雨に打たれ、すれ違い

「恭子ちゃんて、ほんまかいらしいよねぇ」

 優しい笑い声が混ざった舞魚の呟き。どうにも聞こえにくかったのは強い雨脚のせいだ。


 六月最後の日曜日は、丸一日ひどい大雨で、明日の朝まで止むことはないらしい。


「また生意気なこと言ってない? あいつ、すぐ調子に乗るからな」

「あはは。そんなことあらへん。今かて、『兄ちゃんは走って帰らせてください』て、携帯に返事あったし」

「あいつ……」

「大丈夫。ちゃんと傘持ってきてくれはるから。なんやかんやいうて、お兄ちゃん子やもん」

「かなぁ。僕、あいつにないがしろにされた記憶しかないんだけど」

「まあ……も少し雨が弱ぁならな、あかんやろけどねぇ」


 賽銭箱の隣に腰掛けた真魚は、閉じた膝上に両肘を置きつつ両手で自身の顔を挟み――神社の長い軒下から滴り落ちる雨、石畳の参道に跳ねる雨を眺めている。かたわらには、ついさっきまで本間恭子にメッセージを送っていたスマートフォンが無造作に投げられていた。


「……………………」


「……………………」


 白のノースリーブに白のサマーカーディガン、幾何学柄のショートパンツ、そして虹色の靴紐が目を引く白黒スニーカー。今日も今日とて押しも押されぬ美少女っぷりである。


 賽銭箱の真ん前に突っ立った圭介は、水気の残る前髪に何気なく触れて。

「……雨、やまないねぇ……」

 恐怖すら感じるような雨音に耳を澄ますのだった。黒髪が流れる舞魚の背中を見下ろす。


 圭介と舞魚がここ竹津神社に雨宿りに駆け込んだのは、つい十分前のこと。圭介の自宅から駅まで歩いている途中、強烈な突風に舞魚の傘が飛ばされたことがきっかけだった。


 豪雨。強風。雷鳴。


 雨が強すぎて相合い傘とかそういう甘い感じになることもなく――

『藤ノ井さんっ、この傘使って!』

『さっきお宮さんあったやん! あっこの軒下貸してもらわへんっ!?』

 二人して手近な安全地帯に走るのが精一杯。


 宮司が常駐していないような小さな神社の横を通り過ぎたばかりだったのは、心底幸運だと思う。たった五十秒走るだけでなんとか一息つくことができた。


 圭介の家から徒歩二十分弱。竹津神社は、住宅街の中にぽっかり現れる地域の神社だ。境内には、本殿と拝殿、手水舎、狛犬くらいしかなく、鎮守の杜の代わりにイチョウの木が何本か立っているだけ。


 それでも荒れた様子が一切ないのは、地域の住民たちが大切に管理しているからなのだろう。そういえば時折、自治会の行事とかで圭介の父と母も掃除に駆り出されていた気がする。


「堪忍え。うちが駅まで歩きたいやなんて言うたから」

「気にしないで。家出た時は雨弱かったんだから。それに……正直、ラッキーって思ったし」

「ん?」

「藤ノ井さんが歩いて帰るって言ったこと。少しでも長く一緒にいられるのが。そりゃあ毎週なにかしら遊んでるけどさ、いつもすぐにまた会いたいと思ってしまうわけでして。はい」

「あは。なんで最後、敬語やの」


 圭介と舞魚――今日は丸一日、圭介の自宅のリビングで共に過ごした。本間恭子が舞魚に『着物の着付けを覚えたい』と頼み込んだからだ。


 最初は兄の『恋人(仮)』を警戒していたはずの妹……しかし今では『深夜いきなり空手し始めるんですよ。寝ろよ』とか『腕立てするから背中乗れって言われたんですけど、どう思います? キモいですよね』とか、兄への文句をSNSで報告するぐらいには懐いている。


