第三話 渺(びょう)

 すいたちが乗る船が進んでいたのは内海と呼ばれる、北と南の大陸の間に横たう広々とした海域である。


 内海には人が住まう島が大小含めて百以上点在しており、その中には独立した国もあればいずれかの国に属している島もあり、その在り様は様々だ。すいの生まれ育ったりんは後者に当たる。


 りんは南の大陸でも最大の国・びんに属する、内海でも有数の海運都市だ。南の大陸の北岸、やや東寄りに位置するりんの島には、内海を走る船舶が毎日のように何隻何十隻も出入りする。


 そんなりんにおいてすいの父・飛禄ひろくは、大型船を何隻も所有する有数の海運業者として、押しも押されぬ存在だ。埠頭から歩いて半刻もかからないところにある、いくつもの倉庫を敷地内に収めた巨大な屋敷が、彼の住まいである。


「天女様、天女様。どちらへお出かけになられるというのですか!」


 朱塗りの柱が支える庇に覆われた回廊が、屋敷の広々とした中庭を囲うように張り巡らされている。その見事な景観に見とれながら歩いていたところで、キムは慌てふためく声に呼び止められた。


「いえ、その、スイに呼ばれていたので、彼女の部屋へ」


 キムが苦笑気味に答えると、相手の女性はあからさまに眉を八の字にした。


「まあ、あの子ったら! 自分から出向くならまだしも、天女様を呼びつけるような真似を」

「そんな大袈裟ですよ。それよりも奥方様、そろそろ天女呼びは勘弁してもらえないですか。私のことはキムと呼んで頂ければ」


 キムを呼び止めたのはすいの母であった。ふくよかな体型に上品そうな顔立ちが、いかにも良家の出を思わせる。


「そんな滅相もない。天女様のお名前を口にするなんて恐れ多い!」


 すいの母は良家育ちらしく信心深い女性のようで、すいが連れ帰ったキムを見た途端に面を伏せて平伏する始末であった。


いにしえから天女様は神獣の遣いと伝わっています。そのようにやんごとなきお方をお迎えすることが出来たのは、飛家にとってもこの上ない誉れ。天女様のご滞在中は粗相の無いようお持て成しするのが、この屋敷を預かる私の務めでございます」


 キムをひと目見て舞い上がったすいの母は、娘の無茶を叱ることもすっかり忘れて、天女の歓待に精を出していた。キムにしてみれば、色々と世話を焼いてくれるのはもちろん有り難い。だが屋敷の主人たる彼女がその調子だから、彼女の子供たちから下男下女までキムに対しては同様にへりくだるばかり。いささか持ち上げられ過ぎて、少々居心地の悪さも感じている。


「キム、こんなとこにいたの」


 背後からの声に、キムはほっとしながら振り返った。そこには屋敷にあって唯一彼女に対等な態度を取る、すいの姿があった。


「ああ、ごめんなさい、スイ。今から行くところだったの」

「あんまり遅いから迷子にでもなったかと思ったよ」

「これ、すい!」


 あけすけな口調でキムと会話する娘に、すいの母がまなじりを上げる。


「全くあなたは、天女様になんという口のきき方を!」


 だがすいは母の小言に一向に堪える素振りも見せない。


「お母様、今は天女様と約束がございますので御免遊ばせ。お叱りは後で受けますので」


 そう言ってキムの手を引きながら、一目散で母の前から遠ざかる。代わりに小さく頭を下げたキムに、またすいの母が恐縮した。


「お母様にもいい加減にしてほしいよね。あれじゃキムが息苦しくて窒息しちゃう」


 キムを自室に引っ張り込んだすいは襖をぱしんと閉めると、そう言って大袈裟に肩をすくめた。


「そんなことないわ。そもそも正体不明の私なんかに、こんなに良くしてもらっちゃって」

「それにしたってキムも丸一日屋敷に閉じ込められたままじゃ、いい加減退屈でしょう」


 閉じ込める、というのはすいの母にしてみたらとんでもない誤解だろう。彼女は何もキムを牢獄に押し込めているつもりなど毛頭無い。むしろ大事に扱い過ぎている。


「ただ天女って言われても、私には全然自覚がなくて。どうして空から落っこちたとか、その前の記憶もあやふやなまま。それどころかこの……世界のこともよくわかってないし。それがなんだか申し訳ない」


