それは獣のような

 なんてことをしてくれた。なんて余計なことをしてくれたんだ、あの二人は!


 そう反芻するのに忙しくて、午後の授業はほとんど頭に入っていない。


 圭介の気持ちを無視して『告白の舞台』をお膳立てすると、はた迷惑な先輩二人は満足げにどこかに行ってしまった。突然の展開に頭が真っ白になっていた圭介は、しばらくの間その場に立ち尽くすばかりで……結局、文句の一つだって二人に言えずじまいなのだった。


 ただ、大切な恋路を引っかき回してくれた不満については、午後の何時間かをかけてじっくり醸成されたおかげで、もはや激怒の域に達してしまっている。


 特に雄吾だ。

 あの傍若無人だけは決して許せない。生かしてはおけない。


 無遠慮を絵に描いたようなあの男が舞魚に声を掛けたからこそ、圭介は、放課後こうやって屋上へと続く階段を上ることになったのだから。


 絶対、次の組手で頭蹴っ飛ばしてやる。


 怒りにまかせて力強く階段を踏みしめた。全身に血が駆け巡り、体も心もすでに臨戦態勢だ。

 舞魚に気持ちを伝えに行くというよりは、闘いに向かう気分。


 やがて――光が視界の端に入った。


 両手がしびれるほどの緊張と共に見上げれば、階段の上にたたずむ重たい鉄扉、その中央に設けられた明かり取り用の小窓が強く光っている。


 あと十段だ。


 あと十段であの扉のノブに手が掛かる。そしていよいよ『審判の時』がやって来るのだ。


 空手家だからだろうか。階段を上るにつれて、血が沸騰するにつれて、どこか冷静になっていくもう一人の自分もいた。


 とはいえ……あの二人がいなければ、僕が藤ノ井さんに思いを伝えることはなかったかもな。結論をズルズルと先延ばしにして、一生、初恋を引きずったかもしれない。

 怒りの炎と緊張の嵐に巻かれる中、ふとそんなことを思った。


「だからって、片桐さんは絶対許さないけど」

 ぼそりと呟いてレバーハンドル型のドアノブに触れる。


 ハンドルを引き下げ、「ふう」と強めに息を吐いた。


 ……僕は、本当に、このドアの向こうで藤ノ井さんに告白するのか……?


 足がすくむ。背筋が凍る。口が乾く。

 今まで、どんな格闘家と戦う時だって、これほどの『恐怖と焦燥』を感じたことはなかった。


「……当たって砕けるのは趣味じゃないんだ……」


 そうは言っても、もう逃げられない。


 約束をすっぽかして逃げ帰る――その選択が一番の禁忌であることを、圭介はよく知っているからだ。そんな恥知らずをしでかしては、もう二度と学校に出て来られなくなる。


「ふう」

 もう一度深く呼吸して、意識的に足腰に力を込めた。重たい扉を身体で押し開ける。


 ――青空――


 絶望的に美しい青空が見えた。

 放課後といってもまだまだ太陽は高い。広げた翼のように見える筋雲は、赤みを帯びることもなく、陽光を浴びて真っ白に光り輝いていた。東に六つ、西に六つ。まるで十二枚の大翼を背負った大天使が降臨したかのような空である。


 こんな時でなければ、間違いなくスマートフォンを取り出してカメラを向けただろう。


 そして、そんな空を名残惜しく思いながら圭介が次に目にしたのは、高さ二メートルを超える金網フェンスに囲まれた校舎屋上。


 左手側――フェンスのそばで、長い黒髪が風に揺れている。


 藤ノ井舞魚だ。

 金網に指を引っかけて、部活動が始まりつつある校庭を見下ろしていた。


 圭介は美しすぎる彼女の横顔に息を呑み。

「――――」

 声は掛けられない。後ろ手に扉を閉めると、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。


 二人っきりの校舎屋上……やがて、舞魚がゆっくりと顔を向けてくれた。


「遅かったなあ、トイレでも行ってたん?」


 圭介は舞魚と目を合わせられず――奥にそびえる円筒形の給水タンク、屋上を練習場にしている吹奏楽部が置き忘れたであろうパイプ椅子へと視線を移す。


 おそるおそる一言。

「あ、あの。待ちました?」


 すると舞魚は首を傾げながら微笑み、「十分ちょっと? あんまり遅いと、吹奏楽の誰かさんが来はるけどなぁ思て」いつもクラスで使っている『ですます調』ではなく、とろけるように甘い京都弁を返してくるのだ。


