初デートは熱いものを

 エンドロールが終わり、薄明かりの劇場のあちこちで物音が立ち上がる。開け放たれた出入口に向けてあっという間に人々の列ができた。


 不意に誰かが「今回よかったな。燃えた」と声を弾ませ、すぐさま返された言葉も「完全に前の二作超えたよな」と熱を抑えきれないようだ。


 フレイムオーダー3。


 常勝不敗のアンダーグラウンド格闘家を主人公に据えたアクション超大作の三作目。大国を揺るがす天才少女を見事守り抜いた男の勇姿に、傷だらけの背中に、観客全員が息を呑んだのである。前評判はよかったが、まさかここまでとは思っていなかったのだろう。


 誰も彼もが映画の余韻に浸りながら劇場を後にするのだ。運悪く、とある若いカップルの姿を視界に入れてしまった者以外は……。


 金髪の男子大学生、目の前を横切った黒髪の美少女に目を奪われ、呆然とその背中を見送った。彼女連れの三十路男、出入口の列に並ぶと同時、一つ後ろにいた美少女を二度見、三度見したせいで最愛の恋人に脇腹を小突かれてしまった。


「正解でしたね、こっちにして」

「う、うん。楽しんでもらえてよかった」


 空になったドリンクカップを劇場外のゴミ箱に捨てながら、声を弾ませた藤ノ井舞魚。


 それにつられて本間圭介も小さく笑ったが――ひたいとひたいを合わせたイケメン俳優と清純派女優――映画館の壁に貼られた恋愛映画のポスターが目に入り、軽く後頭部を掻いた。


 ……少し、当てが外れたな……そう思って苦笑する。


 五月晴れの日曜日。

 人々でごった返す街中の複合商業施設。


 二日前の告白で舞魚と『恋人(仮)』となった圭介が、定番の映画館デートを思い付いたのは昨日――土曜日の昼のことだ。大慌てでデート用の服を買いに走り、流行りの恋愛映画を調べ上げ、口から心臓が出そうな思いで舞魚のスマートフォンにメッセージを送った。あの告白の後、SNSのアドレスを交換していたのである。


『明日、映画を見に行きませんか?』


 タメ口でメッセージを送るか、それとも敬語にするか。そんな些細なことに三十分も思い悩んだ末に送った決意の十五文字。舞魚からの返信は十二秒後だった。


『いいですよ。待ち合わせの時間と場所はどうします?』


 そして――――春らしい薄色のデニムジャケットに、ベージュ色のロングスカート、真っ白なスニーカー。いつもはまっすぐに下ろしているだけのロングヘアも、今日ばかりはサイドに流したゆるふわポニーテール。


 待ち合わせの駅前に一時間前から立っていた圭介は、時間ぴったりに現れた舞魚の姿を目に入れた瞬間、膝から崩れ落ちそうになってしまう。


 代わり映えのしない制服姿しか知らない純情青年にとって、私服の藤ノ井舞魚は破壊力がありすぎたのだろう。今日のデートのため、わざわざお洒落してくれたという感動も大きかった。


『本間くん? どないしはったん? ぼうっとしはって』

『いや――藤ノ井さんの私服見たの、初めてだったからさ。その、なんか、可愛いすぎて』

『えぇ? なんやのいきなり。情熱的やん』

『ご、ごめん。ちょっと混乱してるかも』

『……本間くんは……グレーパーカーと黒パンツ……うんまあ、想像の範囲内』

『地味かな?』

『うんにゃ、似おてはるよ。本間くん体格がしっかりしたはるし、変に小細工せえへん方が恰好ええね』


 そんな会話で笑い合い、映画館に向かったのだが……本間圭介最大の誤算は、人が多くなるにつれて丁寧語を使い出した舞魚に『恋愛ものは萌奈とかとも見れますし、今日はコレがいいんですが』と切り出されたことだ。


 舞魚が目を輝かせながら指差したポスターは――血まみれの偉丈夫の立派な背中――二週間前に封切りされたフレイムオーダー3だった。


「あそこよかったです。カーターが相手の鎖骨に指突っ込んで、そのまま折るところ」


 いまだ傑作アクション映画の興奮冷めやらない。フレイムオーダー3を見終えた圭介と舞魚は、ショッピングモール内の喫茶店で会話に花を咲かせていた。


「後ろから首絞められたシーンだよね。まさかあんなやり方でバックチョークを返すとは思わなかったよ。正直、えげつないって言うか」

「なんかウズウズしません? ちょっと試してみたいんですけど」

「えぇぇ……」

「手の中で骨を砕く感触って、どんな感じか興味あります」

「ははは。藤ノ井さんの握力なら可能性あるかもね。僕じゃあ、ちょっと無理かなぁ」


 圭介の手元ではブラックコーヒーが深い香りを漂わせているが、元来、ミルクたっぷりのカフェオレぐらいしか飲むことのない男である。舞魚を前にしてつまらない見栄を張った。


 舞魚の前にあるのは特大サイズのクリームあんみつ。クリームをスプーンですくって口に運ぶと、嬉しそうに頬に手を当てるのだ。


 ふと、圭介が今さらながらの質問を向けた。

「藤ノ井さんはアクション映画とか、よく見るの?」


 舞魚は一度椅子の背もたれをギシッと鳴らし、それから背筋を正して答えた。

「一人で映画館までは来ませんけどね。でも、新作のネット配信はチェックしてますよ。それで気に入ったのは、ブルーレイまで買っちゃったり」


「結構、筋金入りなんだ」

「好きなんですよ、人間の身体が動いてるのが。それに、良いアクション見たら、やってみたくなりません? フレイムオーダー2に出てきたアレとか。壁蹴りで跳び上がって、背後の敵の脳天にオーバーヘッドキック」

