第五話 天女の涙 嗤う策士
「あれはおそらく
事件の報があった翌日、
まだ怪我がろくに癒えていない
「
「島主様もご存知の通り、我らはここ数年連中に関銭を納めております。そのやり取りの際に見た顔がおりましたから、間違いありません」
そう述べる
「
身体を支えるために床についた右手の先で、
「あの辺りの海や連中のねぐらのことなら、
「お前の思いはよくわかった。だがその怪我ではいざというときに連れて行くことかなわん。まずは養生することに専念せよ」
そうたしなめられて、
「
「……はい」
そのことは
「キムはどうしてますか」
昨日の出来事を振り返れば、キムがこの事件の可能性を予見していたのは明らかだった。ただ彼女自身、予見に確信が持てなかったのだろう。だから
それが
だが同時に
キムが書いたという『大洋伝』に描かれているのは、もしやこの世界で
「恐い顔をしているな、
そう指摘されて、
「キムを責めるな。あいつが本当に天女だとしても、この世界の隅々まで知り得るはずがない。ましてや飛家の船を襲うなど、そんな物騒なことを考える女ではないと、お前が一番よく知っているはずだろう」
「……島主様はもしや、キムから何か聞き出されているのですか?」
我知らずにじり寄る
「儂が聞いたのは、目を回したキムが口走った
飛家の船が襲撃されたと報されたキムは、
「キムが書いた物語とやら、どうやら儂が思う以上に意味があるようだな。後ほどでもじっくり聞かせよ」
***
床に伏したキムの姿は、まるでそこに彫像でも横たえたかのように厳かであった。
頭の周りに広がった金髪が、キムの小さな頭や細い肩の下に敷かれた眩い布のように見える。真っ白い瓜実顔の中心で伏せられた瞼から伸びる、やはり金色の長い睫毛が、吐く息と共に細かく震えている。その上では細い眉が、夢の中で苦悶でもしているかの如く、微かにひそめられている。
改めてキムの寝顔を見ると、金色に包まれた彼女からは神々しささえ感じられた。これほど人間離れした存在と、昨日まで当たり前に会話していたのだ。
今彼女が目覚めたとして、自分は昨日までと同じように口をきけるのだろうか。彼女にとって憧れだったというこの世界について、無邪気に語り合えるのだろうか。『天覧記』の内容とそっくりだという、彼女の元いた世界について耳を傾けることが出来るのだろうか。
傍らの丸椅子に腰掛けながら、
「スイ?」
弱々しい声に呼ばれて振り返ったスイの目に映ったのは、うっすらと開かれた瞼の下から覗く、あの海のように底の見えない瑠璃色の瞳であった。
「……目が覚めたのね、キム」
自分でも驚くほど穏やかな声で、
「ごめんなさい、スイ」
目尻から零れ落ちた涙を拭おうともせず、キムの唇から紡ぎ出されるのはひたすら謝罪の言葉ばかりであった。
「私が『大洋伝』なんか書いたばっかりに。あんな話を書いたりしたから、ヒロク様は酷い目に……」
「落ち着いて、キム」
「お父様は確かに大怪我を負ったけど、命に別状はないわ。しばらく安静にしていれば大丈夫」
「でもリンの船が海賊に襲われるなんて、私が書かなければ。それがまさかこんなことになるなんて」
時折りしゃくり上げながら、キムの涙声は止まらなかった。自分がしでかした責任の重さに耐え切れないのだということは、
まるで万物を司る力を得たような錯覚に陥るのかもしれない。
だが現実に見知った人たちが、自分が書いた物語の通りに被害に遭ったり、もしかして命を落としたりしたら。そんな万能感はあっという間に消し飛んで、むしろ自身に向けて呪詛の言葉のひとつでも吐きつけたくなるに違いない。
「ねえ、キム。あなたの言う通り、この世界は『大洋伝』に描かれた世界なのかもしれない。私だって、もしかしたらあなたに創り出された存在かもしれないわ」
キムの白い額にそっと手を乗せながら、
「でもよく考えて。この私があなたの言う通りに、おとなしく動くとでも思う?」
それはキムの心を落ち着かせるためであると同時に、
「スイが私の思い通りになるなんて、そんなこと考えられない」
「そりゃそうよ。私だってそんなつもり、これっぽっちもないもの」
そしてふたりは顔を見合わせて、やがてどちらからともなく笑い出す。
それはふたりの間に漂っていた悲壮な空気を吹き飛ばすには、十分な笑い声であった。
「ありがとう、スイ。あなたがそう言ってくれて、少し気が楽になった」
そう言うとキムは布団から上体を起こして、改めて
「でもだからこそ、あなたには伝えておかなくちゃいけない。これから先、何が起こるのか――いえ、私が『大洋伝』に何を記したのか」
「……『大洋伝』の内容を、全部思い出したのね」
「島主様は今回の事件を機に、遠からず兵を起こすことになる」
「兵を?」
キムの告白に
自らが治める島の住民が海賊に襲われたのだ。
「それだけならいいんだけど」
海賊討伐だけでも一大事だというのに、それ以上の何かがあるというのか。
さすがに不安を覚えた
「もしかしたらこの世界が吹き飛んでしまう――その切欠になってしまうかもしれないのよ」
***
鱗が属する
東西南北に方形に広がる
宮殿はそれだけで十街区に匹敵する広さを有している。何も知らずに宮殿に足を踏み入れようものなら、十中八九迷子になること請け合いだ。この宮殿で生まれ育った
その内のひとつ、せいぜい六畳一間の広さの窓ひとつない一室で、わずかに蝋燭の明かりを恃みに顔を突き合わせるふたつの人影があった。
「内海の賊が鱗の商船を襲ったそうだ」
そう告げたのは、派手な冠を被ったやや小柄な男性であった。年の頃は五十前後といったところだろうか。剃刀のように鋭い眼差しが特徴的なその男は、貴人にしか許されない深紅の
「
貴人の言葉に、蝋燭の火を挟んだ向かいの人影が答える声はややくぐもって聞こえた。
「兵を集める
「お主の献策通りにことが進んでおる。さぞや痛快だろう」
言葉ほどに面白くもなさそうな口調で、貴人は表情を変えずにそう言った。もっとも彼は滅多に笑うことのない、徹底した無表情で有名な男だ。
「まだ策が成就したわけではない。
「もちろんです。万事ぬかりなく」
そう答える人影の頭から、長い布の先がはらりと垂れる。
頭から顔まで長い頭巾でくるんだその人影は、
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