第四話 凶報

 宴から数日経っても、キムの表情は浮かないままであった。


 血色こそ戻ったものの、眉間に皺を寄せて唇も引き結ばれたまま、一日中何やら思い詰めている。すいが何度か話しかけても上の空だし、何より読破を目指していた『天覧記』を手にしても、頁をめくる手がはたと止まったままだ。


 あの宴はすいにとって、退屈な上に空々しいことこの上なかった。成果といえば、上紐恕じょうちゅうじょの不貞不貞しさを目の当たりにすることが出来た、その程度だ。


 だがキムにとってはそうではなかったらしい。


「ヒロク様やセンは、またリョウに向かわれているのよね。いつ頃戻られるのかしら」


 唐突にキムから尋ねられて、すいはこめかみに人差し指を当てた。


「どうだろう。直に見送ったわけじゃないからね。いつ頃出立したのかもわかんないし」

「リョウに行って帰ってくるまで、だいたいどれぐらいかかるもの?」

「そのときの用事次第で結構幅はあるけど。早ければ十日ぐらい、遅いときはその倍ぐらいかな」


 答えを聞いても、キムは相変わらず表情を曇らせたままである。その原因が未だにわからないことが、すいにはいい加減もどかしい。


「キム、最近変だよ。何が気になるのかそろそろ教えてくれても――」

「ねえ、スイ」


 不意にキムの両手が、すいの両肩に置かれた。頭ひとつ以上高い位置からすいを見下ろすキムの表情は、至って真剣そのものだ。


「お願いがあるの。ヒロク様たちが戻られているかどうか、確かめてきてくれない?」


 どうしてそんなことが気になるのかと、すいには尋ね返すことが出来なかった。彼女の瑠璃色の瞳に浮かぶ切羽詰まった表情が、すいに反駁の余地を許さない。


 かくしてすいはキムの懇願に気圧される形で、取るものもとりあえず実家へと向かったのであった。


「わけわかんないなあ、もう」


 島主の屋形から飛家の屋敷までは、高台を下って港町を通り抜ければ良い。往復するだけなら少女の足でも半日もあれば事足りる。その程度のお使いを億劫がるつもりはないが、そもそもキムの目的がよくわからない。


 道中様々に考えてみるが、一向に答えは出てこなかった。答えの出ないことで頭を悩ませるのは、すいには大の苦手である。屋形に戻ったら改めて問い質そう――すいは早々に頭を切り換えると、見慣れた町並みに目を向けた。


 父たちの帰還を確かめてこいというが、そのためだけに実家に顔を出してまた屋形まで引き返すのも芸がない。帰りに寄り道して、土産でも買って帰ろう。どうせならキムも気に入っていた、馴染みの店の小餅がいい。


 そんなことを考えながら港町の雑踏を歩いていたすいを、慌てるかのような声が呼び止めた。


すいちゃん、あんた、何をこんなとこでぼうっと歩いてるの!」


 声の主は港町で反物を扱う、すいも幼い頃からよく知る女主人であった。いつもはあの手この手で布地やら服やら買わせようと猫撫で声の中年女性が、今日は血相を変えてすいの顔を覗き込む。


「こんなとこって、久しぶりに屋形から実家に戻る途中なんだけど」

「ああ、そういえばせんが言ってたね。天女様と一緒に当主様にお仕えしてるって」


 事情を把握した女主人が、改めて険しい顔つきですいに言う。


「じゃあまだ知らないんだね。早く実家に顔を出した方がいい。港じゃ結構な騒ぎになってるよ」

「騒ぎって、なんかあったの?」


 すいが尋ねても女主人は口ごもって、とにかく早く実家に帰れと促すばかりである。キムといいこの女主人といい、いったい何がどうしたというのか。さすがにすいの胸中にも不安がよぎる。ともかくも実家に急いだ方が良さそうだ。