「ごめん。顔洗ってたんだ」

 緊張感に唇を震わせる圭介。


 対する舞魚は「あはっ。なんや知らんけど、ずいぶん気合い入れはったんやねぇ」と人差し指で自身の眉間をさすり、「ここ、おそろしい皺になったはるよ?」なんて圭介をからかった。


 フェンスから離れ、屋上の中央へと。

 短めのスカートが揺れ、白い太ももが現れては隠れる。

「そんで? 大事な話って?」


 ……いよいよだ……もうどうにもならない……。

 そう思って圭介も前に出た。空手で鍛えた精神力が、最後に背中を押してくれたと思う。


「それが、あの……本当、私的なことで恐縮なんだけど――」


 鉄のように硬い表情で舞魚の元まで歩き、「その、なんていうか」ごくりと生唾を呑んだ。


 五十センチメートルという至近距離。


 生まれて初めての告白。


 すでに頭の中は真っ白だ。緊張と混乱のあまり、自分が普段どんな言葉を使っていたかさえド忘れしてしまっている。


 日本語ってどう発音するんだったっけ? どう喉を動かせば声が出せる?


 こんな極限状態で小細工なんてできるはずがなかった。気の利いた台詞なんて出てくるわけもない。


 ただ一つ、圭介にできたことといえば。


「好きです、藤ノ井さんのことが」


 情けなく震える声で、秘めた思いを素直に伝えただけ。


 果たして――決死の思いの告白に舞魚は何を思ったのだろう。圭介から目を逸らして美しい青空を見上げると、「………………」目蓋を下ろして小さく微笑んだ。


 十何秒かの沈黙に耐えきれず、小さくうつむいて堅く目を閉じた圭介。


「おおきに。ほんま嬉しい」


 ゆっくりと紡がれたその言葉を天から届いた福音のように感じて、ハッと顔を上げる。


 舞魚と目が合った。

 気持ち垂れ目ぎみの優しい眼が、圭介をまっすぐ見上げていた。


「ありがとうな、勇気出してくれて。本間くん、格好ええよ」

「……あ、あの……それは――」

「言葉どおりに受け取ってくれてかまへん。気になってた人にそない言うてもろて、嬉しないわけないやん」


 ――本間圭介のことが気になっていた――


 予想外の言葉を受けて圭介は目をパチクリさせる。


「ふふふ。知らんかった? うち、クラスん中やと、一番本間くんを見とったんよ? 一年の頃からずっと」


 すると、クスクスと笑う舞魚から指が伸びてきた。ブレザー越しに圭介の左胸に触れ、「だって、こんな、ねえ」とその指先でそのまま自らの唇に触れる。


 圭介は舞魚の意味深な行動を理解できず。

「ごめん、いきなりこんなこと……返事はいつでもいいから」

 苦笑いを浮かべて首筋をぽりぽり掻いてみるのだった。


 『ありがとう』と言われた。『実は気になっていた』と言われた。とはいえ――『恋人になってあげる』とは言われていない。だから、率直に喜んでいいかわからなかった。


「ええよ」

「え?」


 無論、舞魚からの返答を真っ正直に受け取るわけもない。「ええと……それは、どういう……?」と喉を震わせ、何が承諾されたのか確認してみる。


「本間くんがうちの事ちゃんと好いてくれはるんやったら、付き合ってもええよ」

「……え……」

「ちゃんと、うち好みのやり方で、好いてくれはるんやったらね」 


 子供みたく歯を見せて無邪気に笑った舞魚。


「――――っ!!」

 その瞬間、圭介はブレザーの左胸を渾身の力で握りしめ、ふとした拍子に気絶しないように歯を噛みしめていた。


「せやけど、先に言うとくけど、うち、えろう面倒くさいんよ? たくさんわがまま聞いてもろたり。それでもええん? おすすめはせぇへんよ?」


 そんな苦笑混じりの言葉を投げかけられようとも。

