2ー4

 爆音のような物々しいエンジン音が轟く。

そうかと思えば、目の前を稲妻が横切る。否、煌めく雷電の如く過ぎ去る戦闘機が滑走路を疾駆し、離陸していく。

 1945年4月6日。

第一次航空総攻撃により、知覧飛行場からも数十機の特攻機が出撃する。才廣には、整備を担当した飛行機を格納してある掩体壕まで、搭乗する特攻兵を案内する役目もあった。司令所の建物の前で各特攻隊が出撃の訓示を受けて、それから各々が自分の飛行機の格納されている掩体壕まで移動するのだが、この時は整備兵も数人同行し、カムフラージュ用のシートで覆った飛行機からシートを除去し、そして出撃前の最終点検を行うのだ。


 滑走路から天空へ続くように延びる白い坂道を駆け上っていく特攻機を、モヤモヤとした混沌の気持ちを抱きながら見送る。


 特攻兵を案内する際、才廣は複雑な思いに苛まれるのだ。一緒に掩体壕へ向かう道中、どう対応すれば良いのかわからなかった。これから死にに行く人の気持ちとはいかなるものなのだろう。必死に集中して心の乱れを精一杯抑え込んでいる方も居られるだろうし、逆に戯れ言でも話していた方が気が紛れて良いと思う方も居られるだろう。これまでお供した特攻兵の中には、まるでこれから遊びにでも出掛けるかのように、明るく、そして気さくに何でもない世間話をしてきて会話が弾んだ人もいた。しかし、終始黙ったまま掩体壕まで歩き、引き渡しの訓示をするとき以外は一言も言葉を発さない人もいた。特攻出撃するときの心情は、本当に十人十色だった。だから適切な対応がどういったものなのかわからないのだ。

 自分自身は死にに行くようなことはしない。戦闘機の腹に爆弾を積ませる準備はやっても、ソイツに乗って敵艦に体当たりすることはないのだ。

 

 たった今、目前を雷鳴のように轟音とまばゆい光を放ちながら飛び立った特攻機のパイロットは、どんな気持ちを持ったまま操縦桿を握り、エンジン出力を上げたのだろうか。

 比較的寡黙な方で、一緒に掩体壕まで歩いたときは二言三言言葉を交わしたくらいだった。

「俺の愛機の調子はどうだい?」

「そうか。それなら、アメリカの軍艦なんてぶっ飛ばせるな。」

「じゃ、行ってくるな。」

たったこの三言だけだった。

この言葉を話していた間は、特に乱れた素振りは見せてこなかった。硬い表情ではあったが、微笑する場面もあった。それが、特攻機に乗り込んで、コクピットからパイロットの「じゃ、行ってくるな。」という呟きを聞いて、才廣が後ろへ下がってから再びコクピットを見上げたとき、衝撃的な横顔を見た。

 閉め切られたコクピットの窓越しに、無表情なまま涙を流したパイロットの横顔がそこにあったのだ。そのとき才廣は、「え?」と咄嗟に思った。いや、口から言葉が漏れてしまったかもしれない。つい先ほどまで、緊張した面持ちながらも気丈に振る舞っていたあのパイロットが、コクピットの窓を閉めてこの俗世との交流を断ち切った瞬間、本当の姿に変わってしまったのだ。

 才廣は、それ以上パイロットの居るコクピットを見上げることは無かった。これ以上、見てしまってはいけないものだと感じたからだ。そして、今、飛び立って往った。自らの手でエンジン出力を上げて、冥土へと続く航路へと舵を切って。


 空に埋もれるまでに小さくなった点を、才廣はしばらく見詰めていた。

 あの涙を、あのパイロットは発進する前に拭ったのだろうか。それとも、溢れ続ける涙を流したまま、歪んだ滑走路を走り抜けて、空へと駆け上がっていったのだろうか。

ぼんやりと、そんなことを考える。


 あのパイロットは、涙を流しながら何を思っていたんだろう。御国のために、名誉ある最期に歓喜しての涙ということか? それとも、死への恐怖や不安に怯えての涙か? 思い残したことを叶えるいとまが許されなかった運命に流した涙だったのか? 親や兄弟、親友、恋人など、一緒にこれからも生きていきたかった人との別れの悲しみが込められた涙なのだろうか?


 才廣には、わからなかった。

わからないという現実が、なんだかとても悔しくて憎らしい。最期に気の利いた慰めの言葉や励ましの口上を述べてあげれば、もしかしたらもう少し気持ちを安らかに往くことが出来たのでは無いか。いや、どんなに気の利いた言葉や優しい口上でも、彼らの気持ちを慰めることなど出来やしないのだろう。自分自身が同じ立場になって、同じ覚悟を持って、同じ瞬間を経験しなければ、到底理解することなんて不可能なのだ。


 俺は、ただ爆弾を積んだだけだ。

 自分がソイツを背負って往く訳じゃない。

 けど、俺が積んだ爆弾背負って飛んでいく人のことなんて、これっぽっちもわからない…。

 わかり合えない…。


すぐ横の滑走路を、次発の特攻機が爆音を立てて大空へ駆け上がる。

 もう、あのパイロットの特攻機の姿はわからない。それでも才廣は、新たに飛び立った特攻機が見えるだけの虚空から視線を背けることが出来なかった。本間に、

「山さん! 次の出撃準備、はよ行きましょ。出撃台数多くてしんどいわ。」

と脇腹をド突かれるまでは。

才廣「いったい、どっちの意味だよ。」

既に無意識の反応となった才廣の呟きが、悲しい音楽の調べのように零れた。


 その晩。

午前中に敢行された第一次航空総攻撃の出撃準備作業を済ませた後は、午後に到着する新たな特攻機の誘導や点検などの比較的軽めの業務のみで、前日からの過重労働もあって定時での解散となった。

 身体全体が別物みたいに操りにくくなるほど、疲労を溜め込んだ自身の最後の力を振り絞るかのようにして、一歩一歩兵舎へと続く道を踏み込んでいく。隣には、毎度お馴染みの川岸が一緒に歩いているが、彼はまるで疲れた素振りを見せていない。これほど働き詰めでもまだまだへっちゃらなのだろうか。

 いや、へっちゃらなようで全然平気ではないのだ。彼は素直に感情が表に出ることが無いというか、常に平時と同じ調子で振る舞うのだ。一つ一つの出来事に大きく感情表現しないが、どんな状況に置かれても一定の度合いでやる事なす事こなしていくのだ。それでも疲労は蓄積されるもので、顔や態度には出さないが、疲れはしっかりと川岸も感じ取っているようで、今朝の寝坊のような形で川岸の調子が所々で出現することを、才廣はここ最近になってようやく気付いたのだ。

 きっと川岸コイツは、今晩はいつもより一時間は早く寝入るな。大抵重い仕事があった晩は就寝時間よりも前に横になるしな。今日もその型だろう。

ぼんやりとそんなことを考えながら歩いて、兵舎のある地域まで来る。

才廣「んん?」

遠くから尺八の音が聞こえてくる。しっかりと手解きを受けた者が奏でているのか、聞き心地がよい。

川岸「誰だ? こんな夕べに尺八を吹いてる奴は。」

まだ夕日の光が残ってはいたが、太陽は山裾の中へと沈んだ後だったため、薄暗い。そろそろ遊びの時間は終わりだと言わんばかりの川岸の発言に笑いそうになる。

才廣「この辺りの兵舎は、確か振武隊の連中が使っているはずだよな?」

川岸「いくら特攻隊員様とは言え、暗くなっては近所迷惑だよな。」

頬を緩ませながら冗談を嗜む川岸だった。相変わらず定格出力の理論値のような調子なことで。

才廣「良いんじゃないか? 演奏、上手いし。聞いてて気持ちが良い。」

川岸「そうか? 俺にはなんだか、寂しくなるような感じがするぞ?」

聞こえてくる尺八の音色は、確かに川岸の言うように聞く者の気持ちを寂しくさせるような、哀愁感を込めた曲調であった。ただ、才廣にとってはどこか慰められるような心地良さを感じるのだ。午前中に見た、涙を流して飛び立った特攻隊員のことを弔うかのような、そんな心地なのだ。

 ひょっとしたら、誰かが今日飛び立った特攻隊員たちのために、として吹いてる曲なのかな?