「……学校やと、相変わらず秘密交際やもんねえ」

「……そりゃあ、まだ『かっこ仮』だもの。仕方がないよ」


 そんな恭子が、去年、母親から受け継いだ着物一式。しかし元の持ち主が着付けが一切できなかったこともあり、タンスの肥やしになっていたのだ。そんなところに京都出身の舞魚が現れ――着付けできるかをダメ元で問うてみれば、『実家やとよく着物やったよ』と言う。


「……まあ……だけど、ですね……最近、思うことがありまして……」

「なんやの本間くん。いきなりモジモジしやはって」


 朝から何度着付けを繰り返したかわからない。舞魚と恭子がリビングでああだこうだしている間、圭介はソファーから舞魚の綺麗な所作を眺めていた。


 父と母は親戚のお見舞いとかで朝早くからいない。それで昼は舞魚の手料理だ。冷蔵庫の中にあったほうれん草としめじ、長ネギ、ベーコンで和風パスタをささっと作ってくれた。


「いつかだよ、いつかの話」

「うん」

「……いつかね……いつか、学校でも一緒にいられたらって……思うわけです。その、藤ノ井さんが嫌じゃなければ、だけど」


 意を決してそう告げてみる圭介。しかし、言葉を紡ぎながらとてつもなく恥ずかしくなってしまい、思わず舞魚の背中から視線を逸らすのである。


 強い雨音。響く低音。雨粒が屋根瓦を打つ小さな打撃音が積み重なり、あちらこちらに反響し、まるで神社の拝殿が獣のごとき唸り声を上げているようだ。


 圭介の思いの丈。舞魚からの返答は――


「ちゃうって。それを決めるんのはうちやない」


 だったが、あまりにもかすかな呟きだったせいで圭介の耳に届く前に掻き消えてしまう。そもそも美少女は圭介を一切見ておらず、彼に聞かせるつもりもなかったのかもしれないが。


 そしてそのまま会話が途切れ…………沈黙は、そのうち百二十秒を超えた。


 …………………………。


 いつまでも返ってこない言葉にそわそわし始めた圭介、「――?」様子をうかがうように舞魚の背中へと視線を走らせてみる。変化のない舞魚の背中にだんだん顔が青くなっていく。


 ――やばい。まずったか……?


 怖いのは『学校でも一緒にいたい』という一途な願いをおこがましいと思われることだ。お情けで付き合ってもらっているような今の状況……やはり出過ぎた願いだったのだろうか。


 やがて。


「あの――」


 あの、やっぱりさっきの無しで! 変なこと言いました! 聞かなかったことにして!

 沈黙に耐えきれなくなった圭介がそう口走ろうとした瞬間だった。


「ええ頃合いかもしれへんね。うちもそろそろ我慢の限界やし」

 舞魚が参道を見つめたまま、しかしはっきり聞き取れる声量で言う。


 咄嗟に言葉を押し止めた圭介。いったい何のことかまるでわからず、「え?」と疑問符を喉から漏らした。そして、いまいち締まらないキョトンとした顔で。


「……なあ……本間くん……」


 舞魚がぬらりと立ち上がるのを見守るのだ。


 とはいえ。

「『かっこ仮』、ほんまに取りたい思たはる?」

 舞魚からそう問いかけられた瞬間には真顔に戻っていた。いや――真顔以上だ。


 落ち着きに満ちた空手家の顔。

 天才空手家・片桐雄吾と向かい合う時と同じ顔。


 だって、幽鬼のごとく力なく突っ立つ舞魚の全身、一挙手一投足から嫌な気配……『闘気』とでも呼ぶべき冷たい気配が立ちのぼっているのである。


「………………」


 圭介は何も言わず、ほんの少し、舞魚にも悟られぬほどほんの少しだけ腰を落とした。


 正直、怖いと思う。心底だ。


 まるで檻から出てきた野生の虎と対峙した気分だった。わずか一メートル先に立つ美しい少女は、常軌を逸する剛力を有していて、そして『告白の時』みたく今にも襲いかかってくるかもしれないのだから。握力百キロ超えの猛獣が、飛びかかってくるかもしれないのだから。


 何が彼女のスイッチとなったのかは考えないことにした。それを考えたってもはや何の意味もない。すでに舞魚自身によって『理性』という檻は開け放たれている。


 圭介はただ一言、「唐突すぎる」と。


「唐突?」


 舞魚の顔が歪んだ。右の口端が持ち上がり、目尻が下がり、眉が上がった。


「あっは! あははははははははっ!! あはははははははははっ!!」


 思わず天を仰いでしまうほどの長い大爆笑。

 舞魚は開いた右手で顔を隠しながら、「唐突!」と笑い声を裏返す。


 そして――顔を隠す右手をいきなり薙ぎ払うと、犬歯を剥き出しにした怒りの形相を圭介に向けるのだ。高ぶる感情に目を見開き、思い切り唾を飛ばして叫ぶのだ。


「満を辞してや! 馬鹿言いなや!」


 着ていた白のノースリーブ、その胸元を思い切り握り締めて身をよじる。わなわなと震えながら身体を折り曲げて、両腕で自分自身を無茶苦茶に抱き締めた。



「今までずっと! 毎晩毎晩っ、うちがどんな思いでベッドで悶えとったか! 本間くんにはわからへんやろ!」


 圭介は舞魚の感情変化に付いていくことができず、「……藤ノ井さん……」静かに事態を見守るだけ。


「――は、あ――」


 顔色一つ変えない圭介の静かさに激情の熱を奪われたのか、不意に舞魚が小さなため息を吐いた。力の抜けた右腕で身体を軽く抱いて、困ったような微笑みを浮かべて言う。


「不思議? うちがこんなに本間くんを思っとるん」


 圭介は軽く目を伏せて「そんな顔が良いわけじゃないし」と口元だけで笑った。


「関係あらへん。うちが心底愛しい思うんは、本間くんの空手やもん」

「はは……」


 空手だけか――青年のそんな小さな落胆を見透かしたように、舞魚も口元だけで軽く笑った。


「丸ごと好きになって欲しいなんて欲張りすぎえ。本間くんかてうちの顔に惚れたくせに」


 圭介は「……それは……」と言葉を濁して、ぐうの音も出ない。


「そら本間くん、性格も丸ぅてええ人や思うけど」


 舞魚に返す言葉を思い付けなくて、なんとなく雨に濡れたTシャツの胸元に触れるのだ。肌に貼り付いていた布を引っ張って、不快感から逃れようとする。少し寒いと思った。


「空手無しなら『ええ人なだけ』やわ。こんな好いとうせん」

 そう言った舞魚は、やがてくすりと笑って、右手の人差し指で右目をあかんべえ。


「うちにぶたれて意識飛ばして――ほんでも、反射だけで目突き打ちやる空手家がどんだけいたはる?」


 ひどく嬉しそうな声で、「試合に使えもせぇへん『生き死にに関わる技』、無意識に打てるぐらい練習してきはった高校生なんて」競技スポーツとは違う道を歩んできた古流空手家を褒め称えるのだ。


 圭介は複雑だった。父親から教わった技術を舞魚に褒められるのは単純に嬉しい。しかし、あの屋上での戦い、ともすれば舞魚の片目を奪っていたかもしれないのだから。


「それにな、前に見せてくれはったあの型。アーナンクー?」

「うん」

「あんなん、まともな人間の動きやあらへんよ。パンチ一つでどんだけの筋肉動かす気? うちの倍ぐらいの数、動いたはったやろ?」

「気付いてたんだ」

「見とれたもん。えらい器用にお腹と背中使いはるなぁ、て」

「瞬発力がないからさ。体幹の筋肉全部使って、馬力稼いでるだけだよ」


 すると――舞魚がまた目を伏せて。

「……………………」

「……………………」

 圭介も彼女の顔から視線を逸らした。


 雨は一向に弱まる気配がなく、この分だと傘を頼んだ恭子ももうしばらく家を出られないだろう。こんな大雨の日に参拝者がやって来るわけもない。世界は圭介と舞魚の二人きりだ。