「もちろん!」

 即座に首をブンブンと縦に振る。


 ともすればこのまま両拳を天に掲げて勝利の雄叫びを上げそうなぐらい、激しく興奮していた。告白が成功するなんて思っておらず、驚愕で心臓の鼓動がおかしくなっていた。


 しかしそんな圭介も、舞魚の次なる行動には首を傾げることになる。


「それやったら、早速やけど、手始めに『握りっこ』しよか?」

 そうニコリと笑って、右手を圭介の眼前に上げたのである。


 白魚のような――そう形容するにふさわしい綺麗な指が圭介に向けられ、まるで獲物を狙う猛禽類の爪のような形をつくっていた。


 握手ではない。


 そうだ。握手ではなく、片手四つ。プロレスの試合開始時によく見られる、手と手を合わせて行う力比べみたいに見えた。


 やがて。

「ほら、本間くんも。握りっこ」

 そう舞魚にうながされて、「こ、こう?」左手を伸ばした圭介。舞魚の白い手を意識したら鼻息が荒くなりそうだったので、わざと息を止める。


 かすかに震える圭介の中指が、舞魚の中指と薬指の間に入り込もうとして――次の瞬間、人畜無害に見えた舞魚の五指が牙を剥いた。


 ゴツゴツした指にいきなり食らい付くと、そのまま力任せに握り潰そうとしたのである。


「んな――っ!?」


 圭介は声を漏らしつつも、ほとんど反射的に左手と左前腕に力を入れた。


 握力といえば、手先を武器と化す空手家にとって戦力に直結する重要能力。だから圭介も、常日頃から、肘から下を徹底的に鍛錬してきた。


 正直、自信はある。

 指を曲げる力であるクラッシュ、物をつまむ力であるピンチ、握った物を保持する力であるホールド、そのどれもが男子高校生平均の二倍近くに達するだろう。


 だというのに……。

「どないしたん? 力、ちゃんと入れたはる?」

 全力に近い握力を発揮しても、舞魚の指はビクともしなかった。それどころか、圭介の指の股にグイグイ食い込んできて、力負けした太い指がゆっくり開いていく。


 信じられない光景だった。

 片桐雄吾ならまだしも、藤ノ井舞魚のか細い指が空手家の左手を潰そうとしているのだ。


 どんなトリックだ!? と、空手家の矜持に歯を噛んで、力を込め直してみるも結果は同じ。


「あららぁ。本間くん、案外、非力やねぇ」

 笑いをこらえたような声にハッとして舞魚の顔を見た。


 涼しげな微笑。

 ほんの少しだけ口角を持ち上げて、自然と目を細めた優しい笑みだ。

 それがあまりにも綺麗すぎて、あまりにも恐ろしすぎて……圭介は、左手の力を一切ゆるめることなく問うた。


「ふ、藤ノ井さん……っ?」

「ん? なにぃ?」

「あのさ。もしかして、これ……この握りっこって奴、他の人ともしたことある?」

「なんや本間くん。まさか嫉妬したはるん?」

「いや、そういうわけじゃあ……」

「せやったら細かいことはええやない。うちがどんな男と手ぇつないだとして、結局誰のもんにもなってないんやし」

「少し……少しさ、変わってると思うんだ。告白したら力比べのオマケ付きだなんて」

「去年はちゃんとお断りしてたんやけどな。それでも強う言うてくる人ばっかりで、最近は一応こうさせてもらうことにしたんよ」

「そ、そっか。大体、理解した」


 なるほど。いきなりこんなことをされたら、男たちの自尊心が傷付けられてもしょうがない。


 圭介はそう納得して、少しずつ舞魚の右手に飲み込まれていく己の左手に冷や汗をかいた。


 藤ノ井舞魚はきっと――求婚者に無理難題を出したかぐや姫みたく――握力勝負で自分に勝ったら付き合ってあげるとでも言ったのだろう。それで、数々の男たちの手を痛めつけ、彼らを恐怖と自信喪失に追い込んできたのだ。


