱいですよ。蹴り一つで腕折れたかと思った」
仰向けになって首を持ち上げた雄吾が、瑞姫の胸に顔を埋めながら重たいため息を吐く。
「……なるほどな。上手く乗せられたわけか」
瞳を潤ませた瑞姫にギッと睨み付けられ、圭介はうつむいて二人から視線を外した。
「すみません」
「いや、いい。勉強させてもらったよ」
「合格もらえますか? 何があったって、あれぐらいの動きはできますから」
すると、手刀で打たれた首筋を撫でつつ瑞姫の胸から顔を離した雄吾。心底気だるそうに板間にあぐらをかくのである。一方、瑞姫は雄吾から離れることなく、まだ圭介を睨んでいた。
「……殺す気で打ちやがって。もういい、お前が行け」
「片桐さんは?」
「まだ頭が鳴ってんだよ。……普通に一人で行けるだろう?」
「当然」
「なら、あとのことは瑞姫と津賀沼のおっさんがよろしくやってくれる。瑞姫もほら――仕掛けたのは俺だ。後輩をあんまりイジメてやるんじゃねえ」
その言葉を聞いて圭介は軽く一息。空手着の帯をほどいた。黒い上衣を投げ捨てて、上半身裸になる。空手着ズボンはそのままで、Tシャツだけ着るのである。
素足にそのままスニーカーを履いて外に出ると、「いやはや。片桐くんを倒してのけるとは」津賀沼が穏やかな口振りで話しかけてきた。
「事情はまったく存じませんがね、空手家とはよほど修羅の道なのですな」
圭介は軽く苦笑いしただけで言葉は返さない。赤く色付いた太陽すらも無視して、今は前だけを向いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます