1ー5
桜の花が見事だ。
気晴らしに遠くを見渡したときに感じたことだった。
3月31日の昼。
26日に大本営から天一号作戦発動の発令が発せられてからは、立て続けに特攻隊が知覧飛行場へ飛来し、これらの特攻機の整備に汗を流す日々だった。ほとんど息つく間が無いほどに整備作業を行うため、小用などでわずかに作業から外れる瞬間がしっかりと息を吸って羽根を伸ばせる瞬間だった。
小用を済ませて、受け持ちの戦闘機が格納されている誘導路脇の掩体壕へ向かう途中、才廣の視界に入り込んできたのは、飛行場から見渡せる山吹色と若草色の混沌が鮮やかな山々で、その柔らかな春色の画材の中に淡い桃がてんてんと浮かび上がるように満開の桜の木がそこかしこに伸びる、芸術的な光景が広がっていたのだ。
いつの間にか、桜が咲くような時期になっていたんだな。
ぼんやりとそんなことを思う。
ここ数日の多忙に、周りの景色を見る余裕すら無くなってしまっていたのか。特攻機の整備作業に追われる毎日に、季節の移ろいや光景の微小な変化にも気付けなくなってしまっていたなんて。
昔から、季節の変わり目に敏感だった。上手く言葉では説明出来ないが、空気が変わると言うのか、風の質が季節ごとに違いがあるのだ。例えば、冬から春に移るとき、カラカラに乾いた鋭利な寒気を伴った風から、水分をほのかに含んで湿潤となった心地良い温もりを混ぜ込んだ柔らかな風になるのだ。かつて小学校に通う時分、学友たちに季節の違いがわかると自慢気に説明したことがあったが、当時の学友たちはみんな理解を示すことはなく、一人寂しい思いをする苦い思い出となった。
そんな才廣が、ここ最近で起こったであろう季節の移ろいを感じることが出来なかったとは。
背筋が震えるような悪寒を感じさせる重苦しい甲高い音が、知覧の空を轟く。
才廣「また、空襲警報か!」
桜を眺める静穏な雰囲気が一瞬にして打ち砕かれる。
走り込んで、近くの掩体壕へと飛び込む。
3月18日の初空襲以来、毎日空襲警報が発令されていた。
飛び込んだ掩体の中には数人の兵士がいる様子だったので、周囲を見渡してみる。
どうやらこの掩体壕は、特攻機整備に使っているものだったようで、整備兵たちが整備中の特攻機を草木を絡ませたカムフラージュ用のシートで覆う作業を慌てて進める様があった。これも何かの縁だと、自分の受け持ちの特攻機では無かったが、掩体内にいた整備兵を手伝ってシートを覆う作業を一緒に進める。
作業が済むと、中の整備兵たちと一緒に掩体壕の中で小さくなって警報が止まるまで待った。そのときになって、ようやくこの掩体壕に居た整備兵たちの顔を見ることが出来た。
才廣「ここって、もしかして30振※の?」
※30振…第30振武隊の略
隣に居た、まだ幼い顔立ちが印象的な整備兵に話し掛けてみた。
「そうです。」
才廣「そうか。ご苦労なもんだな。」
第30振武隊の特攻機の整備は、第30振武隊が同行させていた整備兵によって行われていた。昨日に徳之島飛行場へ向けて離陸したが、離陸後一時間したかしないかのところで戻ってきたのだ。天候不良のために引き返したそうだ。
「お互い様です。僕たちは自分の隊だけですけど、あなた方は
そんなふうに恐縮されると、却って恐れ入るものだ。
才廣「昨日は、災難だったな。」
「はい。」
才廣「あんたらも、特攻するのか?」
何となく気になっていたことを打ち明けていた。特攻隊に同行する整備兵も、命運を共にする運命なのか?
