第五話 天女の涙 嗤う策士

 飛禄ひろくせんが乗る船が海賊に襲撃されたのは、りょうを発って三日後のことであった。


 りょうの前には紅河と呼ばれる大河がある。紅河を下り内海に出た飛家の船は、それから間もなく賊の船に囲まれたのだという。


「あれはおそらく右填うてんの一味です」


 事件の報があった翌日、すいに伴われて屋形に現れたせんは、そう言うと唇の端を噛み締めた。


 まだ怪我がろくに癒えていないせんは、不安定な姿勢しか取ることが出来ない。島主の前で跪きながら身体をぐらつかせる彼を、傍らのすいが慌てて支える。頭に巻きつけた包帯には微かに血が滲み、左腕は未だ三角巾で吊したままのせんの姿は、見るからに痛ましい。


せんと申したな。賊がどうして右填うてん一味だとわかる」


 上紐恕じょうちゅうじょの問いに、せんは俯きながらもその答えは明瞭だった。


「島主様もご存知の通り、我らはここ数年連中に関銭を納めております。そのやり取りの際に見た顔がおりましたから、間違いありません」


 そう述べるせんの言葉の端々から、抑えきれない強い憤りが感じ取れる。これまで海賊たちとは関銭を代償とした、いわば約定が結ばれていたのだ。その約定が一方的に破られて、あまつさえ彼の育ての親にも等しい飛禄ひろくまで傷つけられたのだから、せんの怒りは並大抵ではなかった。


頭領オヤジ――飛禄ひろく様が受けた傷は深く、未だ起き上がることも出来ません。飛禄ひろく様をあんな目に遭わせた賊を、俺は許せねえ」


 身体を支えるために床についた右手の先で、せんは血が滲むほどの力を込めて拳を握り締めている。


「あの辺りの海や連中のねぐらのことなら、飛禄ひろく様に次いで詳しいのはこの俺です。賊を討伐する際にはこの俺も、何卒お供させて下さい」


 せんは包帯を巻いた頭を床に打ちつけて、上紐恕じょうちゅうじょに懇願した。その横で同じ思いを抱いているのだろう、すいもまた平伏している。


「お前の思いはよくわかった。だがその怪我ではいざというときに連れて行くことかなわん。まずは養生することに専念せよ」


 そうたしなめられて、せんはひとまず上紐恕じょうちゅうじょの前から引き下がった。せんが退出してからも面を伏せたままのすいに向かって、上紐恕じょうちゅうじょが言う。


すい、お前にも飛禄ひろくの元にいてやれと言ってやりたいところだが、そうもいかん」

「……はい」


 すいはゆっくりと顔を上げながらそう答えた。彼女はキムにとって唯一、この屋形で心許せる相手なのだ。そして上紐恕じょうちゅうじょにとってキムはそう簡単に手放せない以上、すいもまた同様に手元に置いておかなければならなかった。


 そのことはすいも、さすがに心得ている。


「キムはどうしてますか」


 せんと共に屋形に参上して、真っ直ぐに上紐恕じょうちゅうじょに拝謁したから、まだすいはキムの姿を見ていない。実のところ、すいはそのことに内心安堵していた。


 せんのようにあからさまではないものの、すいもまた今回の事態に胸中で整理がついていない。このままキムと鉢合わせてしまったらどんなことを口走ってしまうか、すいは自信が持てなかった。


 昨日の出来事を振り返れば、キムがこの事件の可能性を予見していたのは明らかだった。ただ彼女自身、予見に確信が持てなかったのだろう。だからすいには説明をぼかしたままで、飛禄ひろくせんの様子を確認させたかったのだ。


 それが飛禄ひろくたちの無事を祈る気持ちから出た態度であることは、頭では理解出来る。


 だが同時にすいは問い質さなければならなかった。


 キムが書いたという『大洋伝』に描かれているのは、もしやこの世界でなのではないか。


「恐い顔をしているな、すい


 そう指摘されて、すいは思わず上席を仰ぎ見た。段上の椅子に腰掛ける上紐恕じょうちゅうじょは、太い眉を片方だけ上げて、すいの顔を見下ろしている。


「キムを責めるな。あいつが本当に天女だとしても、この世界の隅々まで知り得るはずがない。ましてや飛家の船を襲うなど、そんな物騒なことを考える女ではないと、お前が一番よく知っているはずだろう」