「……………………」

「……………………」


 沈黙の後、圭介が再び目にした美しき少女。彼女は今にも泣いてしまいそうな顔で――「ねえ。うち、割とええ彼女でしたやろう?」懇願するようにそう言うのである。


 生唾を呑み込み、冷静を装った圭介が言った。

「雨が降ってる」

「かまいやしません」

「雷もだ」

「ゴングの代わりにちょうどええやないの」


 そして舞魚がニコリと笑うと同時。

 ――――――――――――――――――――――――

 世界すべてが真っ白に染まり、轟音が二人の耳をつんざいた。あまりにも突然、至近距離での落雷。もしかしたら神社のどこかに落ちたのかもしれない。それぐらい近かった。


 驚いて反射的に右拳を腰に引いてしまった圭介――それが舞魚の愛情表現を許す合図となる。


「――っ!?」


 舞魚がいない。まばたき一つで強引に視界に色を戻した圭介だったが、その視線の先にもはや舞魚の姿はなかった。誰もいない景色にギョッとした。


 空中だ。


 圭介よりも一瞬先に動き出した舞魚は、手近にあった賽銭箱を足掛かりに真上に大跳躍。まるで崖上から飛びかかる虎がごとくに、頭上からの飛び回し蹴りで圭介に襲いかかったのだ。


 中国武術では旋風脚とも呼ばれる大技。

 高く跳んだ舞魚の回し蹴りが、斜め上から圭介の頭部に振り下ろされる。


 圭介は見えていなかった。

 寸でのところで反応できたのは、本能の機微に一切逆らわなかったからだ。


 賽銭箱の真ん前から雨の参道へと横っ飛び。


 階段三段の高さがあったが、少しもためらわなかった。頭から石畳の地面に突っ込み、右肩を起点に一回転目。そのまま二回転、三回転と受け身で衝撃を逃がしきった。


 間髪入れず身体を起こす。

 二撃目が来る!! 僕が藤ノ井さんなら百パー追撃する――そう思ったのだ。


 立ち上がる時間が惜しかったので、片膝立ちで即座に顔を上げた。容赦なく降り注ぐ豪雨に顔をしかめながら神社の拝殿を睨み付ける。


 すると眼前、黒い影がもう迫ってきていた。空中で身体を丸めた舞魚だ。


 右のスニーカーが圭介の顔面めがけてまっすぐ飛び込んでくる。

 上半身をひねり上げて蹴りを伸ばす、アクションスター顔負けの綺麗な飛び蹴りだった。


「く――っ」

 受け技でさばく時間はない。だから圭介は上体を回転させて半身になっただけ。顎だって思い切り引いて、舞魚の飛び蹴りと距離二センチで擦れ違った。


「――ぁ、ぶな――」


 後ろ手を突きながら慌てて立ち上がる圭介。無意識にスニーカーの足裏をこすって、濡れた石畳の滑りやすさを確かめるのだ。


 雨の中、舞魚がゆっくり立ち上がり背筋を伸ばした。

「さすが。うまいことかわさはるわ」


 圭介は両手を下ろしてはいるものの、「…………」油断はない。空手家の静かな目で舞魚を見る。雨を吸ってその色を濃くしていく長い黒髪を静かに見つめる。自分からは仕掛けない。


「奇襲はおしまい。真っ向から行かせてもらうけど、ええね?」


 舞魚が濡れたサマーカーディガンを脱いで、足元に落とした。

 それで舞魚はノースリーブ、ショートパンツというずいぶん身軽な服装となる。


 剥き出しの二の腕と太もも……一見すれば少女らしい太さしかないが、女子高生の肌とは普通あんなにハリがあるものだろうか。脂肪の下にある筋肉の存在を感じさせるものだろうか。舞魚の四肢すべてがぱんぱんに張り詰め、凝縮し、生命感にみなぎっている気がした。