「いえ、僕たちは徳之島まで付いて行って、そこで、隊員の方とはお別れです。」
“お別れです”と言うときに切なさを顔に滲ませていたのが才廣には印象に残った。そんなにも特攻隊員たちと親しくしているということか。
才廣「そうなのか…。ずっと、隊員の人とは一緒だったのか?」
「そうですね。第30振武隊が結成されてからは、ずっと一緒に行動してました。だから、整備兵の身分ですが、気持ちはパイロットの方と同じで、共に敵艦を轟沈させるんだという思いでやっています。もし、徳之島でも一緒に付いてこいと言われたら、喜んで同行させて頂きますよ。」
才廣「そうか。」
才廣には無い概念だった。
もちろん、陸軍に入隊したときから、もしものことあらば命なんて差し出してでも、祖国を守るために尽くすと誓っている。はじめは才廣自身も飛行兵に志願していたのだ。戦況の変化で特攻隊に編入されたとしても、それも運命だと受け入れたことだろう。しかし、航空整備兵として整備大隊に編入されてからは、どこか対岸の火事のような感覚だったのだ。それは一重に、陸軍入隊に伴って芽生えた“御国のために働いて死んでいく”という志に従って飛行兵を志願するも、視力不足で整備兵にさせられた現実について、卑屈になっていたことを意味していた。
自分は死地へ向かうパイロットが乗る戦闘機を整備するのが仕事。戦場へ出て行って、命のやり取りをすることはない。
そんなふうに考える癖が付いていることに、才廣は気付かされた。
自分の命が惜しい訳じゃない。戦って死ぬのが嫌だとか怖いとかでもない。ただ、遠い存在だと思っていた。
第30振武隊に同行する整備兵たちは、常に特攻することが目的のパイロットたちのそばに居続けたことで、いつしかパイロットと整備兵の垣根を越えた団結力が生まれ、最期を迎えるならば命運を共にする覚悟が芽生えるに至ったのだろう。
才廣「次の出撃のときは、無事に徳之島まで行けると良いな。」
隣の幼顔の整備兵は「はい」と短く返事をしただけで、それ以上は何も言ってこなかった。
間もなく空襲警報のサイレンが止まり、才廣は第30振武隊の掩体壕から出て、持ち場へと向かった。
持ち場へ戻った途端、安達から「全然戻ってこないから敵機の餌食になっちまったかと思いましたよ」と明るく冗談を吹っ掛けられた。笑い声が飛び交う中、作業を再開させる。
この特攻機も、覚悟を決めたパイロットを乗せて、往くのか…。
“もし、徳之島でも一緒に付いてこいと言われたら、喜んで同行させて頂きますよ”
先ほどの第30振武隊の整備兵の言葉を思い出す。
もし、この特攻機に乗る隊員に、“お前も一緒に付いてきてくれ”と頼まれたら、「了解!」と二つ返事で了承することなんて出来るだろうか。
俺は、そんなこと、出来ないかもしれないな。
きっと、アイツらは特攻隊員と同じ覚悟でここまで来たんだ。アイツらだけじゃない。ここへ来る特攻隊員たちもみんな、固い決意を胸に、覚悟を決めてやってきたんだ。そういう、すごい人たちなんだ…。せめて、名前くらいは覚えておきたいな。
そう感じながら、才廣はその場で大きく深呼吸した。その様子を隣で見ていた川岸に「どうした?」と聞かれて困ったが、「明鏡止水」とだけ言って振り切ってやった。
この日は、翌日に特攻出撃することが決まった第23振武隊の特攻機の整備が急遽入った。知覧飛行場が特攻基地となってから、初めての特攻出撃だった。
第23振武隊に所属する隊員たちの機体を飛ばせる状態に整備するのは当然ながら、特攻用の250キロ爆弾の搭載など、特攻用に設定された特別な装備への改造もしなくてはならない。
結局通常の業務時間内には全ての特攻機の整備が出来ず、夜通し作業が続けられることとなった。
夜中。
ランタン片手に機体の下部に入り、爆弾設置のために不要とされた補助タンクを外している作業をしていたときだった。
掩体壕の上からこちらを見下ろす飛行兵の姿が見えたのだ。
いったい誰だ? こんな時間に…。
何か急な用向きか?
ひとまず作業の手を止めて、機体の下から出て飛行兵のことを見上げる。
才廣「どうかしましたか?」
才廣の声掛けに、飛行兵は後頭部をぼさぼさと掻きながら苦笑いしてくる。
飛行兵「作業中にすまないな。特別用はない。ただ、明日命運を共にする愛機の姿が見たくなった。それだけ。」
言い切ると、飛行兵は掩体内に飛び下りてきた。そして、機体に近寄りながらまじまじと自身の愛機の雄姿を眺め始める。足元に置かれたランタンのため、まるで機体側面に業火の絵が描かれているかのような錯覚を覚えそうだ。
ふと、飛行兵の階級章に目が行く。
少尉か…。尉官の階級になった方でも、出撃前夜は眠れないのかな?