「まさか藤ノ井さん、それ、できたり……?」

「ええ。試しに一回やってみて、それでできたのは意外でしたけど」

「天才か」

「そんな。本間くんも本気出せばいけますよ。凄腕の空手家なんだから」

「いやいや。僕、アクロバットな動きとは、ほんと縁がないからさ」

「謙遜?」

「事実だよ。小中高と、体育の授業で活躍したことなんて一度だってないもの。空手は……長く続けてるからね。空手の動きだけ、それなりにできるってだけ」


 圭介がブラックコーヒーをほんのわずか口に含む。眉をひそめたくなるほどの苦み。それでも諦めることなく飲み続ければ、いつかこの味にも慣れる日が来るのだろうかと思った。


「でも――別に、友達とだって見に来ればいいのに、アクション映画」


 圭介が何も考えずにそんなことを口走ると、「バカ言わないでください。そんなのできるわけないじゃないですか」なんて苦笑が返ってくる。


「萌奈なら今回のフレイムオーダーにだって文句タラタラですよ。恋愛成分が足りないとか、カーターがぶっきらぼうで思いやりがないとか。アクションも、血だらけで気持ち悪い、何やってるかよくわかんないって、途中で寝ちゃってるかも」

「マジか。そりゃあ僕とは話が合いそうにない」

「世の女の子たちは、どうやって相手を殴るかになんて興味ないんです。でも私は、人間が命懸けで動く姿に血がたぎるわけで。本間くんだってそうでしょう?」

「はははっ。確かに震えた。最後ちょっと泣きそうになったし」

「……だから……堪忍な」

「え?」

「本当は今日、恋愛映画の予定だったのですよね? よくは知りませんが、漫画が原作の」

「あ――ま、まあね。ネットで評判よかったから」

「初デート。きっと、色々下調べしてくれたんだろうなって」

「……まあ」

「そんな本間くんの労力を無下にするのはどうかと思ったんですが、今さら私の本性を隠してもしょうがないですし。わがまま言わせてもらいました。だから、堪忍」


 そして、舞魚がクリームあんみつを食べ進め、圭介は冷め始めたコーヒーを傾けるのだ。


 ソーサーをカチャリと鳴らした圭介が静かに問うた。

「……クラスの友達には、わがまま言わないのかい?」


 すると舞魚は圭介を見ることもなく、あんみつの白玉をスプーンで突っつき。

「女同士って結構面倒なんですよ。簡単に切り捨てられるものでもないですしね」

「……そっか」

「そうなんです」

「…………」

「…………」


 瞬間、なんてこともない沈黙が走る。わずか五秒間。


 しかしそれを嫌った圭介が「あのさ藤ノ井さん――」適当な話題を投げかけようとした時。

「ちょっとあそこ。あのテーブル見てみろよ。髪の長い子」

 そんなひそめ声が耳に届いた。


 圭介がちらりと視線を送ってみれば、高校生らしき坊主頭三人組が喫茶店に入店したところだった。手持ち無沙汰に入り口でたむろし、店員から声を掛けられるのを待っている。


「めちゃくちゃ美人じゃねえ? 芸能人?」

「ほんとだ。すんげぇ美少女じゃん」

「お前、声かけてみろよ。」

「できるか馬鹿。あれ絶対、彼氏連れだろうが」

「はあ? やってみなきゃわかんねえし。それに見ろ、男の方はたいしたことないっぽいぞ」

「……やめとけ飯塚。今度問題起こしたら、二度と試合に出れなくなんぞ」

「やっべぇ。何度見てもめっちゃ美人だわ。なんだあれ。なんかSNSやってねえかな。自撮り画像あれば、待ち受けにしたいんだけど」


 感動半分、好奇半分の眼差したち。


 圭介が舞魚を気にして彼女を見ると、多少の諦めが混ざった苦笑が浮かんでいた。


「大丈夫。よくあることですから」


 せっかくの初デート。舞魚が少しでも嫌な思いをしたのが悲しい。それで圭介は、ぬるいブラックコーヒーの苦みで気を取り直し、「話は変わるけど――」と舞魚に話しかけるのだ。


「藤ノ井さんって、もしかして、フレイムオーダーの主人公がベースになってる?」

「ベース? 何のことです?」

「いや、一昨日に僕が喰らった上段回し蹴り――軌道といい、上半身の使い方といい、リック・カーターの蹴り方そっくりだと思ってさ」


 直後、テーブルに身を乗り出してきた舞魚に右手を取られて、そのまま両手で握られた。


「そう! そうなんよ! ようわからはったね!」

「ちょ――藤ノ井さん?」

「うちの身体の使い方・格闘は、カーターが基になってるんよ。まさかそれに気付かはる人がいやはるなんて。うちが見せたカーターっぽい動き、上段回しとタックルぐらいやったのに」

「ま、まあ……あれも身体能力重視の闘い方だし……」

「なんや嬉しいわぁ。べっぴんさん言われるより億倍嬉しい」

「そ、そっか――うん、わかった。わかったから藤ノ井さん、手を、離してくれると嬉しい」

「……はい?」

「さすがにそろそろ折れそう」


 白魚のような指の内側で小さくなっていた圭介の右手。そのことに気付いて、「わぁっ!!」舞魚は思わず声を上げるのだった。


「かっ、堪忍え本間くん! 怪我っ、怪我してへん!?」


 可愛らしい慌て声。そしてその声色からは、先ほど顔を覗かせた不快の色は消えている。

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