「………………」


 真っ向から行ってもいいか? という舞魚の問いかけに圭介は終始無言。舞魚はそれを『了承』と受け取ったようだ。


「は、あ――っ!」


 宣言どおり最短距離で圭介に飛び込むと――いや、飛び込みながらの左ジャブ。瞬発力だけで三メートル超の距離を容易く飛び越え、肩ごと入れるように左拳をねじ込んだ。

 それを、圭介の右手の甲が下から跳ね上げてさばく。


 二撃目は鞭のようにしなる右ミドルキック。

 圭介は左膝を抱えて脛で防いだが、左脚だけでなく全身に衝撃が走り、背中までもが大きく揺らいだ。それなのに舞魚はすでに次の攻撃モーションに入っていて、一つの隙もないのだ。


 また蹴り技。

 ミドルキックの防御で一瞬片脚になった圭介の脚を、ローキックで刈り取ろうとする。


 太ももの内側を思い切り蹴り抜かれ――しかし圭介は蹴られた右脚を踏ん張らなかった。

 踏ん張ったら内出血ものの大ダメージだ。

 それよりは舞魚のローキックに逆らうことなく蹴り飛ばされ、衝撃を逃がした方がいい。と同時に、ミドルキックの防御に使った左脚を地面に突き立て、スタンディングを維持した。


 ローキックの勢い余って舞魚は一回転。

 それに合わせるように大きく身を引いた圭介。


 旋回式のバックブローが来るのはわかっていた。案の定、暴風が鼻先を通り抜け――圭介は思わず息を止めてしまうのである。舞魚の攻撃は予想どおり。予想とまるっきり違っていたのはその威力だ。不用意に受けていたらガードの上からでも倒れていたかもしれない。


 ――速度に乗らせたらマズいな――

 そう思う。心の底からそう思うが、もう遅い。防御一辺倒の圭介を尻目に、前に出た舞魚はギアを一つ上げるのだった。


 右のオーバーハンドパンチをわざと圭介に防御させてから、拳が跳ね返った反動で次の攻撃に繋げる。「ふっう!!」左フックで圭介のあばら骨を狙った。


 しかし圭介は右腕を下げてまたもやこれも防ぐ。

 骨がきしみ、一瞬右腕がなくなったかとも思ったが、腕の所在を確認している暇などありはしない。舞魚はもう次の攻撃に移っている。右の拳が引き絞られていた。


「ぐ――っ!」

 たまらず左足を引いて半身になった圭介。両手の指を開くと、脇を締めて平手二つを顔の高さで構えるのだ。まるで蓮の花が開いたかのような防御の構えだった。


 拳の連打が来る。

 左右のラッシュ。顔面、顎、こめかみ、胸骨、みぞおち、あばら、肝臓、へそ――固く握られた拳が、青年の命を狙って縦横無尽に暴れ回った。


 熟練の受け技でなければ、激しいラッシュに押し負けて終わっていただろう。即死しないまでも病院送りは間違いなかった。


 圭介の開いた手が、時に柔らかく、時に鋭く、舞魚のラッシュをさばききる。左右の手のひら、手の甲、十本の指すべて、手首までもを駆使して拳をはたき落とし、軌道を逸らし、受け入れて威力を失わせる。さばき損ねてまともに喰らったのは腹への一発ぐらいだ。


 不意に――

「あっは!! やる!! やるやん!!」

 嵐のように拳を振り回す舞魚から歓喜の叫びが漏れた。渾身のパンチを何度外されても、その馬鹿げた体幹力で姿勢を維持。無理矢理腰を回して次のパンチを打ち込むのである。


 受けに徹しているため圭介に決定的なダメージはない。

 しかし、「……ち、い……っ」空手家はずるずると後ろに下がらされていた。例えばここが六メートル四方のリングであれば、とっくにロープ際に追い詰められている。


 ――できることは幾らかあった――


 まずは舞魚の足を止めたい。膝頭を狙った踵蹴りならば、一撃で舞魚の膝を砕くことができるだろう。隙も少ない。問題は……関節破壊の禁じ手を、舞魚に使えるわけがないということ。


