長い階段の上で
「はひっ――はあ――はあ――」
苔むした石段の最後の一つを蹴り上がった直後、腰に手を当てて天を仰いだ圭介。強い吐き気と肺の痛みに苦しみつつも、どうにかこうにか足を前に出す。
それと同時に鼻から空気を吸って口から吐き出す深呼吸を四つ。
新鮮な空気を肺に取り込みつつ、脚の筋肉をポンプ代わりに全身に血液を回していった。
「きっつ……ぅ」
その場に立ち尽くすより少しでも歩いた方が血が回って回復することを知っているのだ。
それで、軽い咳を交えつつ階段の付近をぐるぐる歩いていると。
「お疲れさん。最後、めちゃくちゃがんばってたやん」
階段横でしゃがんだまま笑顔でこちらを見上げてくる、ポニーテール姿の舞魚と目が合った。
ピンク色の半袖シャツの首元・胸元はぐっしょりと汗に濡れ、ショートパンツから伸びる脚とて水に濡れて妖しく光る。圭介同様、舞魚も全力疾走直後の様相であった。
「はっやい……藤ノ井さん、速いって……」
圭介はそれだけ言うのが精一杯で、唾を飲んではまた一つ咳き込んでしまう。
何とはなしに今登ってきた階段を見下ろしてみれば…………まっすぐに下まで続く二百八十五段の石段が見えた。長い長い石段の中央にはしっかりとした手すりが整備され、両脇には新緑が青々と茂っている。
不意に――足を滑らせて転げ落ちてしまいそうな感覚を覚えて、背筋が震えた。
圭介は、どうやっても力の入らない足を無理矢理動かして階段から離れると、「はあ、はあ――出し切ったけど。ほんと、情けない……」そう息を吐くのである。
ゆっくりと立ち上がった舞魚を見た。
汗はかいているものの息も上がっていない美少女。彼女は、圭介よりも三十秒以上速く階段を登り切ると、余裕しゃくしゃくで足の遅い圭介を眺めていたのだった。
――――――――――――
浅陽山展望公園という名の静かな公園。名も知らぬ鳥がどこかでさえずっている。
早朝のトレーニングデート。
それを提案したのは、舞魚の方だ。
『今度の土曜日は、朝、浅陽山の公園行ってみぃひん? あそこ、えらい長い階段あるし、一緒に階段ダッシュやんのとか、楽しそう思うんやけど』
そう誘われ空手家・本間圭介に断る理由はなかった。
朝五時に起きて自転車を三十分走らせて、寿音寺のふもとで舞魚と落ち合う。スポーツウェア姿の舞魚に見とれながらの準備体操の後、地獄の階段ダッシュ十本。
とはいえ……階段ダッシュ一本目から後悔の連続だった。
舞魚は異常に足が速くてあっという間に見えなくなるし、当初の想定の十倍ぐらいキツいし、
毎度毎度舞魚が頂上で待っていてくれるのがひどく申し訳なかったのである。
改めて――僕は空手しかできない――そう思い知らされた。
それと同時に……藤ノ井舞魚との身体能力の差も……。
「空手だけやってても、足は速くならんなぁ」
心底から漏れたような苦笑まじりの呟き。
圭介の背後でそれを聞いた舞魚が、「あははっ」と思わず吹き出してしまう。圭介の隣に並ぶやいなや、彼の顔を見上げて言った。
「堪忍、堪忍。本間くんに嫌な思いさせとぉて誘ったわけやないんよ。今年の夏も暑ぅなるやろうし、涼しいうちに運動しとくんもええかな思て。それに、二人きりやったら、本間くんも『本気』出しやすいやろうし」
「いや、別に僕……学校の体育の授業、手抜きしてるってわけじゃないんだけど……」
「だって、こないだ本間くんのお家にお邪魔させてもろた時、凄かったやん。空手の型もそやし、サンドバッグ叩いてみせてくれたんも」
浅陽山展望公園――辺りを見回してみても遊具らしい遊具は何もなく、町に面しただだっ広い高台に申し訳程度にベンチが二つ並んでいるだけだ。花見や花火大会の時期になるとそれなりににぎわうが、それ以外では地元の人間も訪れることのない寂しい公園である。
当然、他に誰かいるわけがなく、圭介と舞魚の声だけが緑色の木々を揺らした。
「あんな……上から見とって思ったんやけど、本間くんの走り方、だいぶおかしない?」
「え。は、走り方?」
「堪忍え、怒らんといてな。なんや本間くん走る時、前に進んでるんやのうて、上にピョンピョン飛び跳ねてるんやと思う。そら、一所懸命走らはっても進まへんよ」
「いや……さすがに、上には跳んでないと思うけど……」
「いやいや、跳んでるて。あれや、あの有名なゲームのキャラクター。赤いおじさんおるやろ? あんな感じに、ピョンピョンって」
と――不意に舞魚がその場に一度片膝をつき、「……お手本言うわけやないんやけど……」と尻を突き上げた。クラウチングスタートの格好だ。
汗に濡れた太もも、今にも下着が見えそうなショートパンツに圭介がドギマギした瞬間――風が吹いた。土が跳ねる。躍動した肉体に遅れた黒髪ポニーテールが、大きくなびいた。