「せやから言うたでしょう? うち、えらい面倒くさいて」

「驚いた。運動が得意なのは知ってたけど――力、強いんだ、ね」

「握力計が振り切れるんよ。別になんもしてへんのやけど、生まれつき」

「学校の握力計って、目盛り百キロ……女子でそれはギネスでしょ」

「そうなん? 知らんかったわ」


 圭介の言葉にはっきりと笑った舞魚。空いている左手で上品に口元を隠した。


「うち、付き合うんやったら、生真面目で、腕っぷしの強い人がええわ。口ばっかり大層で、自分の身も守れへん男なんてこっちから願い下げ」

「へ、へえ。でも、どうして?」

「そんなん――下手にじゃれついたら壊してしまうさかい」


 そして、舞魚の左手が彼女の唇から離れ、圭介はもう耐えられなかった。

 鬱血して紫色に近づいた左手の痛み、舞魚の微笑みに、だ。


 喰い殺されると思った。


 別に、舞魚が強烈な敵意を向けてきたわけではない。男の非力を馬鹿にして嘲笑したわけでもない。舞魚はただ、極々自然に、彼女らしく振る舞っているだけ。


 例えるなら、野ウサギを前にした虎が牙を剥くのと似ていた。虎は野ウサギに恐怖を与えたいわけではない。野ウサギが自分勝手に恐怖するだけだ。


 圭介の本能がその他すべての感情を振り切って動く。


 ――――――――


 左足を大きく下げた。

 腰を鋭く回転させて左半身を後ろに持ってくると同時、捕まった左手を一瞬脱力させる。

 体幹の奥で生まれた回転力が肩・肘と伝わって、そのまま左手の指先まで。

 全身を鞭のごとくしならせながら目一杯左手を引いたのだ。


 その結果、圭介の五指が舞魚の手中で大きくうねり――いくら百キロを超える握力といえど、一本一本が本間圭介の体幹力を宿した指を押さえ付けられるわけがない。


 ヂッ。


 いとも簡単に左手が抜けた。

 それから圭介は、左脇を締めて紫色の左拳を胸の高さに、開いた右手を舞魚の顔の前に置く。


 身体を大きく開いた体勢。

 空手家が正拳突きを打ち込む瞬間の構えだ。


 顔面、喉、鎖骨、みぞおち、下腹部。圭介ほどの腕前であれば、一呼吸の内に、人体急所の五つ、六つは叩くことができる。女子高生の命を奪うことなんて容易も容易。


 とはいえ。

「――っ」

 圭介の拳はほんの一瞬動く気配を見せただけで、それが実際に飛び立つことはなかった。


 藤ノ井舞魚を殴れるわけがない。

 圭介の強い恋心が拳を止めたのである。


「やっぱ空手家やん!」


 瞬間、心底嬉しそうなはしゃぎ声を聞いた。直後、圭介の上半身が大きく揺らぐ。


 右の上段回し蹴り。


 スカートから伸びた長い脚が圭介の顔面を狙い、咄嗟に上げられた両腕がすんでの所でそれを防いだのだ。


 まさか足が飛んでくるとは思わなかった。そして、その上段回し蹴りが、片桐雄吾の蹴り技を彷彿とさせる威力だったことも完全に想定外。


 舞魚の脛を受けた前腕がきしみ、強く押し込まれる。


 嘘だろっ!?


 圭介の体勢が完全に崩れた。

 いや、崩れたというよりは吹っ飛ばされたに近い。


 大きく三歩、四歩とよろけ、なんとか膝はつかなかった。

 肩幅以上に足を開いて耐えると、前のめりになって膝に手を突き立てる。短く息を吐いた。


 その時だ。

「――?」

 顔を上げるよりも早く、首筋に冷たい怖気が走った。


 かがめた上半身を反射的に反らし、顔だって全速力で振り上げる。すると、学校指定の上履きが、圭介の顎先一センチを走り抜けたではないか。


 蹴上げ。

 位置を下げた圭介の顔面を突き刺そうと、舞魚が左足をまっすぐ蹴り上げたのだ。


 上履きのつま先が半円形の軌道を描き――最高地点でほんの一瞬制止。


 圭介は顔を上げたまま眼球を動かし、バレリーナのごとき舞魚のしなやかな肢体に見惚れたが……一拍遅れて大きくひるがえったスカートに気付くと、そちらの方に視線が移った。

 『白い布のようなもの』が見えた気がしたのである。


 ったく、本当に男って生き物は……。

 そう思って強く自戒するものの、思春期男子が完全無欠の聖人君子になれるはずもない。頭の中では、ひるがえった舞魚のスカートが何度もリピートだ。


 哀れ男子高校生。それが決定的な隙になった。


「ん?」

 へその辺りに軽い重みを感じて視線を落としたら。


「つかまえた♪」

 舞魚に綺麗なタックルを決められている。まずいと思う暇もなく、コンクリートの地面に尾てい骨を強く打ち付けた。目から火花が出るような痛みに「いぢっ――」なんて声が漏れた。