そんな気持ちにさせてくる。

川岸「んん?」

今度は川岸が何かに気付いて驚きを発する。

才廣「どうした?」

川岸「あそこ、見ろよ。」

言いながら川岸が右方を指差すので、才廣はそちらを振り向く。その視線の先には、草の上に座り込んで項垂れる作業着姿の男が居た。

才廣「誰だ? 整備兵のような格好だぞ。」

道から外れた木々に覆われた暗闇の中に浮かび上がるように見えるその姿は、一見すると病魔に襲われて崩れ落ちた病人の様とも解釈出来る。

川岸「ここ最近の過重労働で体調でも崩したか?」

尺八の音色を背にしながら、才廣は闇に紛れて崩れている整備兵姿の男へと恐る恐る近寄る。万が一にも体調不良の仲間であったら医務室へと運ばなければならないからだ。

才廣「大丈夫か?」

まだ相手とはだいぶ距離がある所からの声掛けだった。九九式襲撃機ならば縦に二台は収まってしまうのではないだろうか。

あまりにも距離が長かったためか、才廣の声掛けが聞こえなかったようで、崩れた整備兵はうんともすんとも言わない。さすがに、もう少し近付かないと駄目だろうか。

 せめて、九九襲一台分くらいにまで距離を詰めようか。

ジリジリと崩れた整備兵へと近寄る才廣。そして、九九式襲撃機一台分にまで近寄ったとき、相手がビクリとしたように動いた。そう感じたのも束の間、項垂れていた頭がのっそりと上向きになり、近付かんとする者を威嚇する獣みたいに才廣のことを睨み付けてきた。これには才廣も背筋が凍るような悪寒がして、思わず翻して走り去ってしまいたくなった。だが、急病人かもしれない仲間を見捨てるような行動は許されない。怯える自身の弱さを必死で抑えつつ、睨んでくる整備兵を凝視する。

 んん? どこかで見た顔だぞ。

 それにコイツ…、泣いてる?

最初にビクリと動いたのは、もしかして嗚咽を漏らすときのものだったのか。

才廣「アンタ、確か、30振の。」

3日前に知覧ここを飛び立ち、徳之島へ前進した第30振武隊に同行していた整備兵だった。名前を確か、大橋と言った。

才廣「どうした? 調子でも悪いのか?」

大橋「いえ、大丈夫です。」

幾筋もの涙の流れた跡を消すように頬や目元を拭う大橋だった。体調は悪くなくても、何も無いことはなさそうだ。

背後から誰かが近寄る気配を感じて、きっと川岸が心配で見に来たのだろうと思い、振り返る。案の定、川岸が大橋のことを見詰めながら歩いていた。

川岸「どうした?」

才廣「特別問題は無さそうだ。俺、コイツを兵舎まで送っていくから、川岸は先に戻っててくれよ。コイツのこと、知らない顔でも無いからさ。」

へぇ~と目を丸くさせながら、川岸は大橋と才廣の両者を見比べるように交互に見てくる。

川岸「わかった。先に帰ってる。飯には一緒に行けるか?」

才廣「もちろん。」

川岸「了解。じゃ、また後でな。」

才廣「うん。すまないな。」

引き返していく川岸の後ろ姿が見えなくなるまで見送ってやってから、才廣は視線を大橋へ向ける。もう大橋は泣いていなかったが、浮かない顔をしたままなのは変わらなかった。

才廣「こんな所に一人で座り込んで、体調でも悪くしたのかと思ったぜ。」

才廣の言葉を俯きながら聞く大橋の頭を見詰める。

いつの間にか、尺八の音が聞こえなくなっているのに気が付く。

大橋「誰にも、気付かれたくなかったんで。」

才廣「うん?」

擦れたような声で話す大橋の声を聞き漏らさぬように、才廣もしゃがみ込む。

大橋「今朝の総攻撃作戦で出撃していく機体を見ていたら、きっと今頃、徳之島へ行ったも出撃したんだと思って。」

大橋らが同行していた第30振武隊も、この日の第一次航空総攻撃作戦に参加する手筈だった。発進する飛行場こそ違えど、知覧ここを飛び立った振武隊と同様に特攻出撃したことだろう。

才廣が大橋の隣に座り込むと、大橋は葉で覆われた夕焼け空を見上げた。

大橋「自分たちが整備してきた愛機がついに作戦に参加して、敵の艦隊に体当たりしたのだと思うと、ここまで面倒見てきた端くれとして誇らしい気持ちになりました。」

同じ整備兵として特攻機の整備を行っている才廣にもわかる感覚だった。ただし、“自分が面倒を見た機体”が作戦に使われたという、愛着のような気持ちは才廣には無いものだった。これはきっと、第30振武隊結成から一貫して同隊の飛行機の整備を請け負ってきた者の、言ってみたら親心のような感性なのだろう。

才廣「そうか。ついに、これまで尽くしてきたことが報われたな。」

励ましてやるつもりで言っていた。暗くてはっきりとはわからないが、大橋の表情は曇ったままのようだ。

大橋「けど、隊員の方たちは…。」

才廣「……」

大橋「つい3日前までは元気にしていて、整備兵の僕らとも分け隔てなく話してくれたが、今はもう、どんなにこの世界を探し回っても、見つかることはない。居なくなってしまったんだって、思ってしまって…。」

大橋の右手が自身の目元へと向かうのを見詰める。

これまでの大橋からの言葉で、大橋をはじめとする第30振武隊に同行した整備兵と特攻隊員たちとの間には非常に強い団結力があって、互いに心を通わせ合った仲間であったことは才廣も知っていた。

才廣「あの尺八は、仲間が吹いてたのか?」

才廣の問いに大橋は黙ったまま頷いてきた。

大橋「森本が、を追悼するって言って、昼間からずっと吹いてました。隊長殿や、隊員の皆さんから何度か吹いてくれって頼まれることもありましたから。」

才廣「そうだったのか…。きっと、空から耳を澄まして聞いて下さってたことだろうな。俺が聞いても、心地良く思うし。隊員のみんながお願いするのもわかるぜ。」

もう森本が吹いてた尺八の音は聞こえてこない。森本にとっての追悼が、終わったということなのだろう。今では尺八の音色と入れ代わるように、風に吹かれて木々が擦れるザワザワとした音だけが聞こえている。

大橋「いっそ…。」

静かに呟く大橋の声が風の音に溶け込む。何も言わずに、そっと大橋の顔に視線を落とす。

才廣「大橋?」

再び涙の虫がうずきはじめたようで、大橋の頬には濡れた筋が新たに作られていた。今度は才廣に見られていても拭おうとはしない。ただ、じっと正面に転がる石ころでも睨み付けながら、じっと何かに耐えているような顔をしている。

大橋「いっそのこと、…僕もこっそり搭乗して、最期までお供すれば良かった…。こんな気持ちになるくらいなら、あの世まで一緒に付いて行けば良かったんだ…。」

才廣「……」

大橋「中枡なかます隊長…、宮永みやながさん…、本田さん…、富家とみいえ…、石田…。みんな、往ってしまった…。」

静かに涙を流し続ける大橋の小さな肩に腕を回し、一緒に地面を見詰めてやる才廣。何か言葉を交わすことも出来ず、それくらいしか大橋を慰め、励ますことが才廣には出来なかったのだ。大橋は声を大にして泣き喚くことは無く、一気に感情が溢れ出してしまうことを精一杯堪えているようだ。軍人の端くれとして、御国のために戦いに出て死んでくれたことを喜ぶ気持ちがある。ただ、どうしても兄貴のように慕っていた仲間たちの喪失から来る悲哀を受け流すことも出来ず、苦しんでいるようにも感じる。そのことは、才廣にも共感できることだ。もう一週間くらい前のことになるが、初めて知覧ここから特攻出撃した大川少尉に対して感じたものと、きっと同じなのだろうと思えたからだ。

大橋「こんなこと、軍属にある者が考えてはいけないとわかってます。けど、今日だけは、見逃して下さい。」

才廣「あぁ…。」

 少しずつ、大橋から発せられる嗚咽が大きくなっていく。堪えなければという気持ちだけでは、もうどうにもならなくなってしまった。そんな感じだ。

才廣はそんな大橋の肩を抱く腕に力を込めた。

丸くなった二人の足元には、既に散り終えて所々枯れた茶色が目立つ桜の花びらたちが、柔らかな風に乗って囁くように躍っている。まるで、今日飛び立った特攻隊員たちの御霊が、才廣や大橋たち見送る者を励ますかのように。


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