「……島主様はもしや、キムから何か聞き出されているのですか?」


 我知らずにじり寄るすいに、上紐恕じょうちゅうじょは大袈裟に首を振ってみせた。


「儂が聞いたのは、目を回したキムが口走った譫言うわごとだけだ。『私が書いた物語のせいで、ごめんなさい』とな」


 飛家の船が襲撃されたと報されたキムは、上紐恕じょうちゅうじょの執務室でそのまま倒れ込んでしまい、そのまま昨日から寝込んだままなのだという。


「キムが書いた物語とやら、どうやら儂が思う以上に意味があるようだな。後ほどでもじっくり聞かせよ」

 

 ***


 床に伏したキムの姿は、まるでそこに彫像でも横たえたかのように厳かであった。


 頭の周りに広がった金髪が、キムの小さな頭や細い肩の下に敷かれた眩い布のように見える。真っ白い瓜実顔の中心で伏せられた瞼から伸びる、やはり金色の長い睫毛が、吐く息と共に細かく震えている。その上では細い眉が、夢の中で苦悶でもしているかの如く、微かにひそめられている。


 改めてキムの寝顔を見ると、金色に包まれた彼女からは神々しささえ感じられた。これほど人間離れした存在と、昨日まで当たり前に会話していたのだ。


 今彼女が目覚めたとして、自分は昨日までと同じように口をきけるのだろうか。彼女にとって憧れだったというこの世界について、無邪気に語り合えるのだろうか。『天覧記』の内容とそっくりだという、彼女の元いた世界について耳を傾けることが出来るのだろうか。


 傍らの丸椅子に腰掛けながら、すいがキムの寝顔を見下ろす視線には、胸の奥から様々に噴き出す感情が混じり合う。キムが目を覚ましたらどんな言葉をかけるべきか、何を思い浮かべても相応しくないような気がして、つい目を逸らしたその瞬間――


「スイ?」


 弱々しい声に呼ばれて振り返ったスイの目に映ったのは、うっすらと開かれた瞼の下から覗く、あの海のように底の見えない瑠璃色の瞳であった。


「……目が覚めたのね、キム」


 自分でも驚くほど穏やかな声で、すいはそう答えることが出来た。その途端、キムの両眼が俄かに潤み出す。


「ごめんなさい、スイ」


 目尻から零れ落ちた涙を拭おうともせず、キムの唇から紡ぎ出されるのはひたすら謝罪の言葉ばかりであった。


「私が『大洋伝』なんか書いたばっかりに。あんな話を書いたりしたから、ヒロク様は酷い目に……」

「落ち着いて、キム」


 すいはキムの頬に伝う涙を手巾ハンカチで拭いながら、なだめの言葉を口にした。


「お父様は確かに大怪我を負ったけど、命に別状はないわ。しばらく安静にしていれば大丈夫」

「でもリンの船が海賊に襲われるなんて、私が書かなければ。それがまさかこんなことになるなんて」


 時折りしゃくり上げながら、キムの涙声は止まらなかった。自分がしでかした責任の重さに耐え切れないのだということは、すいが察するまでもない。戯れに書き上げた物語が実際に生きる人々の運命まで定めると知って、もし自分だったらどんな気持ちになるのだろうか。


 まるで万物を司る力を得たような錯覚に陥るのかもしれない。


 だが現実に見知った人たちが、自分が書いた物語の通りに被害に遭ったり、もしかして命を落としたりしたら。そんな万能感はあっという間に消し飛んで、むしろ自身に向けて呪詛の言葉のひとつでも吐きつけたくなるに違いない。


「ねえ、キム。あなたの言う通り、この世界は『大洋伝』に描かれた世界なのかもしれない。私だって、もしかしたらあなたに創り出された存在かもしれないわ」


 キムの白い額にそっと手を乗せながら、すいは努めて穏やかな声で語りかける。


「でもよく考えて。この私があなたの言う通りに、おとなしく動くとでも思う?」


 それはキムの心を落ち着かせるためであると同時に、すいが自分自身に言い聞かせるための言葉であった。


 すいの言葉を聞いて、キムは最初ぼうっとしたまま彼女の顔を見返していたが、やがて唇の間から小さな笑みを吹き出した。


「スイが私の思い通りになるなんて、そんなこと考えられない」

「そりゃそうよ。私だってそんなつもり、これっぽっちもないもの」


 そしてふたりは顔を見合わせて、やがてどちらからともなく笑い出す。


 それはふたりの間に漂っていた悲壮な空気を吹き飛ばすには、十分な笑い声であった。


「ありがとう、スイ。あなたがそう言ってくれて、少し気が楽になった」


 そう言うとキムは布団から上体を起こして、改めてすいの顔を見つめ返す。涙を拭い去ってしっかりと見開かれた瑠璃色の瞳には、先ほどまでの打ちひしがれた表情に取って代わって真剣な眼差しが浮かんでいた。