ふとそんな疑問が過る。
見たところ、この少尉は自分よりも年上だろう。同じく20代なのは確かだろうが、才廣と違って20代の半ば頃にはなっているような、自分よりも成熟した雰囲気を纏っている。そんな自分よりも成熟した方でも、明日特攻出撃という夜は落ち着けないものなのか。
才廣「眠れないないんですか?」
そっと聞いてみる。
飛行兵は愛機を見詰めながら頷いてきた。
何も無理の無い答えだと才廣は思う。
明日死にに往く前夜に寝れる訳ないよな。それに年齢も階級も関係ないのだろう。俺ならきっと、寝れない。
自分に“特別攻撃隊への配属を命じる”と辞令が出たとして、この知覧飛行場へやってきたと想像してみると、今にも狼狽しそうになる。そんな有り得ないと思われる想像を消し去るため、才廣も整備中の特攻機の全容を眺めてみる。
飛行兵「こんな時間まで整備するものなのか?」
いつの間にか、飛行兵の視線が才廣へと向けられていた。その視線に気が付き、才廣も飛行兵のことをしっかりと見た。自分よりも齢を重ねた精悍な貫禄を感じる。
才廣「今日は特別です。通常業務に加えて、出撃前の整備もあったので。日中には空襲警報も鳴りましたしね。」
飛行兵「そうか。ありがとな。俺たちのために、こんな遅くまで頑張ってくれて。」
才廣「え? いえ、そんな…。滅相もない。」
まさか、自分たちの仕事が褒められるとは、想像もしていなかったことだった。それも、明日は仏となる特攻隊員の方から直接、お礼を言われるなんて。
才廣「お礼を言わないといけないのは、俺たちの方ですよ。国のために、明日、全身全霊を捧げて攻撃に往かれる。」
ハッハッハッと飛行兵は笑ってくる。
飛行兵「そんなに遠慮することは無いんだぞ。飛行機がまともに飛べなかったら、俺たちは特攻どころか戦場にも行けないんだからな。日頃から愛機の整備をしっかりやってくれる人が居てくれるから、俺たち空中勤務者は胸張って戦いに行けるんだ。だから自分たちの仕事に胸張って良いんだからな。」
背中を叩かれる。
今までに感じたことの無い熱い想いが篭もっているようであった。
これが、明日死にに往く人の言葉なのか…。
飛行兵「じゃあな。忙しいところ、すまなかった。」
そう言って、飛行兵は振り返って掩体を出て行こうと歩き出す。そんな飛行兵の背中に向けて、才廣は声を上げた。
才廣「待って下さい!」
飛行兵の歩が止まり、振り返ってくれた。
才廣「お名前、聞いてもよろしいですか? 明日、仏様になられる御方のこと、しっかり胸に刻ませたいんで。」
すると、飛行兵は愉快そうにニコニコと、それは良い笑顔を見せてきた。
飛行兵「大川だ。
才廣「大川、治信少尉。」
忘れはしない。忘れてはならない。墓場まで、この名を憶え続けてやる!
大川「あんたは?」
才廣「え? 俺?」
自分の名前など、特攻隊員の方に憶えてもらうほどのものでも無いと思うのだが…。
そう感じながらも、才廣は名乗る。
才廣「山縣才廣です。」
大川「山縣才廣。憶えておくぞ。そして、あの世に往ったら地獄の
楽しいことを話すように、大川は笑い声を上げながら不敵な笑みを見せて言い切った。
そして、才廣の肩を叩く。
大川「往ってくるな。」
大川少尉は颯爽と歩き出す。その背中は、決して、明日死にに往く者のものでは無く、希望を信じて前へと突き進む、絵本の中に出てきそうな勇者のようであった。
無意識のうちに涙が頬を伝っていた。暗闇の中に消えた大川少尉の背中を見詰め続けて。
翌日。
1945年4月1日。
知覧飛行場からは初となる特攻出撃が行われた。
出撃前。
才廣は、つい先ほどまで自らが整備していた戦闘機を滑走路手前の準備線まで誘導し、受け持ちのパイロットへ引き渡した。
コクピットから飛び下り、直立したまま自分の機体が来るのを待っていた特攻隊員と正面で向き合う。そして、敬礼!
才廣「大川少尉、機体は異常なしであります! どうぞ、ご武運を!」
そう才廣が訓示を読み上げるように発すると、大川少尉はニコニコと朗らかな笑顔を才廣に見せる。
大川「了解! 機体の整備、感謝する。」
言い切ると、大川少尉は右手を差し出してきた。握手を求めているのだ。才廣は黙って右手を出し、大川少尉の右手を握った。
大川「後のことは、頼んだからな。」
才廣「はい…。」
大川少尉は才廣の肩を叩くと、才廣の横を通り抜けてコクピットへ上がってしまった。
すぐに才廣は機体から離れ、振り返って大川少尉が居るコクピットを見上げる。
すると、大川少尉の弾んだ声が聞こえてきた。
大川「これは良いな! 花見でもしてるみたいだ。」
実は、才廣は朝に兵舎から飛行場へ向かう際に沿道に咲いてた桜の枝を五本程度抜いてきて、コクピットに固定して桜で飾っていたのだ。
コクピットから大川少尉が顔を出し、才廣を見てくる。
大川「粋な計らい、ありがとう!」
才廣は黙ったまま、大川少尉に向けて敬礼を続けた。そして、ついに大川機が動き出し、出発線へと向かう。出発線まで来たら、後は司令部からの発進合図を受けて滑走路を駆け込み、離陸するのみだ。
さよなら、大川少尉。ご武運を。
これが、才廣にとって最初のお見送りになった。
才廣たち地上勤務者が見送る中、大川少尉を含む第23振武隊4機は予定通り離陸し、沖縄へ向かっていった。
この日出撃した特攻機は沖縄本島付近に点在するアメリカ軍の艦隊に突入、大川少尉を含む4名が特攻戦死した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます