第八話 渺の人

「作者が自ら結末を書き換えようとは感心せんな」


 変翔へんしょう追跡に大わらわな人々の邪魔にならないよう、王宮の中でも人気のない廊下に退いていたすいとキムの背中に、不意にそんな言葉が投げかけられた。


 ふたりが驚いて振り返った先に現れたのは、頭から顔まで覆い隠すような頭巾をまとった、見覚えがある男の姿であった。


「せっかくここまでお膳立てしてやったというのに、それを肝心の作者にひっくり返されては元も子もない」

琅藍ろうらん……」


 自身の筆名を騙る男の唐突な登場に、すいはその名を呟くだけで精一杯だった。


 だが頭巾の男は彼女の声を聞き流して、キムの顔ばかりに目を向ける。


 頭巾の隙間から覗く黒い瞳に浮かぶのは、生身の人間に注がれる視線と言うよりも、どこか骨董品や絵画を愛でる好事家のそれに似ていた。


「改めて見れば、さすが天女役を務めるに相応しい美しさだな。今少し艶があれば私の好みにもそぐうのだが、なかなかそこまで思い通りにはならんということか」


 彼の手袋を被った指先が頬に伸びようとして、キムが慌てて後退る。そして彼女を庇うように、すいがふたりの間に割り込んだ。


「ちょっと、何を私のこと無視してるの」


 長身の男を見上げるすいの目には、いかにも不審な相手の正体を問い詰めようという強い意志が込められている。だが頭巾の男はすいを一瞥しただけで、それ以上関心を払う気がないのがあからさまであった。


「誰かと思えば天女の世話役か。申し訳ないが私は端役には興味がない」


 そして顔を上げた彼がキムを見る視線には、対照的に純粋な興味に満ちている。


「こんなところで物語を終わらせてしまってはもったいない。お前が書いた『大洋伝』の結末は、もっと劇的で壮大なものだろう」

「やっぱりあなた、『大洋伝』を読んだことがあるのね?」


 警戒した口調のキムに向かって、頭巾に覆われた男の口元が微かに笑みを浮かべたように見えた。


「私は『大洋伝』の一読者として、その行く末を見届けたい。ただ、それだ……」


 そこまで言いかけた男の頭が、不意にがくんと下に引き落とされた。


「だから無視するなって言ってるでしょう!」


 見れば男の頭巾の端をつかんだすいが、その先を引っ張っている。すいがさらに端を引っ張ったので、無理矢理屈み込ませられた男が抵抗するよりも早く、彼の顔の下半分を覆っていた頭巾は引き剥がされてしまった。


 露わになった男の顔を、すいは改めてまじまじと見入る。


 王宮から脱出したあの晩は、ほとんど闇の中で彼の目鼻立ちまで捉えることは出来なかった。今目の前にする男の顔は、褐色を通り越して漆黒と言うべき艶やかな黒。一方で彫りの深い整った目鼻立ちや卵形の輪郭は、むしろキムに近い。


 有り体に言えば、黒い肌の美青年である。


「やっぱり……」


 男の顔を見つめる瞳をこれ以上ないほどに見開いて、すいは我知らずそう呟いた。頭巾の端をつかむその手が、思わず力を弛める。そこで男はようやくすいから頭巾を取り返すことが出来た。


 再び顔を頭巾で覆いながら、男が小さくため息をつく。


「肌の色がそれほど珍しいか。この世界で私は天女以上に目立つ。お陰で頭巾が手放せない、それだけが不便でならん」

「それは私のせいだわ。悪かったわね、琅藍ろうらん

「……なんだと?」


 その言葉を聞き捨てならないとばかりに、男の――琅藍ろうらんの目が、初めてすいの顔を見返した。


 頭巾の合間から覗くのは、長い睫毛が被さった大きな黒い瞳。同じく黒いはずのすいの瞳の色と異なることは、真正面から見据えることで初めてわかった。奥底が見えない、だが黒一色に染まっているわけでもない。まるで様々な色が折り重なって、その結果生み出されたようなとりとめもない黒。