「でもだからこそ、あなたには伝えておかなくちゃいけない。これから先、何が起こるのか――いえ、私が『大洋伝』に何を記したのか」

「……『大洋伝』の内容を、全部思い出したのね」


 すいの問いに、キムは神妙な面持ちで頷き返した。


「島主様は今回の事件を機に、遠からず兵を起こすことになる」

「兵を?」


 キムの告白にすいは軽く目を見開いて、だがすぐに冷静さを取り戻した。少し考えればそれほど不思議なことではない。


 自らが治める島の住民が海賊に襲われたのだ。科恩かおん単陀李たんだりの誘いだけならまだしも、領民が危険に晒されて島主が何もしないわけにはいかない。つまり上紐恕じょうちゅうじょいつと共に海賊を討伐するということなのだろう。


「それだけならいいんだけど」


 海賊討伐だけでも一大事だというのに、それ以上の何かがあるというのか。


 さすがに不安を覚えたすいは、無意識に唾を飲み込んでいた。ごくりと喉を鳴らしたその音に促されるようにして、思い詰めた表情のキムが意を決したように口を開く。


「もしかしたらこの世界が吹き飛んでしまう――その切欠になってしまうかもしれないのよ」


 ***


 鱗が属するびんの都・りょうは、南の大陸を長々とうねりながら内海に注ぐ紅河のほとりにある。一日に出入りする人々の数だけでも優に鱗の人口を上回るというりょうが、びんのみならずこの世界でも有数の大都市であることは、一度目にした者であれば誰もが頷くだろう。


 東西南北に方形に広がるりょうには百を超える街区がひしめいており、訪れる者はその一街区が己の故郷を上回る賑わいを示すことに目を回す。だがそれ以上に目を引くのは、百以上の街区を見下ろすように聳える宮殿だ。


 りょうの南に面した山々の中腹に設けられた宮殿は、その荘厳な佇まいといい、りょうの街区を睥睨するかのような趣きといい、さすがこの世界でも有数の大国であるびんの支配者の住まいに相応しい。


 宮殿はそれだけで十街区に匹敵する広さを有している。何も知らずに宮殿に足を踏み入れようものなら、十中八九迷子になること請け合いだ。この宮殿で生まれ育ったびん王すら、宮殿の全容を把握しているとは言い難い。広大な敷地の上に歴史の長さが相まって、宮殿にはいつ誰が設けたかもしれない、今や誰にも知られないような区画がごまんと存在している。


 その内のひとつ、せいぜい六畳一間の広さの窓ひとつない一室で、わずかに蝋燭の明かりを恃みに顔を突き合わせるふたつの人影があった。


「内海の賊が鱗の商船を襲ったそうだ」


 そう告げたのは、派手な冠を被ったやや小柄な男性であった。年の頃は五十前後といったところだろうか。剃刀のように鋭い眼差しが特徴的なその男は、貴人にしか許されない深紅のうわぎといい、腰に巻いた豪奢な帯といい、彼が宮殿でもよほど高位にあることは明らかであった。


いつの誘いに頷かなかったという上紐恕じょうちゅうじょも、これで動かざるを得まい」


 貴人の言葉に、蝋燭の火を挟んだ向かいの人影が答える声はややくぐもって聞こえた。


「兵を集める上紐恕じょうちゅうじょが、不穏な気配ありと疑われるのも已む無しですな。宰師様は、奴を都に召喚する格好の口実を得ることになります」

「お主の献策通りにことが進んでおる。さぞや痛快だろう」


 言葉ほどに面白くもなさそうな口調で、貴人は表情を変えずにそう言った。もっとも彼は滅多に笑うことのない、徹底した無表情で有名な男だ。


 びんの宰師・変翔へんしょうの鉄面皮ぶりは、宮殿はもちろん国の内外に轟いている。


「まだ策が成就したわけではない。上紐恕じょうちゅうじょ単陀李たんだりほど間抜けではないだろう。ゆめゆめ用心を怠るなよ」


 変翔へんしょうの冷ややかな視線を受け止めて、人影が恭しく頭を垂れた。


「もちろんです。万事ぬかりなく」


 そう答える人影の頭から、長い布の先がはらりと垂れる。


 頭から顔まで長い頭巾でくるんだその人影は、変翔へんしょうの目を避けるように面を伏せながら、わずかに覗く目元にはありありと笑みを浮かべていた。

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