第二話 埒外の人

「つまりお前の記した『大洋伝』とやらは、この儂と宰師の対峙を予言していると、そう申すのだな」


 切れ長の目をことさら細めながら頷く上紐恕じょうちゅうじょが、果たしてどこまでその言葉を信じているものか、すいには見当もつかない。


 島主の執務室で、先日キムが上紐恕じょうちゅうじょと茶を共にした円卓を、今度はすいも加わった三人で囲んでいる。ただ今日は空一面に薄曇りが広がって、屋形から見下ろすことの出来る港や海にも影が多い。この調子でいくと夜半には雨が降り出しそうな空模様だ。


 すいはようやく立ち直ったキムと共に、上紐恕じょうちゅうじょに報告に上がったところであった。彼女がほぼ全容を思い出した『大洋伝』のあらすじを――ただしキムが神獣の真名を知るということは重大事過ぎて、そこだけは伏せながら――告げるためである。


「さすが神獣に仕える天女ともあれば、我々下々の未来を見通すのも容易いこと、というわけか」

「いえ、そんな驕った物言いをするつもりは……」


 いささか皮肉めいた言い回しをされて、キムが慌てて面を伏せる。実は上紐恕じょうちゅうじょが少々気分を損なっているのかもしれないということに、すいはようやく気がついた。


「キムはこの世の隅々までわかっているわけじゃない、そう仰ったのは島主様じゃないですか」

「そんなことも言ったかな。とはいえ己まで天女のたなごころの上と告げられれば、儂とて臍を曲げたくなる。嫌みのひとつぐらいは許せ」


 すいに向かってからかい半分に言い返した上紐恕じょうちゅうじょは、次の瞬間には表情を切り替えてキムに真っ直ぐな目を向けた。


「だが予言の内容まで聞かないことには、儂もまだ納得は出来ん。そこまで言い切るなら、きっと十分な証拠もあるのだろう」

「ございます」


 今度はキムも、上紐恕じょうちゅうじょの視線を正面から受け止める。


「島主様はイツからの海賊討伐の要請を受けるつもりでいらっしゃいますね」

「それは当然だろう。科恩かおんたちが来たときと今では既に事情が異なる。りんの民が被害に遭っても島主たる儂が動かぬとなれば、それこそ島民も納得出来まい」


 上紐恕じょうちゅうじょは言外に、その程度では証拠には不足であると匂わせている。だがキムはさらに一言をつけ加えた。


「既にゲンのシューカイ様に遣いを出されてますね。イツとの海賊討伐に、共に加わるよう要請するために」


 そこでようやく上紐恕じょうちゅうじょの切れ長の目が軽く見開かれる。


 それはおそらくここりんでも上紐恕じょうちゅうじょを含めたごく一部の者しか知らない、極秘事項であるはずであった。


醜楷しゅうかい殿の名前まで出されれば、さすがに信じないわけにはいかんか」


 仮にげんに遣いを出すところまでは当て推量出来たとしても、遣いを出す具体的な相手の名前まではわかるものではない。


「シューカイ様に援助を仰ぐのは、海賊討伐軍の主導権をタンダリ様やカオン様に握らせないため、あくまで島主様主導とするためです」

「その通りだ」


 もはやキムの言うことを信じるほかないと観念したのだろう。上紐恕じょうちゅうじょは鼻腔から大きくため息を吐き出しながら、彼女の言葉を肯定した。


「そこまでわかっているなら、討伐軍の目的が海賊相手だけはないということもお見通しか」

「はい」

「えっ、海賊以外に誰か相手がいるんですか?」


 ふたりの会話に驚いたすいが、思わず声を上げる。まだ彼女も『大洋伝』の全容を聞き出してはいないのだ。驚愕するすいをよそに、キムはやや声を低めて言った。


「島主様の真の目的は、ヘンショー様を宰師の座から追い落とすことですね」


 キムの穏やかならぬ発言に、すいはいよいよあんぐりと口を開ける。


「宰師って、王様のお側に仕える、あの宰師様?」

すい、儂だって別に好き好んで変翔へんしょうと事を構えたいわけではない」


 すいをたしなめる上紐恕じょうちゅうじょの口調は、気のせいか若干苛立たしげに聞こえた。


変翔へんしょうが宰師であることは一向に構わん。むしろ単陀李たんだりのような小物に比べればはるかにましだ。奴が宰師を務める方が、よほどびんのためだろう」

「じゃあどうして」

単陀李たんだりを追いやった変翔へんしょうは、次の敵を儂と見做している」


 そう言うと上紐恕じょうちゅうじょは椅子から立ち上がり、ふたりに背を向けて庭先の景色を見やった。空を覆う雲はますます暗さを増して、いつ雨粒が零れ落ちてもおかしくないという様相を見せている。


 今にも迫り来るような分厚い雲をしばらく見上げていた上紐恕じょうちゅうじょは、すいたちを振り返ることなくおもむろに告げた。


飛禄ひろくを襲った賊、あれはおそらく変翔へんしょうの仕業だ」


 その言葉に血相を変えたすいが、椅子を蹴り倒す勢いで腰を浮かす。一方でキムは口をつぐんだまま、何も言おうとはしない。


 この世が『大洋伝』の通りに展開しているのであれば、彼女にとっては自明の理なのだろう。


 上紐恕じょうちゅうじょはふたりに向けて肩越しにちらりと視線を寄越したが、またすぐに外の景色へと目を向けた。


「確証はない。だがここのところ、都からはこのりんに対する圧力がとみに強い。りょうへの貢納品など、既に昨年の倍に達しておる」

「だから、お父様も最近はりょうに行ってばかりだったんですか……」

「そして賊の危険が増したというなら、儂も討伐のために兵を動かさざるを得ん。兵を動かすにはまた人も金も要る。あの手この手でりんの力を削ぐ、実に効果的な嫌がらせだ」


 そこまで告げると上紐恕じょうちゅうじょは曇天を仰ぎ見ながら、おもむろに広い肩を怒らせ始めた。つられて持ち上げられた両腕に力を込めて何をするのかと思えば、やがてばちんという大きな音が響き渡る。


 すいが首を伸ばして覗き込むと、上紐恕じょうちゅうじょの右の拳が左の手のひらへと力一杯に叩きつけられていた。


「思えば単陀李たんだりが儂に色目を使い始めたのも、ここ最近の話だ。変翔へんしょうといい単陀李たんだりといい、誰かに儂の妙な噂でも吹き込まれているとしか思えん」


 平然とした顔の裏で、よほど腹に据えかねていたのか。この場にいるのが気を遣う必要のないキムにすいだからという理由もあるのだろう。振り返った上紐恕じょうちゅうじょは口角を限界まで吊り上げて、およそ島主にあるまじき人相を顕わにしていた。


「これ以上舐められっぱなしでいるのは、儂も性分ではない。そのうえ天女の予言という後押しもあるなら、思う存分にやらせてもらおうではないか」


 キムはその迫力に気圧されつつも、上紐恕じょうちゅうじょに頭を冷やすよう呼び掛ける。


「島主様、どうかお鎮まり下さい。確かに私の『大洋伝』はこの世界の行く末を書き著しているのでしょう。でも予言としては、とても完璧だとは思えないのです」


 予言者本人であるキム自身が、未だ予言の内容を信じられないという。


「だが儂の思惑をあそこまで正確に言い当てたのだ。今さら出鱈目と言われてもその方がよほど信じられん。何か理由があるのか」


 上紐恕じょうちゅうじょのもっともな問いに対して、キムは顔を横に向けながら答えた。


「理由は、スイです」

「私?」


 この流れでまさか話題を振られると思わずに、すいは己を指差しながらキムの顔を見返した。それに対してキムは大真面目な顔で頷いてみせる。


「『大洋伝』は島主様と天女を中心に描いた物語なの。それなのに天女の側で世話をするという女性は、ただの一度も登場しない」

「ええ、それはあんまりな扱いだなあ」


 これでもキムと一番親しいつもりだったすいにとって、『大洋伝』に存在すら描かれていないと知っては嘆きたくなるのも当然である。


「だからおかしいのよ」


 だがキムにとってはそれ以上に重要な、違和感を成す要因がすいであった。


「島主様にカオン様、タンダリ様、ヘンショー様。ガモウ様の名もあった。それにヒロク様やセンだって、名前こそないけど海賊に襲われた人々として登場した。私がこれまでこの世界で見知った名前は全て『大洋伝』にあるのに、それがスイだけ出てこないなんて有り得ないでしょう?」

「なるほど、言われてみれば不思議な話だな」


 いつの間にか興奮も冷めて平静を取り戻した上紐恕じょうちゅうじょは、キムの言葉に頷きながらすいの顔を見る。それがなんだか珍しい生き物でも見るような視線に思えて、すいは思わず頬を膨らませた。


「そんなこと言われても、私にどうしろって言うんですか」

「スイ、あなた言ったじゃない。もしかしたらあなたも、私に創り上げられた存在かもしれないって。でも本当はその逆で、あなたは正真正銘この世界の住人なのかもしれない」

「それじゃまるで、私だけ仲間はずれみたいじゃない」


 ふて腐れ気味のすいを、キムがその両肩をつかんで引き寄せる。すいの顔を覗き込む瑠璃色の瞳には、いつの間にか希望を見出したときの喜色に溢れていた。


「つまりこの世界には、私の知らないことがまだあるってこと。『大洋伝』に書かれていることが、この世界の全てじゃないってことよ!」

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