第二話 瑠璃色の瞳

「これ、本当に人なの?」


 せんたちが小舟を繰り出して救い上げた女を目の当たりにした、すいの第一声がそれであった。


 それはおそらく、彼女の周りに居並ぶ船員たちの内心を代弁したものであったろう。


 目を閉じたまま甲板に横たえられたその人物は、おそらくは妙齢の婦人なのだろうと推測出来る。「おそらく」と言うしかないのは、彼女の見た目がすいたちと大きく異なっているからであった。


 海運業者の娘であるすいが生まれ育ったりんには、この世界の船が多く出入りする大きな港がある。幼い頃から港町を歩き回ってきたすいは、世界中には様々な人々がいることを知っているつもりだ。


 だが目の前の女性は、これまで目にしたどんな人種にも当てはまらない。


 目がひとつしかないとか、足が三本あるとか言うわけではない。両の瞼をつむっているから断言は出来ないが、顔立ちはむしろ整っている方だろう。背丈はせんとほぼ同じ程度、女性としては長身の類いだ。身にまとっているうわぎズボンは、すいせんが着るそれと異なって袖から裾から全体的に細い。お陰で彼女の腰回りが驚くほど細いことや、そのくせ丸みを帯びた体型であることが服の上からもわかる。


 だがすいが驚いたのはそんなことではない。


 背中までありそうな長い髪、その一本一本がどれもこれも見事な黄金色なのだ。海水から引き上げられたばかりのせいだろう、水分に浸された髪は陽の光を照り返して、その輝きは目に眩いばかり。こんな色をした髪があるとは想像したこともない。


 彼女のような容姿の持ち主を、すいは今まで見たことがなかった。


「さて、こいつは伝えに聞く『天女』様って奴か。それともびょうの住人が追い出されてきたか」


 すいの横で豊かな顎髭を撫でながらそう呟いたのは、彼女の父・飛禄ひろくであった。彼はこの船の船長であると同時に、りんでも一、二を争う海運業者でもある。


 金髪の女性の傍らで膝をつき、彼女の様子を診ていたせんが、やがて顔を上げた。


「とりあえず息はあるようですが、どうします?」


 すると飛禄ひろくは太い腕を組んで、ふんと鼻息を荒くした。


「生きているなら十分だ。といってもこんな別嬪を、うちの野郎どもに世話させるわけにもいかん」

「ということは」

「お誂え向きに、この船には女がいるじゃねえか」


 そう言うと飛禄ひろくはぎょろりとした目を、隣りに立つ娘に向けた。


「無駄飯食ってばかりのお前にはちょうどいいだろう。すい、お前が面倒を見ろ」


 飛禄ひろくにしてみれば、無茶をした娘に対する懲罰的な意味合いもあったかもしれない。だが父の指示に対してすいは喜色満面に頷いてみせた。彼女にしてみればこんなに不思議な存在に近づけるのは、願ってもいない幸運であった。


 金髪の女性が運び込まれたのは、船尾にある居住区画の一室である。密航が早々にばれたすいにあてがわれた、物置代わりの部屋だ。


「それにしても何者なのかしらねえ、この女性ひと


 床に敷いた布の上に寝かされたまま、未だ目を覚まさない女性の顔を、すいは改めてまじまじと眺め回す。


 金色の髪にも驚かされたが、改めて見るとその肌の白さが際立っている。そして彫りの深い顔立ち。額が前に迫り出して、そのために鼻の付け根も高い。己の顔と見比べても、随分と凹凸が激しい。


「見れば見るほど、見たことない顔立ちだなあ」


 そう呟きながら女性の顔や髪を乾いた布で拭く。そして濡れた服を着替えさせようとして、すいははたと頭を悩ませた。


 見たところ女性のうわぎには、身体の前面で重ね合わせるようになっているはずのえりがない。どこまでいっても途切れることのない一枚の布が、女性の上半身をぴったりと包んでいるのだ。そもそも布の質からして、すいには触れたことのない伸縮性がある。


 これはいったいどうやって脱ぎ着するのだろう?


 疑問に思ったすいは我知らず、女性の身体をあちこち撫で回していた。その手つきがあまりに無遠慮だったせいだろうか。


 女性の口から呻くような声が漏れ聞こえた。


 はっと顔を見返すと、女性は眉――それさえも金色だ――の間にわずかな皺を寄せて、苦悶するような表情を浮かべている。頭をゆっくりと左右に振り、薄い唇を何度かぱくぱくと開いて、ついに女性の瞼がうっすらと持ち上がった。


 そしてすいは再び驚きのあまり、息を呑む。


 二重の瞼の下から覗く、女性の瞳の色は、青い。それもどこまでいっても奥底の見えない、広大な海原を思わせるような深い瑠璃色であった。


 焦点の合わない女性の瞳はしばらく室内をぼんやりと彷徨っていたが、やがて彼女を覗き込むすいの顔を認めたのか、ぱっちりと目が開いた。


「あっ、気がついた?」

「……誰? ここは、どこ?」


 女性の唇からおずおずと吐き出された言葉にも、両の碧眼にも不安の色がよぎる。すいは彼女を怖がらせないよう、極力穏やかに話しかけた。


「私はすい。ここは私の父の船の中よ」

「……船?」


 まだ状況を把握出来ないのだろう。彼女は混乱した表情を浮かべたまま、おもむろに上体を起こした。痛がったりする様子がないところを見ると、どうやら身体は無事らしい。


「あなた、空から降ってきたのよ。で、派手に海に落っこちたところを、私の船が助けたってわけ」

「空から……」


 すいの言葉を反芻しながら、女性は白い両手を自身の頬に当てた。


「そうよ、私、なんで……生きてる?」

「生きてるわ。その調子だと、どこも大した怪我もないみたいね」


 そしてすいは彼女の緊張を和らげるよう、にこりと笑いかけた。


「あんな派手に落っこちておいて、不思議だとは思うけど。それを言うなら、何もない空から落っこちて来たところからして信じられないし」


 冗談めかしたすいの物言いに、女性は口の端にようやく笑みを浮かべる。その微笑を見て、すいは安心したように息を吐き出した。


「少しは緊張が解けたみたいね」

「ありがとう。ええと、スイっていったかしら?」


 彼女がすいの名前を口にしたときの発音は聞き慣れないものだったが、すいは気にせずに頷いた。


「そう。りんの海運業者、飛家のすい。あなたの名前も教えてくれる?」

「名前? ああ、そうね、名前。私の……私の名前は、キンバリー。そう、確か、キンバリー・ホープ」

「……きんば、何?」


 彼女の名乗りがはっきりと聞き取れなくて、すいは思わず聞き返してしまった。その名前はすいが知るどんな名前にも似通うところがなく、それどころか発音もよくわからない。


 すると少女の戸惑いを察したらしい彼女は、今度は口元だけではない、大きな瑠璃色の目を心持ち細めながら、改めて己の名前を口にした。


「キムでいいわ、スイ。助けてくれてありがとう」


 それがすいとキムの、初めての出会いであった。

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