第四話 天下安寧の志

 床に座したまま顔を上げた変翔へんしょうは、すいとキムを見ても眉ひとつ動かさない。鉄面皮のまま、ただ口を開いただけである。


「誰かと思えばりんの天女とそのお伴か。わざわざこんな穴底まで何をしに来た」


 剃刀とも称される鋭い眼差しに晒されて、キムが思わず身体を強張らせる。言葉が喉に張りついて出てこない様子のキムに代わって、すいが一歩前に進み出た――が、肝心なことを聞きそびれていたと気がついて、慌てて後ろを振り返る。


「キム、例の書物、なんて名前?」


 ひそひそと囁きかけるすいに、キムもつられて小声になる。


「『創世始記』よ。巻物じゃ無くて、綴じられた本」


 キムの答えに頷いたすいは、さらに一歩足を踏み出して、書物の山に囲まれた小柄な男を見下ろした。


変翔へんしょう様、恐れながらお尋ねします。こちらの書庫で――」

「『創世始記』などという書物、儂は目にしておらん」


 すいとキムのやり取りは、静寂に支配されたこの書庫では変翔へんしょうの耳にも十分聞こえていたらしい。回答を先回りされてしまい、すいが開きかけた口を空しく開閉させる。その様子を冷ややかに見返しながら、変翔へんしょうは手にしていた巻物を畳んだ。


「儂を捕らえに来たのかと思ったら、お前たちの目当てはその本か」


 そう言うと変翔へんしょうはおもむろに右腕を上げて、すいの背後の書架を指差した。


「回廊からお前の後ろまで書棚は全て目を通したが、『創世始記』とやらを見た記憶は無い。探すなら残りの書棚だろう」

「あ、ありがとうございます」


 思いのほか親切な変翔へんしょうの態度に戸惑いながらも、すいとキムは書架にとりついた。だが巻物が積み上げられた棚を除いても、そこにはいったい何百冊の本があるのだろう。この中から目当ての書物を見つけ出すのはひと苦労だ。


「そんなこと言ってられないか」


 すいは腕まくりしながら、早速棚から本をまとめて引っ張り出す。


「キム、あなたはあっちから探して。私はこっちの棚から見ていくから」

「わかった」


 乏しい明かりの中で、この大量の書物の中から一冊の本を探り当てるのにどれほどの時間がかかるだろう。せんもいつまでも琅藍ろうらんを抑えつけられてはいられまい。そう思うとすいの気ばかりが焦る。


 そんなことを考えながら作業していたせいか、すいの指先が書物の山を引っ掛けて、書架からまとめて数冊が床に落ちてしまう。


「何をしとるか!」


 すいに背後から叱責を浴びせたのは、それまで彼女たちの作業を邪魔立てしようともしなかった変翔へんしょうであった。


「ここに蓄えられているのは、いずれもいにしえの賢人たちが書き遺した貴重な文献ばかりぞ。そのように粗末に扱うなどもってのほか!」

「申し訳ありません!」


 思わず平謝りしながら、すいはふと考える。どうして書物の扱いについて変翔へんしょうに叱られなければならないのか。


 そもそもこの変翔へんしょうという男は、上紐恕じょうちゅうじょを目の敵にしていた、言ってみれば敵ではないか。だがすいたちを目の当たりにしたときの平静な態度といい、『創世始記』の在処について探すべき範囲まで指示したところといい、たった今のいにしえの文献に対する敬意の払い方といい。


 変翔へんしょうを敵と言い切るには、どうにも割り切れない思いがすいの胸中に込み上げつつある。


「娘、お前たちの探し物は、もしかしてこれか」


 再び変翔へんしょうから声をかけられる。だがその言葉は、すいにとっては全くありがたくないものであった。


 おそるおそる振り向いたすいの目に入ったのは、書物の山から立ち上がった変翔へんしょうの手の中にある一冊のくたびれた書物。紐で綴じられた表紙には蝋燭の明かりの中でも、掠れた文字ながら『創世始記』と書かれていることが読み取れる。


 よりによって『創世始記』を変翔へんしょうが手にしてしまうとは。


 すいは思わずよろめいて書架に背を預け、気がつけばキムの顔も青ざめている。そんなふたりの様子を全く気に懸ける様子も無く、変翔へんしょうはつまらなさそうな顔で表紙に視線を落としていたが、やがておもむろにすいに向かってその書物を差し出した。


 それがすいには、どういうことか意味かわからなかった。


 目の前にある書物と変翔へんしょうの顔の間で何度も視線を往復させて、まさかと思いつつも口にする。


「あの、もらっちゃっていいんですか?」


 すると変翔へんしょうは表情を崩さぬままに、さっさと受け取れとばかりにずいと書物を突きつけた。


「良いも何も、お前たちが探していたものだろう」


 そしてすいがおずおずと両手で『創世始記』を手に取ると、変翔へんしょうは再び書物の輪の中心に腰を下ろす。


 彼の手からこの書物を手渡されるとは思ってもいなかった。そう思ってすいがキムと共に当惑顔を見合わせているところに、変翔へんしょうがぼそりと呟く。


「大方、神獣の真名が記された書物といったところか」

変翔へんしょう様は、ご存知だったんですか?」


 すいはますます驚くしかない。『創世始記』を胸に抱えたまま、思わず身を乗り出す彼女の顔を、変翔へんしょうは相変わらずの無表情で見返す。


「お前たちは、儂が神獣の真名を求めて書庫にこもっているとでも思っていたのか」

「えっ、だって」

「神獣の真名など知ったところで、そんなものがなんの役に立つ」


 そう口にする変翔へんしょうの表情に変化はないものの、口調の端々には微かな苛立ちが滲んでいた。


「真名を探し当てれば上紐恕じょうちゅうじょとの交渉の材料にもなる――琅藍ろうらんはそんなことを言っていたが、儂は端から当てにしておらん。ただ上紐恕じょうちゅうじょから逃げ通せる可能性に賭けて、書庫にこもっていただけよ」

「でも、書庫の本を端から読み通したって……」

「ただこもるだけでは芸も無かろう。ここには過去の賢人たちの知識が山とある。天下の安寧に尽くすため、儂にもまだまだ学ぶことは多い」


 りょうから逃げだし、耀ようの祭殿に逃げ込んで書庫にこもっていたにしては、変翔へんしょうの言葉に失脚したばかりという悲愴さは感じられなかった。それどころか彼はまだ、天下の政事に関わることを諦めていないのだ。


「ヘンショー様はこの期に及んでもまだあなたに出来ることがあると、そうお考えなのですか」

「儂はいつどのような状況下でも、常に天下の安寧に務めることを考えておる」


 半ば呆れるようなキムの問いに、変翔へんしょうは激するわけでもなく、ただ淡々と答える。彼にとってそれはごく当然であり、ことさら強調するようなことでもないのだろう。


「今回、儂は上紐恕じょうちゅうじょの力量を見誤り、びんの宰師の座を追われることとなった。それは大いに反省すべきである。だがこうして儂が耀ようにある今、状況は既に異なる。天下のために出来ることはまだまだ残されている」


 彼の言う通り、状況が激変したのは違いない。だがその上で彼に出来ることとはいったいなんなのか。


「まだ島主様を除くことを諦めてないんですか」


 すいが警戒に満ちた言葉を口にする。そんな彼女の疑問を、変翔へんしょうはこともなげに否定した。


「今さら儂が上紐恕じょうちゅうじょを除くことなど出来ないし、またその必要もない」

「ええ? だって」

「聞いてなかったのか。状況が変わったと言っただろう。むしろ今の儂には奴が必要だし、儂の目論見が正しければ奴も儂を必要としている」


 すいには変翔へんしょうの意図がさっぱり掴めない。


「何言ってるんだか、全然わかんないですよ」


 だが彼女の隣でキムは袖を口元に当てて、何やら考え込むような素振りを見せている。やがて袖を下ろした彼女が口にしたのは、驚くべき提案であった。


「ヘンショー様。であればいっそ、島主様と腹を割って話し合うのはいかがでしょう」


 聞き間違えたかと思って、すいはキムの顔を振り返った。しかしその表情は至って真剣で、そんな彼女を変翔へんしょうもまた鋭い目つきのまま真っ直ぐに見返している。


上紐恕じょうちゅうじょ耀ように来ているのか」


 変翔へんしょうに尋ねられて、キムが無言で頷く。すると変翔へんしょうはしばし瞼を伏せて、口をつぐんだ。決して表情の揺るがない男が初めて見せる思案顔に、すいも『創世始記』を胸に抱えたまま、思わず固唾を呑んで見守るしかない。


 そしてゆっくりと目を開けた変翔へんしょうは、剃刀のような目つきはそのままに「良かろう」と答えた。


「どのみち儂もこれ以上は逃げも隠れもせぬ。ならばあの男が儂の言を聞く耳があることに望みを賭けるも良し」

「島主様の器量はヘンショー様もご存知のはずです。ご安心下さい。私とスイが責任を持って、島主様との面会がかなうよう働きかけます」


 胸を張ってそう宣言するキムの瑠璃色の瞳を、変翔へんしょうは鋭い視線を放ちながら見据えている。胸の内の『創世始記』を握る手に力を込めながら、ふたりのやり取りを無言で注目していたすいは、ふと変翔へんしょうの口角が微かに上がる様を目にしたような気がした。


「天女がそこまで言うのであれば、是非も無し。では島主の元まで案内を願おう」


 なし崩しに責任の一端を担がされて、すいにしてみれば堪ったものではない。だが『創世始記』を確保出来ただけでなく、変翔へんしょうもおとなしく上紐恕じょうちゅうじょの元に身柄を委ねるというのであれば、文句をつけようもない。


「何はともあれ、めでたしめでたし、かな?」


 肩から力が抜けてすいが漏らした安堵の言葉に、キムが微笑みかけた、そのときである。


 三人が佇む広間の入口にあたる、その奥に伸びる回廊へと続く辺りに、ゆらりと現れた人影があった。


「そうはさせんぞ」


 振り返ったすいの目の前には、琅藍ろうらんの長身が立ちはだかっていた。

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