第七話 真夜中の大脱走

 天女を目にしたびん王が興奮のあまり昏倒してしまったことで、上紐恕じょうちゅうじょの喚問はうやむやなまま中断となってしまった。


「陛下はあまり感情を表に出されぬお方なのだが、稀に興奮すると抑えつけられていたものが一度に噴き出すためか、今回のように卒倒されることがあるそうだ」


 上紐恕じょうちゅうじょたちの一行は、未だ喚問の結論が出ていないという理由で、その晩は宮中に足止めを食らうこととなった。


「その陛下の卒倒癖を利用して煙に巻くなんて、不敬もいいところですよ」


 すいの文句も、上紐恕じょうちゅうじょにはどこ吹く風だ。


「そんな恐れ多いこと、儂が考えるわけがない。だが天女がそう決めたのであればやむをえん。これは天命というものよ」

「勘弁して下さい。これでも良心の呵責を感じてるんです」


 恐縮するキムはまたも頭巾を頭から被って、目元だけを空けている。隙間から覗く彼女の瑠璃色の瞳に向かって、すいが少々皮肉っぽく応じた。


「こんな風に夜中にこそこそ抜け出して、良心の呵責もあったもんじゃないけどね」


 その言葉にキムが一層肩を縮こまらせる。


 すいの言う通り、上紐恕じょうちゅうじょたち一行は割り当てられた寝所を抜け出して、夜の宮殿を歩き回っているところであった。


「もしや交渉の余地があるかもしれんと召喚に応じてみたが、宰師殿と顔を合わせて痛感した。あれは端から儂を排除することしか考えておらん」

「だからって、こんな風に人目を避けて逃げ出さないといけないんですか?」

「天女の思し召しに従って、だけではないぞ。暢気に明日を迎えたら、宰師殿は難癖をつけて儂を縄につけるだろうよ。それに儂も単陀李たんだりの件をさらに追及されたら、これ以上躱し続ける自信がない」


 キムによれば、召喚の夜には上紐恕じょうちゅうじょと天女たちは宮殿を抜け出すという記述が、『大洋伝』にはあるのだという。その通りに行動することについて、上紐恕じょうちゅうじょには一切躊躇がなかった。


 先頭と殿しんがり上紐恕じょうちゅうじょの部下に挟まれながら、五人は闇夜の宮殿を音を立てぬよう、だが急ぎ足で進んでいく。事前に上紐恕じょうちゅうじょから指示を受けていた部下たちがある程度逃げ道を算段していたこともあり、今のところは順調である。だがここはあの変翔へんしょうが取り仕切る宮殿だ。油断は出来ない。


 何より途中、難関がふたつある。ひとつは建屋から外塀に至る敷地だ。結構な距離がある上に踏み締めればじゃりじゃりとうるさい玉石が敷き詰められて、途中にはいくつもの篝火が煌々と焚かれている。全速力で駆け抜けようとも、外塀にたどり着く前に衛兵に見つかるのは間違いない。


 今ひとつは、その外塀をぐるりと取り囲む濠の存在である。幅も深さもある濠をこっそりと渡るのは至難の業だ。


 だが『大洋伝』の記述を思い出したキムによると、その難関を乗り越える手段があるのだという。


「この宮殿は古くから増改築を重ねて、その間に築かれた誰も知らない抜け道がいくつもあるの。濠の下をくぐって街区の外れまで抜け出せる、秘密の地下道が」

「それって、場所はわかってるの?」

「図面まではわからないけど、どういう場所にあるかってのは覚えてる。ただ問題がひとつあって……」


 その手の抜け道の用途は主に王族のお忍び用に用いられてきたため、そのほとんどがこの宮殿の中心、王宮にあるのだという。だから一行は宮殿からの脱出が目的だというのに、宮殿の最奥にある王宮に忍び込もうとしていた。


「確かここから、誰にも見つからずに王宮に入れるはず」


 キムが指し示した通り、王宮の外れの外壁には柱の陰に隠れる形で、人ひとり分が辛うじて身体を通すことの出来る隙間があった。大柄な上紐恕じょうちゅうじょは難儀したものの、なんとか五人揃って王宮の中に忍び込む。


「さて、抜け道の入口はどっちだったかしら。確か、王陛下の寝所の近くだったと思うんだけど……」


 しんと静まりかえった王宮内の廊下で、キムがそう呟いたそのときである。


 廊下の奥、曲がった角の陰から明かりが近づいて来た。


「いかん、見回りか」


 といって周囲に身を隠せるところといったら、両脇の柱の陰にひとりずつがせいぜいである。逃げ出してもキムやすいの足では、すぐさまつかまってしまうだろう。


 すると上紐恕じょうちゅうじょは部下のふたりに目配せするや、背後にキムとすいを従える形で、自らは明かりに向かって正面を向いた。


「何者だ」


 上紐恕じょうちゅうじょの前に現れたのは、腰に刀を佩いた屈強そうな男であった。手にした蝋燭の明かりを翳した彼は、ふたりの女を連れる貴人風の青年を見て、露骨に不審げな顔を浮かべる。