 だから圭介は、「しっ!」苦し紛れの下段回し蹴り。

 舞魚の右ストレートを首を振ってかわすと同時、雨粒の伝う内ももを軽く蹴り込んだ。


「いぢ――っ!?」


 思わず喉を鳴らしたのは、蹴りの感触が普通じゃなかったからだ。硬さだけならば片桐雄吾の太もも以上。鉄柱を蹴ったかと思うほどに硬かったからだ。


 驚愕の瞬間、圭介の動きがコンマ何秒か止まった。


 舞魚が左拳を振りかぶる。そのまま力任せに圭介の顔面へとパンチをぶん投げた。


「ぐがっ」

 防御が間に合ったのはただの幸運。圭介は交差させた両腕で顔を守ったが、不完全な体勢で防御したせいか踏ん張ることができなかった。


 あえなく吹っ飛ばされ、背中から地面に転がって一回転。

 しかし転倒の勢いを利用して即座に立ち上がるのだった。


「――――ふう。ふう……はあ」


 ずぶ濡れ、砂まみれの格好で浅い呼吸を三つ。何はともあれ、開いた左手を目一杯前方に伸ばして舞魚を牽制する。頼むからちょっと待ってくれ、そう願う。


 すると願いが天に届いたのだろうか。

「……なんや、うちばっかり叩いとるけど……ええん? 返してこうへんの?」

 ふと舞魚が拳と足を止めてくれた。


 雨は一向に止まない。神社の境内に立つ高校生二人を強く打ち続ける。


 ずぶ濡れは豪雨に突っ立つ舞魚も同じだ。濡れたノースリーブから水色のブラジャーが透けていたが、それを眼福と思う余裕は今の圭介にはなかった。ぴったりと服が張り付いた舞魚の肢体の美しさ、男を誘惑する完全無欠のプロポーション――それよりは、腕を下ろした彼女がいつ動き出すか予測する方が重要だった。


 水の滴る黒髪を掻き上げながら舞魚が言った。

「さっきの蹴り、えらい弱なかった? まさかあれが全力なわけあらへんよね?」


 すると圭介は「んなわけない」と短く応え、半身になって腰を落とした。指を揃えて伸ばした両手を、一つは顔の前に、一つはみぞおちに置く。後ろ足に体重の七割を掛けた、後屈立ち手刀受けという防御の構えである。


 ここに来てまだ受けようという圭介を見つめた舞魚に疲労の色は一切なく、「そっか」軽く息を吐いた。

「安心したえ。気分悪いけどな」


 もう一度軽く息を吐いて――突然、圭介の視線の先から姿を消した。

 まるで地を駆ける虎がごとくに、極端な前傾姿勢で圭介の懐に飛び込んだのだ。


 足元を刈り取るような超低空タックル。


 しかし圭介はぎりぎりまで動かなかった。冷静に舞魚の動きを捉え直し、見定め――低空タックルの体勢からいきなり跳ね上がって繰り出された、左のハイキックを受ける。


 器用な人だ。

 そう思った。そう思いながら圭介は、伸びきる直前の舞魚の脚を手刀二つで押さえ込んだ。

 押さえ込んでその直後、手刀の一つを舞魚の鎖骨に落とした。


 とはいえ、寸止め。


 直撃わずか一センチ手前で手刀を止める。さすがに鎖骨を折るのはどうかと思ったのだ。


「はあ?」

 そんな瞬間的な苛立ちが聞こえたと思った刹那、「がっ」圭介は頭部左側に衝撃を覚えた。


 唖然。困惑。不可解。焦燥。


 舞魚の左ハイキックは手刀できっちり押さえ込んでいる。圭介は瞬間、何が起こったのか理解できなかった。まさか――舞魚が左ハイキックの軸足になっていた右足で無理矢理頭を蹴ってきたとは――空中で両足を投げ出す舞魚を横目で見るまでは、少しも信じられなかった。