 人混みの間を小走りに駆け抜ける途中も、女主人同様に心配そうな声を何度もかけられた。どうやら彼女が思う以上にただ事ではない。


 頭の中に嫌な予想を浮かべては打ち消しつつ、息を切らしながらようやく実家の門をくぐる。


 そこで彼女を出迎えたのは、泣き腫らした母の顔であった。


「お母様、いったい何があったんですか?」


 青ざめながら事情を尋ねる娘に対して、母は袖の端で涙を拭うばかりだ。すいが泣き崩れる母を抱き止めていると、やがて背後から聞き慣れた声が彼女の名を呼んだ。


せん?」


 そう口にしながら振り返って、すいは思わず息を呑む。


 彼女の目に飛び込んできたのは、左腕を三角巾で吊し、頭巾からうわぎまで半分以上を血に染めたせんの姿であった。


 ***


単陀李たんだりは元々、びん王の側近のひとりだった」


 そう言って上紐恕じょうちゅうじょは、片手で湯飲みを持ち上げる。両手で湯飲みを抱えるのは、この世界ではどうやら女子の作法であることを、キムは最近知ったばかりだ。


「あの通り落ち着かない男だが、細かいところには目端が利くらしくてな。それなりに重宝されていたようだ。儂が初めてりょうに上ったときには、りんの田舎者などとは口をきこうともしなかったものだ」

「そんなに偉い方なんですか。私、何か失礼を働いたりしてないでしょうか」


 卓上の湯飲みに手を伸ばしたまま、キムは宴席の記憶をたどる。


 あの晩のキムは上紐恕じょうちゅうじょに命じられるまま、無表情に徹していた。といっても彼女には、すいのように退屈する余裕もなかった。いつ話題を振られても反応出来るよう、目の前の貴人たちが交わす一言一句に集中していたのである。


 だからキムはあの晩の上紐恕じょうちゅうじょたちの会話を、ほとんど全て思い出せる。


「気にするな。奴が王の側近だったのは、ひと昔前の話だ」


 湯飲みからひと口茶を啜ると、上紐恕じょうちゅうじょは薄い笑みを浮かべながらそう答えた。


「数年前に政争に敗れて都落ちしてからは、あの通り国の内外を問わず有力者に擦り寄って、なんとか返り咲きを狙っている。かくいう儂にも何度か秋波を寄越して辟易していたのだが、今回は乙の使者まで伴ってきたから断るわけにもいかなかった」

「そういうことでしたか」


 上紐恕じょうちゅうじょの言葉に頷いたキムの白い頬に、結い上げた頭から一房垂れた金髪が微かに揺れる。ふたりの間を通り抜けていく風の後を追いかけて、キムは瑠璃色の瞳の向ける先を辺りに巡らせた。


 ふたりは今、上紐恕じょうちゅうじょの執務室から外に通じる両開きの扉を開けて、庭を目の前にした円卓を囲むように着席している。それほど広くない庭の端に設けられた柵の向こうには、りんが内海に誇る立派な港とその奥に広がる雄大な海が、午後の穏やかな日差しの下に一望出来た。この島を治める島主には相応しい眺望である。


 何よりキムにとって、海とは長年の憧憬の対象であった。


単陀李たんだりは奴の言う佞臣とやらを追い落とすために、この儂を神輿に担ごうと画策している」


 だが上紐恕じょうちゅうじょが口にする内容はいささか生臭すぎて、キムは絶景を堪能することに専念出来ない。


「島主様を神輿に、ですか」

「王家の血を引く儂を立てて、君側の奸を討つとでも宣うつもりなのだろう。奴がひとりで喚くだけなら無視していれば良いが、乙まで巻き込まれると軽々しく袖にするわけにもいかん。そこでキム、お前の出番だ」

「私の?」


 心底驚いたという表情をまとって、キムは上紐恕じょうちゅうじょを見返してみせた。対して上紐恕じょうちゅうじょは涼しげな顔のまま、太い眉の片方をわずかに上げる。


「そう意外そうな顔をするな。お前はただ、科恩と単陀李たんだりの前でもっともらしく口にするだけで良い。『今はまだ賊を討つ時期ではない』とな。なんならお前の元いた世界とやらの言葉でも良いぞ。すいに通訳の真似をさせればいい話だ」