 明かりに照らされた上紐恕じょうちゅうじょは怯むこともなく、むしろ堂々とすらした態度で男の問いに答えた。


「儂はりんの島主・上紐恕じょうちゅうじょ。今宵はお倒れになった陛下を慰めるべく、お忍びで天女を連れに参ったところだ」


 相変わらず土壇場でよくそんな嘘八百を口に出来るものだと、すいは思わず島主の横顔をまじまじと見つめてしまう。


「天女だと?」

「陛下の寝所にたどり着く前に道に迷ってしまってな。済まぬが案内してもらえぬか」


 すると見回りの男は一瞬背後にちらりと目を向けてから、すぐに上紐恕じょうちゅうじょに向き直った。


「お忍びなど聞いておらんぞ。怪しいやつ……」


 男は二、三歩と前に踏み出して、三人に向かって刀を抜こうと柄に手を伸ばす。だがその瞬間、柱の陰に隠れていた部下ふたりが音もなく飛び出した。


 ひとりは背後から男の首に腕を回し、もうひとりは素早く刀を持つ手を捻り返す。いかに屈強な男といえども、ふたりがかりに不意打ちを食らっては反撃のしようもない。やがて気絶した男が床に伏すと、上紐恕じょうちゅうじょは彼の手から落ちた刀を広い、灯を靴底で踏みつけて明かりを消した。


「こんなに上手くいくのはこれ一度きりだ。さっさと抜け道を探し出すぞ。陛下の寝所はこの先だ」


 上紐恕じょうちゅうじょに促されて、五人は息を殺しながら宮中の廊下を忍び足で進む。二度三度と枝分かれする宮中を歩いている内に、やがてキムは抜け道の入口を鮮明に思い返していた。


「あの角を曲がって、突き当たりに飾られている大きな掛け軸の裏に、確か入口があったはずです」

「抜け道はどこに出るの?」

「昨日スイが寄り道しようとしてた茶屋の、すぐ裏手の井戸よ」


 なるほどあそこなら追っ手をくらますことも出来そうだ、とすいが頷きかけたそのときである。


「曲者はこっちだ!」


 声のする方を振り返ると、長い廊下の曲がり角の向こうから、徐々に明かりが迫ってくる様子が窺えた。どうやら先ほどの屈強な男は、いつまでも気絶してはくれなかったらしい。しかも複数の声が聞こえるということは、新たに仲間を引き連れて追いかけてきたのだ。


 こうなっては忍び足も意味がない。五人は揃って駆け出した。


「急げ」


 もはや連中に抜け道の存在を気づかれる前に、行方をくらますしかなかった。急ぎ角を曲がったその先の廊下は、それほど長くない。


 だから突き当たりに飾られた大きな掛け軸の前に、誰かが立っていることにもすぐ気がついた。顔は陰になってよくわからないが、長身の、おそらくは男性と覚しき人影だ。


 万事休す、と誰もが思った。部下のひとりは先ほど男から奪った刀を構えて、上紐恕じょうちゅうじょですら観念した表情を浮かべる。


 だがその人影はすいたちの姿を認めると、おもむろに背後の掛け軸の端をぐいと持ち上げてみせた。そこにはキムの記憶を裏付けるようにぽっかりとした穴が現れ、かと思うと人影は早く来いとでも言わんばかりに、無言で手招きしている。


 どういうことかと迷っている暇はない。刀を持った部下を先頭に上紐恕じょうちゅうじょ、キム、そしてもうひとりの部下も、抜け道に続くに違いない穴へと次々と飛び込んでいく。


 そして最後にすいが続こうとしたところで、人影がぐいと彼女の肩をつかむ。


 何事と振り返ったその先ですいの顔を覗き込むのは、まるでキムを真似たかのように顔全体をくるむ頭巾姿と、その合間から覗く鋭い双眸であった。


「誰だ、貴様」


 頭巾の男はすいの肩をつかんだまま、低い声で尋ねる。その瞳は意外にも理性的で、声にも恐ろしげな剣幕はない。ただ彼は、純粋にすいの存在を訝しんでいるかのようであった。


「天女の一行は四人ではなかったか」


 男の問いに一瞬気圧されする。だが彼の態度に敵意がないと悟ると、すいは語尾を震わせながらもなんとか答えてみせた。


「天女様の世話役を務めます、すいでございます」

「世話役の、すい? はて、そんな役柄があったか?」


 すいの名乗りを受けて、男は不審そうに首を傾げる。彼の言葉の意味がすいには理解出来なかったが、廊下の角の向こうからは徐々に足音が近づいてくる。ぐずぐずしている暇はない。


「あの、放しては頂けませんか」

「ああ、これは済まん。引き留めるつもりではなかった」


 男は申し訳なさそうにつかんでいた手を放し、ようやくすいも穴の向こうに降り立つことが出来た。そのまま先を行く四人を追いかけようと前を向いたすいの、背後から男の声が投げかけられる。


「物語の行く末を楽しみにしている――琅藍ろうらんがそう申していたと、天女に伝えてくれ」


 その名を聞いて、すいが驚愕と共に振り返る。


 そのときにはもう掛け軸は手放されて、今まさに穴が塞がる瞬間だったが、その一瞬だけ男が口元の頭巾を下ろした顔をすいの瞳ははっきりと捉えていた。


 彼女の見間違いでなければ、その男の顔は日に焼けるよりも色の濃い――まるで闇夜に紛れてしまいそうな一面漆黒の相貌であった。

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