 激痛のせいでほんの一瞬真っ白になってしまった視界。

 そこを狙って両肩を上から押さえ付けられ、仰向けに倒される。


 絹糸のように細く、甘い香りのする何かに撫でられた鼻先がひどくくすぐったかった。


 ――不覚――


 圭介はまばたきを繰り返し、無理矢理視力を取り戻そうとする。それと同時、両腕を顔の前で交差させて、追撃に備える盾とした。


 一秒、二秒、三秒と長い時間が過ぎ去り。

「こういう時、空手やと一本になるん? それとも技有り?」

 ようやくはっきりした圭介の視界いっぱいに広がっていたのは、絶世の美貌と黒髪のカーテンだった。


 圭介の腹の上にまたがった舞魚が、身を乗り出して真上から圭介の顔を覗き込んでいたのだ。圭介の耳のそばに手を突いて、流れ落ちた黒髪の毛先が圭介の鼻先を撫でている。


「……やってる流派によるかな。フルコンだと反則だけど」

「まあ。せやったら本間くんは何流なん?」

「……言わない」


 絶景だ。

 こんな非常事態だというのに、いまだに尾てい骨は痺れるほどに痛むというのに、圭介はなんだか得した気分になっていた。なにせ、こんな距離で舞魚の唇や鼻筋、双眸、肌艶を拝めたし……その上、四方を囲むように落ちた黒髪からは、存分に彼女の匂いが漂ってくるのだから。


 自分でも変態的だとは思う。だが仕方ない。すべての感情は自動的なのだ。思春期の恋心を制御できるほど、圭介は達観も老成もしてはいなかった。


 腹に乗った舞魚の尻がわずかに動く。


「この体勢、えろうそそられんなあ。ワクワクしてくるわ」

「ははは……こっちはマウント取られて冷や汗かいてるけどね」

「案外力持ちでしたやろ、うち」

「まだ半信半疑だよ。何かのトリックだったんじゃないかって――そりゃあ、細くても握力ある人はいるけどさ。それでも、あの力はさすがに……」

「腱やったかな? 靱帯? それに神経やら頭ん中。なんかな、そういうんが突然変異的なんやて。昔、大学のせんせに言われたことあるんよ」

「なら、今すぐアメリカのリングに上がった方がいい。問答無用でチャンピオンになれる」

「あはっ。やめてぇよ。お金にも名誉にも興味あらへん」


 すると、今まで苦笑いを浮かべていた圭介が、ふと真顔になって声を落とした。


「……えと……藤ノ井さんは、人を叩くのが好きなの……?」


 真面目な質問。

 舞魚は圭介の目を見つめ返したまま、短く答えた。


「好きやないよ」


 その言葉を受けて眉間を寄せる圭介。解せなかったのだ。ならば何故、自分は蹴りやタックルを食らったのか、と。左手を潰されそうになったあれはなんだったのか、と。


 憮然とした圭介の表情がおかしかったのだろう。舞魚から無邪気な笑みがこぼれた。


「順序が逆やわ。うちは彼氏おらへんし、男子から告白されたら、そらすこしはその人に気が向くやん? この告白を受けたら、この人と恋仲になって、いつかキスやらするんやろかて。そうしたら、『壊したい』て気持ちが出てくるんよ」