 上紐恕じょうちゅうじょが今日キムを執務室に招いたのは、つまり科恩と単陀李たんだりを謀れと申しつけるためであった。そのためには天女の託宣を偽ることも躊躇わない。それは『大洋伝』の主役らしい大胆さであった。


 キムが書き綴った『大洋伝』の主役・上紐恕じょうちゅうじょとは、若さに似合わぬ胆力と、同時に現実的な思考の持ち主である。それは歴史物語の主役に相応しい資質なのだが――


「……タンダリ様の言う、その佞臣とは」


 いかに上紐恕じょうちゅうじょが優れた島主だったとしても、全てが彼の思う通りになるわけではない。これから先、上紐恕じょうちゅうじょがどのような運命をたどるのか。彼が歩む運命とは、果たしてなのか。


「もしかして宰師のヘンショー様のことでしょうか?」

「なんだ、キムは変翔へんしょうを知っておるのか」


 上紐恕じょうちゅうじょはそんな言い方で、キムの問いを肯定する。彼の返事を受けて、キムはやはりと内心で呟いた。


 あの宴席での会話を耳にして、それまでキムの中で漠然としていた『大洋伝』のあらすじは、徐々に詳細な姿を浮かび上がらせている。上紐恕じょうちゅうじょのみならず科恩、単陀李たんだりもまた、『大洋伝』の主要な登場人物としてキムの記憶にある名前であった。そして『大洋伝』においてはやがて上紐恕じょうちゅうじょと対決することになる宰師――王を支える旻の実質的な支配者の名も、彼女の記憶と同じ変翔へんしょうであるという。


 ここまで一致すればもう間違いない。


 この世界はキムが『大洋伝』に書き記した通りに事態が推移している。つまり彼女はこの世界の知識をどこからか得て『大洋伝』を綴ったのではない。むしろ彼女が書き著した内容こそがこれから先の未来、この世界に起こるということにほかならない。


 だがそれではまるで、自分はこの世界の創造主のようではないか――そこまで考えて、キムは軽い目眩を覚えた。


 そんな大それた存在であるつもりは、彼女には毛頭ない。彼女はただ、それまで見たことのなかった海を夢想して、そんな海を舞台に活き活きと暮らす人々の生活を描いただけなのだ。頭の中に憧れの世界を思い浮かべたら、そこで繰り広げられるべき物語を多少なりとも劇的なものにしようと考えるのは仕方のないことではないか。まさか彼女の書いた物語の通りに人々の運命が定められるなんて、そんなことを考えるはずもない。


 キムが両手で顔を覆い、白い指先を微かに震わせる。その様子を上紐恕じょうちゅうじょはしばし怪訝な目つきで眺めていたが、やがて彼が口を開こうとしたそのときである。


「島主様、お忙しいところ失礼します」


 執務室の入口に現れたのは、上紐恕じょうちゅうじょの第一の部下である駕蒙がもうという壮年の男性であった。普段なら島主の許可を得ないまま、いきなり姿を見せる彼ではない。その彼が両袖を合わせながらも上紐恕じょうちゅうじょの前に顔を出したのは、よほどの事情であることが窺い知れる。


「何があった」


 上紐恕じょうちゅうじょは途端に為政者の顔に戻って、報告の先を促す。駕蒙がもうは袖を合わせた両腕の中に面を埋めながら、低い声で告げた。


「飛家の船が、稜からの帰途で海賊の襲撃を受けました」


 キムが声も出せないまま息を呑む。その向かいで上紐恕じょうちゅうじょは顔色ひとつ変えることなく、部下の報告の続きを待つ。


「船は先刻帰港しましたが、船そのものや積荷に甚大な被害が出ています。また乗員も十数名が死傷。船長の飛禄ひろく殿も重傷を負ったとのことです」


 その報せを耳にして、キムは目の前が真っ暗になるのを感じた。

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