舞魚の全力疾走。
スタートだけチーターがごとくの四足歩行で、その後は地を這うような深い前傾姿勢だ。
彼女の脚力すべてが前進移動のみに用いられ、足を踏み込む度、滑るように加速していく。
十五歩目でトップスピード到達。
その瞬間、公園の端に達してしまい――しかし急ブレーキは踏まなかった。公園の端に設けられた金属柵に向かって跳び込むと、柵の上部を片足で蹴って大きなバク宙を決めた。
空中で後方一回転。指先一つ地面に触れることなく、着地も完璧。
すると舞魚は圭介に振り返り、こう呼び掛けるのである。
「見てくれたぁ!? うちはこんな感じぃ!」
彼女は走り方のことだけを言ったのだろうが、最後のバク宙のインパクトも強かったのだろう。圭介は即座に「ぜぇったい無理ぃ!」と声を返した。
その後、古ぼけたベンチで合流し。
「本間くん体力と筋肉はあるんやから、動き方練習しはったらええのに」
「いいよいいよ。今さら体育の成績上げてもって思うし」
双方、前髪から汗を滴らせながら木製の座面に座るのだ。
「それなら、うちが『ヒーローになって』ってお願いしたら、どう?」
「え?」
「秋のクラスマッチ。その頃にはもう、クラス中に本間くんとうちのこと知れ渡ってるかもしれへんし。うちが、学校でも離れられんくらい、本間くんにベタ惚れしてるかもしれへんし」
その言葉に舞魚の方を見れば、美しい微笑みと目が合った。細められた両目の奥に見えた瞳が、期待にキラリと光った気がする。
それで圭介は、後頭部に手を当てて苦笑を一つ。
「最大限努力してみるよ。球技以外なら、何とか」
藤ノ井舞魚の『恋人(仮)』として、彼女の期待には応えたいと思うのだ。
前向きな圭介に舞魚が指を伸ばす。大量の汗が染み込んだ圭介のTシャツ、その上から彼の大胸筋に触れると――何の脈絡もなく、こう言った。
「それじゃあ、闘う?」
当然圭介は「え?」と表情を固めるしかない。息を呑むしかない。
「お互い準備運動は済んでるし、ここ誰もおらへんし、このまま本気で一戦してみんのも一興や思うけど。ね? どうですやろ?」
そのまま舞魚の指先に胸を撫でられ、脳髄まで痺れた感覚を覚えた。
動けない。
とにかく視線を左右に動かしながら「い、いや、どうだろう。やっぱ僕も、心の準備はしときたいし。今は、つーか。軽くスパーリングぐらいならありがたいって言うか――」などと、ひどくしどろもどろになってしまうのだ。
――正直、闘いたくはなかった――
藤ノ井舞魚の本性は知っている。彼女の本望だって知っている。
とはいえ、圭介自身、今はまだ心が決まっていないのだった。
己自身の身体が傷付くことは怖くない。ただ一つだけ……自分の拳が舞魚の身体を傷付ける、その度胸だけがなかった。
告白の日から今日この時まで、圭介は初恋成就の幸福感の中にいたのである。いきなり大好きな彼女を殴れと言われて、はいそうですかと拳を握れるわけがない。
――馬鹿め。甘い男め――
一つ自戒した。強く自戒はしたが……今日はどうしても拳が動かなかった。階段ダッシュで疲れてもいる。
ドギマギしているだけの圭介。やがて舞魚が、圭介の胸から指を離してアハハと笑った。
「アホやなぁ。冗談やって。うちはピンピンやけど、本間くん死にかけやろ? さすがに、今日の本間くんはあんま美味しそやないわ」
「……いいの?」
「いいも悪いも、今日はまだ、本間くんの準備ができてへんやない」
「……ごめん」
「謝らんでええて。無茶苦茶なこと言うてるのは、うちの方なんやし」
そして立ち上がる舞魚。ベンチの前で思い切り背伸びすると、足下に転がっていた手頃な石ころを右手に取って歩き出した。
手の内で石ころを弄んでいると、知らず知らずのうちに指先に力が入る。その瞬間、硬い石に一筋の亀裂が走り、何とも呆気なく二つに割れた。
舞魚は、二つに割れた石をそのまま右手の中でこすり合わせることで削りつつ、「次回――期待しときます」と圭介に振り返るのだ。
汗に濡れた圭介の肉体。朝陽を浴びる空手家の身体。
太い首、厚い胸板、丸い肩、はち切れそうな二の腕、筋張った前腕。
舞魚にとって、それらすべてが輝いて見えたが、唾を飲み込んで無理矢理我慢するのである。強い人間・壊れない人間に襲いかかりたいという本能を、理性で押さえ込んだ。
圭介に背中を向けると上唇を舐め、ポツリと言う。
「残念。スカされた」
気付けば、右手の中にあった石ころはほとんど砂になって無くなっていた。
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