 薦められるまま椅子に腰を下ろしながら、キムが小さくため息をつく。だがすいが興味を示したのは、彼女の悩みとは別の部分であった。


「キムがいた世界って、いったいどんなの? まだ思い出せない?」

「うーん、なんだかどれも薄ぼんやりとしててはっきりしないのよね。ここに来る直前に、空飛ぶ船みたいなものに乗ってたらしいことは覚えてるんだけど」

「空飛ぶ船!」


 その言葉を反芻するすいの表情といったら、彼女の好奇心がいたく刺激されていることが丸わかりであった。


「それだけでもわくわくするなあ。ああ、もう、早く思い出してよ。あなたがいた世界の話をもっと知りたい」


 すいに両肩をつかまれて激しく揺すられながら、キムは苦笑した。


「ちゃんと思い出したら真っ先に教えるから。それにしてもスイは、そういうよその世界の話とかが好きなのね」

「もちろん! 現世でも異世界でも、まだ見たことない世界の話は大好き。特にびょうに関するお話なんかは大好物だよ」

「ビョウ?」


 キムが首を傾げて尋ね返す。するとすいはよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、胸を反り返らせながら鼻息を荒くした。


「この世界の海の果て、その先にある大瀑布が落ちる先にあるとも、はたまたまだ見ぬ大陸とも伝わる伝説の世界、それがびょう! だけど実際に見た者は誰もいないの。もし本当にあるなら、いつか絶対にこの目で見てみたい!」

「へ、へえ……」


 両の拳を握り締めて力説するすいの迫力に気圧されて、キムは相槌を打ちながらも心持ち後退っている。


「うん、まあ、スイがそこまで言うなら、どんな世界なのかちょっと興味が湧くかな」

「そうでしょう、そうでしょう! だったらまずはこれを読んでみて!」


 すいはキムの言葉に目を輝かせると、机の上に積み重ねられていた何冊もの書物の山の中から一冊を抜き出した。どうやら散々読み返されたものらしく、装丁からすっかりよれよれだ。


「謎の作家・琅藍ろうらんの手による、びょうを隅々まで描いた物語『びょう遊紀』! これ一冊を読めばびょうがどんな世界と伝わるのか、だいたいわかるはず!」

「誰も見たことがないのに、隅々まで描いたってわかるの?」


 書物を受け取りながらキムが口にした何気ない疑問に、すいの表情が一瞬ぎこちなく固まった。


「……ああ、それはその、びょうにまつわるお話をまとめただけだから。本当のところは、古今東西の伝承録みたいなものなの」

「へえ、伝承録ねえ。といっても私に読めるかしら」


 キムは手にした『びょう遊紀』の表紙をめくる。そこにはどうやら紙に墨で直接書かれたと覚しき文章が、一面びっしりに書き連ねられていた。さらに一枚、一枚とめくり続けるキムに、すいがいかにも嬉しそうな視線を投げかける。


「どう、面白いでしょう? 良かったら貸してあげ……」

「――読める」

「え?」


 さらに一枚をめくったキムは、紙面を右から左までじっくりと読み通してから、やがて神妙な面持ちを上げた。


「不思議だわ。この世界の文字や言葉、多分見たことも聞いたこともないのに、なんでか理解出来る」

「そうなの? だって最初から会話出来たじゃない。そりゃ多少は発音が違うけど、普通に同じ言葉を使ってるもんだと思ってた」

「いや、私が前に使ってたのはもっとくねくねした、そもそも縦書きじゃなかったような気がする……」


 そしてキムは手にした『びょう遊紀』をぱたんと閉じると、もどかしげに眉をひそめた。


「ああ、もう。はっきりと思い出せるのが名前だけだなんて、もどかしくって仕方ない」

「まあ、まあ」


 目の前に立ちこめる靄を振り払おうとでもするかのように頭を振るキムを、すいは両手を広げてなだめにかかる。


「キムがいた世界の話を聞きたいのは山々だけど、無理に思い出そうとしても頭が痛くなるだけだって」

「それはそうかもしれないけど」


 そうは言ってもキムの顔は釈然としない。己の正体が自分でもわからないのは、他人が思う以上に不安なものなのだろう。それぐらいはすいにも慮ることは出来る。


 そこでとすいが口を開こうとしたところで、襖の向こうから下女が呼び掛ける声がした。


「お嬢様。裏口の前で、せん様がお待ちです」

「ああ、ちょうどいいわ」


 下女の報告に悪戯めいた笑みを浮かべたすいは、振り返ってキムの顔を覗き込んだ。


「キムはまだ、この世界のこともわからないことだらけなんでしょう。だったらまずはそこから始めない?」

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