「……そ、そうなんだ……」

「暴力が好きやから壊すんやない。好きになったから、うちの獲物になったから、壊したくなるんどす」

「………………」

「本間くんのことはもともと気になってたし。告白なんてされた日には、そらなぁ?」

「……光栄って、言っていいのかな……」

「『好きの感情が破壊衝動と直結しとる』て兄様に怒られたこともあるけど、どうにもならへんのよ。これかて生まれつきやもの」


 クスクス笑いながら圭介から顔を離した舞魚。


「悪癖なんはわかってる。うちが京都の実家追い出されて一人暮らしなんも、この所為やし」


 圭介の腹の上で背筋を伸ばすと、乱れた黒髪を適当に払う。

 そして耳に引っ掛かった髪を色っぽく掻き上げた。


「ほな、もすこし続けよか。それともこんな暴力女はお断り?」


 舞魚が右拳を顔の高さに上げたのを見て圭介は青くなるが、「それが……僕の恋も、根が深くてね」と乾いた苦笑いだ。


 ――――――――――――――――――――――――


 その瞬間、小さな拳が圭介の顔面に雨あられと降り注いだ。


 マウントパンチ。

 腹の上に馬乗りになったマウントポジションから繰り出される連打だ。

 下になった相手は反撃もたいした防御もできず、素人の喧嘩ではこれで大体決着。プロ同士が行う総合格闘技の試合でも、マウントパンチでゴングが鳴ることは多い。


 嫌な音が響いていた。

 舞魚の拳が、圭介が防御に使う腕二本を滅多打ちにしているのだ。


 尋常じゃなく重たい打撃。

 その上、少女の拳とは思えぬほどに硬い。


「あははっ! うまいこと防がはったやん! 空手いうんは寝技も練習しはるん!?」


 しかし圭介だって殴られてばかりではなかった。圧倒的不利なマウントポジションから抜け出そうと、さっきから必死に色々試みている。


 舞魚のパンチに合わせて腰を跳ね上げてみたり、突き出された腕を捕まえようとしてみたり。


 ――止まった瞬間に顔を狙い撃ちにされる――

 そう判断した圭介、荒馬のごとく大暴れしながら逃げ出す隙を探し続けた。


 とはいえ舞魚は少しも甘くない。


「楽しいわぁ! クラスにこないな男の子がいやはったて!」


 剥き出しの太ももで圭介の腹部をしっかり挟みこむと、激しく上下動する腹上で完璧なバランスを取ってみせた。

 極上の柔らかさで圭介の動きを吸収し、どんな体勢からでもベストパンチを打ってくるのだ。


 舞魚の拳を受け続けた前腕もそろそろ限界。


 と――ようやく圭介の右手が舞魚の左手首を掴んだ。


 片手さえロックしてしまえばマウントポジションは返せる。それで、よしっ取った! と息を吹き返した圭介がエスケープ動作に入ろうとした瞬間だった。


 ――――


 残された舞魚の右拳が、圭介の頬を完璧に捉える。

 コンクリートの地面で圭介の頭部が跳ねた。


 舞魚に殴られ、コンクリートに後頭部を打ち付けて――さしもの本間圭介でも、意識を保っていられなかった。コンマ何秒間か完全に意識が飛んだ。


 この瞬間、思春期の恋心よりも空手家の本能が前に出る.

 圭介の左腕が掻き消え。


「んな――っ!?」

 舞魚が首を横に振った。


 目突き。


 圭介の左親指が舞魚の右目に突き立とうとしたのである。

 舞魚の回避行動は一応間に合ったようだが、紙一重であったことは間違いない。実際、圭介の親指は舞魚の白目に触れた。指先が少し湿っている。


 マウントポジションが崩れた。舞魚が圭介の腹から飛び退いたのだ。


「……こっわ……」


 距離五メートル。空手家の拳が届かない位置で、右の目尻に触れた舞魚。どこか満足げな微笑みを浮かべて、「痛てて……っ」と後頭部をさする圭介が立ち上がるのを待った。


 腰に手をやって言う。

「な? えらい女やろ?」


 圭介は殴られた頬をそっと指を当てて、頬骨にヒビが入っていないか確認した。


「本間くん好みの顔かもしらんけど、こんな外れ物件やめときよし。半端な覚悟で好きになられても、うちも困るんよ」

「……………………」

「病院行こか? 怪我させたんはうちやし、お世話させていただきますさかい」

「……いや、大丈夫……」

「堪忍え。本間くんえらい思いつめた顔したはったし、うちがこんな悪い女やて口で言うても分かってもらえへん思て」

「……………………」

「せやけど、本間くんのことが気になってたんはほんまやし。それだけは勘違いせんといて」

「……………………」

「うちが想像しとったより凄い空手家さんで、逃すんは惜しいけどなぁ」

「……半端じゃないよ……」

「はあ?」

「半端な覚悟じゃない。やっぱり藤ノ井さんのことが好きだ」

「あ――アホやね! こないな女、まだ好きや言わはるて」

「初恋なんだ」

「初恋て」

「藤ノ井さんがどんな化け物だって……はっきりふられるまでは、この気持ちは変わらない」

「……本間くん……」


 圭介の言葉を契機に、長い沈黙。


 夕暮れの始まりを告げるような風が吹き抜けた。

 舞魚の黒髪、スカートが綺麗になびいた。


 そして圭介と舞魚の二人は、まるで再び戦いが始まるかのように真顔で向かい合う。


 校庭からは野球部のものらしき掛け声が聞こえ、甲高い笛の音、サッカーボールが蹴り飛ばされる音までが屋上に上がってくるのだ。


 やがて……先に沈黙を破ったのは舞魚の方だった。


「どうなっても知らんよ、もう」


 大きな大きなため息。


 しかし、圭介が今まで見てきた中で一番嬉しそうな顔で言った。


「うちみたいな女、すぐ嫌になるやろし。とりあえず、『恋人かっこ仮』から始めへん?」

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