第四話 凶報
宴から数日経っても、キムの表情は浮かないままであった。
血色こそ戻ったものの、眉間に皺を寄せて唇も引き結ばれたまま、一日中何やら思い詰めている。
あの宴は
だがキムにとってはそうではなかったらしい。
「ヒロク様やセンは、またリョウに向かわれているのよね。いつ頃戻られるのかしら」
唐突にキムから尋ねられて、
「どうだろう。直に見送ったわけじゃないからね。いつ頃出立したのかもわかんないし」
「リョウに行って帰ってくるまで、だいたいどれぐらいかかるもの?」
「そのときの用事次第で結構幅はあるけど。早ければ十日ぐらい、遅いときはその倍ぐらいかな」
答えを聞いても、キムは相変わらず表情を曇らせたままである。その原因が未だにわからないことが、
「キム、最近変だよ。何が気になるのかそろそろ教えてくれても――」
「ねえ、スイ」
不意にキムの両手が、
「お願いがあるの。ヒロク様たちが戻られているかどうか、確かめてきてくれない?」
どうしてそんなことが気になるのかと、
かくして
「わけわかんないなあ、もう」
島主の屋形から飛家の屋敷までは、高台を下って港町を通り抜ければ良い。往復するだけなら少女の足でも半日もあれば事足りる。その程度のお使いを億劫がるつもりはないが、そもそもキムの目的がよくわからない。
道中様々に考えてみるが、一向に答えは出てこなかった。答えの出ないことで頭を悩ませるのは、
父たちの帰還を確かめてこいというが、そのためだけに実家に顔を出してまた屋形まで引き返すのも芸がない。帰りに寄り道して、土産でも買って帰ろう。どうせならキムも気に入っていた、馴染みの店の小餅がいい。
そんなことを考えながら港町の雑踏を歩いていた
「
声の主は港町で反物を扱う、
「こんなとこって、久しぶりに屋形から実家に戻る途中なんだけど」
「ああ、そういえば
事情を把握した女主人が、改めて険しい顔つきで
「じゃあまだ知らないんだね。早く実家に顔を出した方がいい。港じゃ結構な騒ぎになってるよ」
「騒ぎって、なんかあったの?」
人混みの間を小走りに駆け抜ける途中も、女主人同様に心配そうな声を何度もかけられた。どうやら彼女が思う以上にただ事ではない。
頭の中に嫌な予想を浮かべては打ち消しつつ、息を切らしながらようやく実家の門をくぐる。
そこで彼女を出迎えたのは、泣き腫らした母の顔であった。
「お母様、いったい何があったんですか?」
青ざめながら事情を尋ねる娘に対して、母は袖の端で涙を拭うばかりだ。
「
そう口にしながら振り返って、
彼女の目に飛び込んできたのは、左腕を三角巾で吊し、頭巾から
***
「
そう言って
「あの通り落ち着かない男だが、細かいところには目端が利くらしくてな。それなりに重宝されていたようだ。儂が初めて
「そんなに偉い方なんですか。私、何か失礼を働いたりしてないでしょうか」
卓上の湯飲みに手を伸ばしたまま、キムは宴席の記憶をたどる。
あの晩のキムは
だからキムはあの晩の
「気にするな。奴が王の側近だったのは、ひと昔前の話だ」
湯飲みからひと口茶を啜ると、
「数年前に政争に敗れて都落ちしてからは、あの通り国の内外を問わず有力者に擦り寄って、なんとか返り咲きを狙っている。かくいう儂にも何度か秋波を寄越して辟易していたのだが、今回は乙の使者まで伴ってきたから断るわけにもいかなかった」
「そういうことでしたか」
ふたりは今、
何よりキムにとって、海とは長年の憧憬の対象であった。
「
だが
「島主様を神輿に、ですか」
「王家の血を引く儂を立てて、君側の奸を討つとでも宣うつもりなのだろう。奴がひとりで喚くだけなら無視していれば良いが、乙まで巻き込まれると軽々しく袖にするわけにもいかん。そこでキム、お前の出番だ」
「私の?」
心底驚いたという表情をまとって、キムは
「そう意外そうな顔をするな。お前はただ、科恩と
キムが書き綴った『大洋伝』の主役・
「……タンダリ様の言う、その佞臣とは」
いかに
「もしかして宰師のヘンショー様のことでしょうか?」
「なんだ、キムは
あの宴席での会話を耳にして、それまでキムの中で漠然としていた『大洋伝』のあらすじは、徐々に詳細な姿を浮かび上がらせている。
ここまで一致すればもう間違いない。
この世界はキムが『大洋伝』に書き記した通りに事態が推移している。つまり彼女はこの世界の知識をどこからか得て『大洋伝』を綴ったのではない。むしろ彼女が書き著した内容こそがこれから先の未来、この世界に起こるということにほかならない。
だがそれではまるで、自分はこの世界の創造主のようではないか――そこまで考えて、キムは軽い目眩を覚えた。
そんな大それた存在であるつもりは、彼女には毛頭ない。彼女はただ、それまで見たことのなかった海を夢想して、そんな海を舞台に活き活きと暮らす人々の生活を描いただけなのだ。頭の中に憧れの世界を思い浮かべたら、そこで繰り広げられるべき物語を多少なりとも劇的なものにしようと考えるのは仕方のないことではないか。まさか彼女の書いた物語の通りに人々の運命が定められるなんて、そんなことを考えるはずもない。
キムが両手で顔を覆い、白い指先を微かに震わせる。その様子を
「島主様、お忙しいところ失礼します」
執務室の入口に現れたのは、
「何があった」
「飛家の船が、稜からの帰途で海賊の襲撃を受けました」
キムが声も出せないまま息を呑む。その向かいで
「船は先刻帰港しましたが、船そのものや積荷に甚大な被害が出ています。また乗員も十数名が死傷。船長の
その報せを耳にして、キムは目の前が真っ暗になるのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます