トイレ前の攻防
何もトイレの前で待ち構えていなくても……と困り果てた圭介。眼前で仁王立ちする小柄な少女を見下ろし、水気の残る指先で自身の首筋を撫でるのだ。つい十数分前に片桐雄吾から『奥手』を責められたばかりなのに、いったい次は何だ? と憂鬱になる。
おそるおそる聞いてみた。
「ええと……なんか用……?」
しかし少女のツインテールは揺れず、大きな眼は冷たい視線を放ち続ける。二年四組一番の愛され女子は、身じろぎすることもなく、まっすぐに圭介を見上げ続けていた。
斎藤萌奈。
藤ノ井舞魚の一番の友人。
一年生の頃も圭介と同じクラス。しかし圭介とはほとんど言葉を交わしたこともない間柄。
圭介は必死に思いを巡らせ、何がどうなってこういう状況になっているか考えてみるのだ。何かマズいことをしでかしただろうか? そう思って最初は見当もつかなかったが。
「卑怯者」
吐き捨てられた侮蔑を耳にする直前――藤ノ井さんのことか――と思い当たるのである。
「本間、あんた何か、卑怯なことやったんでしょう。そうでしょう?」
直前で気付けたおかげで、そう言いがかりをつけられても冷静でいることができた。斎藤さんからしたら、そりゃあ僕は友達を取った敵だよなぁ……と、愛想笑いでも浮かべてみる。
「違うって。そのまま気持ちを伝えただけだよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「絶対違う、絶対に。じゃなきゃ舞魚が本間なんか好きになるわけがない。あたしは舞魚のこと全部知ってるもん。舞魚がみんなに隠してる本当の姿も! この学校に、舞魚にふさわしい男なんて誰一人いないってことも!」
少しずつ早口になっていき、やがて強い口調で声が裏返った萌奈。
「舞魚はあたしの親友! あんたみたいなクソ陰キャに関わってる時間はないのよ!」
圭介は愛想笑いを崩さなかったが。
「悪いけど。だからって、はいそうですかとは引き下がれないな」
姿勢を崩すこともなかった。空手家らしく背筋を伸ばした自然体を維持している。
「僕らのこと、藤ノ井さんから聞いたのかい?」
答えは返ってこなかった。その代わり、少しばかりの沈黙が流れてから、「……幸せになんかなれるもんか……」などと呪詛のごとき低い声が飛んでくる。
圭介は表情を変えなかった。
「だって――だって舞魚は特別だもん」
「そうだね。特別な人だ。藤ノ井さんの凄さも、厄介な悪癖も知ってる。僕もあの日、屋上でしっかりやられてるからさ」
「……そのまま殴り殺されてればよかったのに」
「そうならないように努力はするよ」
まるで親の仇でも睨み付けるかのようなドロドロした萌奈の目付き。圭介は平静を装いながらも、よくわからないな……と困惑するばかりだった。
親友である舞魚に恋人ができた。それで、舞魚を盗られた気持ちになるのはわかる。肝心の相手が、クラスでもトップクラスに冴えない男子であることも悪印象だ。
だがしかし、それでここまでの怒りを燃やすだろうか。こんな……今この場でポケットから刃物が出てきてもおかしくないぐらいの逆上……。
「ともかくさ、もういいだろう? いいかげん五限目始まるしさ」
「全然よくないっつーの! 舞魚と別れてよ!」
「だからそれは無理だって」
意外に強情な圭介の態度に「なによ本間のくせにっ!」とつま先が飛んでくる。萌奈の上履きが圭介の左脛を蹴っ飛ばし。
「…………」
とはいえ圭介は左足を引くことも、痛がることもなかった。むしろ蹴りを放った萌奈の方が「いっ――!?」足の骨に響いた衝撃に驚いたようだ。その場でぴょんぴょん跳び上がる。
そして、午後の授業開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
「なによもうっ」
乱暴に舌打ちしたのは萌奈の方。ギッと圭介を睨み付けたのを最後に、教室に向かって小走りで引き上げていくではないか。
それで圭介は「……やれやれ……」と大きなため息を一つ。ゴツゴツした両手をズボンのポケットに入れながら、萌奈が走って行ったのと同じ方向に歩き出す。
そういえば次の授業……席順から言って、多分当てられるなあ……。
ツインテールを揺らす萌奈の後ろ姿を見ながらそんなことを考えた。
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