妹は信じない

「兄ちゃん。漫画貸してよ」

 そう言いながら兄の部屋に入った本間恭子は、突如として目に入ってきた奇異な光景に「うっわ。またやってるし」と眉をひそめた。


 フローリング敷きの八畳間。シングルサイズのベッドの上で、兄――本間圭介が逆立ちしていたのである。パジャマのすそがめくれ、分厚い腹筋があらわになっていた。


 圭介は十本の指すべてを敷き布団にしっかり噛ませながら。

「漫画? 好きなの持ってっていいよ」

 なんて、事も無げに言う。体幹や背筋を鍛えるためにと中学の頃から始めた逆立ち稽古。壁無しで立てるようになったのはいつ頃だっただろうか。ずいぶんと時間はかかった気がする。


「寝る前に逆立ちはやめたら? 汗かくよ?」

「そうは言っても、どうにも身体がムズムズしてさ」

「なにそれ。意味わかんない」


 鼻で笑いながら漫画やライトノベルばかりが並ぶ本棚の前に立った恭子。お目当ての漫画本を見つけると、もうここに用はないとばかりに兄の部屋を後にしようとする。


 しかし、ふと――逆立ちにいそしむ圭介の頭の辺りに置かれているスマートフォンが目に入った。そして、その画面に映っている画像が、長髪の女性であることにめざとく気付いた。


 単なる好奇心。

 気の強い妹は「何見てんの?」と兄のスマートフォンを横から覗き込み、すぐさま「――誰これ?」疑惑と軽蔑、嫉妬の視線を向けるのだ。そのままスマートフォンを取り上げる。


「ちょっと。恭子――」


 思わず声を上げた圭介だが、あいにく逆立ち中ですぐには動けなかった。言葉だけでは恭子を制止することができず、『逆立ちしながらうっとり眺めていた写真』を見られてしまう。


 両手でスマートフォンを握りしめ、液晶画面に顔を突き付けた恭子がポツリと言った。

「……めっちゃ美人じゃん……」


 何の画像加工もされていないシンプルな自撮り写真。サイドポニーテールの超絶美少女が、少しはにかんだ顔でピースサインしている。写真の背景は、恭子も見知った駅前の風景だ。


「どしたのこれ。ネットで拾ったとか?」


 圭介は足をベッドに下ろしてから、「撮ってくれたんだよ、今日、別れ際」とスマートフォンに手を伸ばした。一度掴んでしまえば、妹に力で負けるわけがない。楽々奪い返せる。


「何のこと?」

「だから――デートの終わりにスマホを取られてさ。彼氏なんだから彼女の写真ぐらい持ってて当然って、その場で」

「はあ? 彼氏? 彼女?」

「言葉のとおりだよ。金曜に告ったらオッケーもらえて、それで今日初デートだったんだ」


 そう言った直後、圭介は脇腹に体当たりを喰らった。スマートフォンの画面を見ようとした恭子が勢いよく身体を入れてきたのだ。ベッド上で組んずほぐれつ絡み合う。


「こっ、これ! この人っ兄ちゃんの彼女ぉ!?」


 液晶画面に映る美貌に声を上げた恭子。圭介の首に噛み付きそうな剣幕で詰め寄った。


「いつできたの!?」

「だから金曜だって」

「嘘だ! 兄ちゃんに、女の人に告る度胸があるわけないじゃん!」

「ちょっと恭子。その言い方はひどくないか?」

「イジメ? 兄ちゃん学校でイジメられてんの? この人、罰ゲームか何かで、兄ちゃんをからかってるだけなんじゃない?」

「違うって。片桐さんと瑞姫さんに告白するよう仕向けられたんだ。悩んでても時間の無駄だからとっとと告白しろって。無茶苦茶だよ、あの二人。それでも、その、藤ノ井さんって言うんだけど――空手やってるの買ってくれててさ、それで」


 しどろもどろになりながらも経緯を説明してみるが、待っていたのは恭子のジト目だ。


「うっそだぁ。空手なんかが恋愛の役に立つぅ?」


 圭介は苦笑するしかなかった。


「ちょっと変わってるんだよ。美人だけど」

「……どんな人?」

「藤ノ井さん?」

「うん」

「そうだなぁ。普段は丁寧語だけど、素になると京都弁が出るな。友達も多くて、いつも大体ニコニコしてるよ。あとはとにかく運動神経がよかったり、ミスコンで優勝してたり」

「無敵じゃん。そんな人が彼女になってくれたの?」

「まあ……本性は獣だけどね」

「獣? もしかしてエッチなこと言おうとしてる?」

「違う。違うって。ええと、なんて言えばいいかな……獣ってのは、本来の意味での肉食系っていうか、片桐さんを十倍尖らせた感じっていうか……美人だったり、人付き合いだったりの外面が完璧な分、中身はだいぶ面倒なんだと思う。その一端は僕も見たし」


 ため息混じりに圭介が漏らした思い。


 すると、途端に表情を曇らせた恭子が「よくわかんないけど」と圭介の顔をうかがうのだ。

「大丈夫なの? 初めての彼女さんが、問題ある人で」


 圭介はベッドに寝転がり、スマートフォンの中でピースサインをする藤ノ井舞魚を見た。そして思わず口元がゆるみそうになるのを、歯を噛んで我慢するのだった。


「しょうがないだろう。そういうのがわかってても好きなんだから。一目惚れって言うのはほんと、どうしようもないんだよ。恭子も覚えておいた方がいい」

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