 あり得ない体勢から放たれた変則的な右ハイキック。


 鍛え抜かれた空手家を失神KOするには威力が足りない。それでも圭介の後屈立ち手刀受けの構えを崩し、混乱させるには十分な攻撃だった。


 よたよたと二歩だけよろけた圭介。とにかく構えを作り直そうとするが――背筋にゾッとするものを感じ。

「――っ!!」

 反射的に身体を切り返して正拳を繰り出すのだ。


 わけもわからないまま、最速・最善の一撃。

 空手家の本能が、迫り来る脅威を自動追尾的に打ち落とそうとする。


 しかし、である。

 激突の直前、圭介の理性が本能に追い付いた。


 もしもこの拳の先にあるのが舞魚の顔だったらどうする? 初恋の人を本当に殴るのか? あの綺麗な顔を? そう思った瞬間、拳から力を抜いてしまった。


 ――ぱきゃっ――


 そして圭介のゆるい拳が激突したのは、全力で握り締められた舞魚の拳。

 空手家の拳といえども、そもそも握られていなければ本領を発揮できるわけがない。圭介は、自らの五指が舞魚の拳によって歪められるのをはっきり見た。


 雨に濡れた分厚い拳が、少女の小さな拳に砕かれるのを――


 痛みは、脳を貫いた衝撃に掻き消された。

 間髪入れずに放たれた舞魚の二撃目、左フックが圭介のこめかみを撃ち抜いたのだ。


 瞬間、下半身の感覚が消えた。


 圭介は為す術なくその場に尻もちをつくしかなく。

「…………え…………?」

 雨の音をずいぶん遠くに感じるのである。


 呆気に取られた顔をゆっくり持ち上げたら。

「なんや。空手家ゆうてこんなもんか」

 氷のような無表情の舞魚に見下ろされていた。いや……無表情ではない。まったく良いところなく終わった圭介への落胆と軽蔑を無表情の仮面で隠しているだけだ。


「立てる本間くん……? まだ、やる?」


 一応そう聞いてくれるが、舞魚はもう圭介など見てもおらず、天を仰いで退屈そうに雨に打たれていた。首筋から頬へ、頬からひたいへと黒髪を掻き上げていく。


 立ち上がることのできない圭介は、なんだか申し訳なくなって。

「……ごめん……なんか……僕……」

 そう呟くのだが。


「…………………………………………」


「…………………………………………」


 長い沈黙の後、舞魚から返ってきたのは何の感情のこもらない冷たい言葉の群れだった。


「謝るんはこっちの方や……堪忍え。本間くんをうちのわがままに付き合わせてもうて。本間くんなら『うちの好き』を叶えてくれるかもって……勝手に期待してしもうて」


 圭介は、顔を凍らせながらそれを聞く。

 心臓が高鳴り、舞魚の声が次第に聞こえづらくなっていったが、それは左フックのせいじゃないのだろう。初恋の人に愛想を尽かされたという事実、失恋への恐怖のせいだ。


 茫然自失のまま舞魚を見上げるしかない圭介。


「やっぱな」


 最後に見た舞魚の顔は、なぜか――今にも泣き出してしまいそうな表情をしていた。


「『必殺』やからて寸止めする優しい人に、うちみたいんは荷が重い思います」


 そして、脱ぎ捨てていたサマーカーディガンをため息混じりに拾い上げると、傘も差さずに参道を歩き始めるのである。


「今すぐ別れるいうんやないけど。少し考えさせて」

 そう声を掛けつつも、舞魚はもう圭介を見ていなかった。

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