 その瞳に目を合わせるとどこまでも吸い込まれてしまいそうで、すいはさらに言葉を紡ぐことも忘れてしまう。


 しばらく口もきかずに見つめ合っていたふたりは、だがそれ以上答えようとしないすいを待てなかったのか、琅藍ろうらんが先に視線を逸らした。


「物語はここでは終わらない。私はひと足先に結末の地、耀ようで待つ」


 そう言うと琅藍ろうらんはふたりに背を向けて、おもむろに廊下の壁を手で押した。途端に何もなかったはずの壁に切れ込みが生じ、かと思うと切れ込みは見る見るうちに広がって、やがて人ひとりが通り抜けられそうなほどのぽっかりとした扉が開いた。


 すいはあんぐりと口を開いて、言葉も出ない。振り返った琅藍ろうらんが、彼女の顔を見て少しばかり目を細めた。


「お前たちも耀ように来い。共にこの物語の結末を見届けよう」


 琅藍ろうらんはそう言い残すと、扉の陰へと長身を飛び込ませてしまった。


 はっと目が覚めたようにすいがその後を追おうとしたが、扉はあっという間に音もなく閉まり、壁にはその痕跡すら見当たらない。


「なんなの、いったい」


 すいが手当たり次第に壁を押すが、扉どころか切れ込みすら現れない。当てずっぽうに壁を叩くすいの後ろからキムの手がすっと伸びて、壁の高い位置に手を当てて力を込めた。すると先ほど同様に壁に切れ込みが生じ、やがてまた人ひとり分の入口が目の前に現れる。


「決まった位置を一定の力で押すと開くようになってるのね。きっとこれも、王宮の抜け道のひとつだわ」


 中を覗き込んだすいの前には、闇に包まれた空間が広がるばかりであった。どうやら細い道が奥に続いているらしいことは窺えるものの、曲がりくねっているらしく奥の様子は全くわからない。


 やがて再び閉じた隠し扉の前で、すいがふて腐れたように振り返る。


「何が『共に物語の結末を見届けよう』よ。いけ好かない奴!」


 すいが腕を組んだまま愚痴を零す。だが彼女の顔を見返すキムの瑠璃色の瞳には、微かな疑問が浮かんでいた。


「ねえ、スイ。もしかしてローランの正体がわかった?」


 そう尋ねられて、すいの顔は不機嫌そうな表情から一転して思わせぶりなそれへと切り替わった。


「そう見えた?」

「だって『やっぱり』とか『私のせい』とか。見当はつけてるんじゃないの?」


 するとすいてのひらを合わせた両手を鼻先に持ち上げて、おもむろに唱えるかの如く口を開いた。


「『そこに住む人は皆、磨き抜かれた黒檀の如く黒い艶やかな肌を持つ、美男美女ばかり』」


 唐突に、まるで文章を読み上げるかのようなすいの台詞に、キムは思わず瞼をしばたたかせる。


「――何?」

「『びょう遊紀』の一節よ。といってもいくらなんでも有り得ないと思って、実際には書き出さなかったんだけど」


 キムのような金髪碧眼に透き通るような白い肌も想像の埒外にあったが、すいが思い浮かべた異世界の住人は、およそ見たことのない滑らかで美しい黒い肌の持ち主であった。それも絶世の美形ばかりを夢想したのは、年頃の少女にはむしろ当然だったかもしれない。


 ただいざ書き出そうとして、さすがに読む人の想像を超えていると思い直し、文字に起こすことは控えたのである。


 いわば作者だけが知る、伏せられた設定だ。


「あいつはまさにその通り、私の理想の異世界人だわ」


 すいの胸の内にのみ秘められた、その姿形通りの琅藍ろうらんの顔を思い返して、少女の瞳が俄かに好奇心で満ち溢れていく。その様はつい先ほど、琅藍ろうらんがキムを眺め回していた視線によく似ていることに、すいは気づいていない。


琅藍ろうらんはこの世界の住人でも、キムがいた『天』の住人でもない。びょうの人よ」

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