第三話 渺(びょう)
内海には人が住まう島が大小含めて百以上点在しており、その中には独立した国もあればいずれかの国に属している島もあり、その在り様は様々だ。
そんな
「天女様、天女様。どちらへお出かけになられるというのですか!」
朱塗りの柱が支える庇に覆われた回廊が、屋敷の広々とした中庭を囲うように張り巡らされている。その見事な景観に見とれながら歩いていたところで、キムは慌てふためく声に呼び止められた。
「いえ、その、スイに呼ばれていたので、彼女の部屋へ」
キムが苦笑気味に答えると、相手の女性はあからさまに眉を八の字にした。
「まあ、あの子ったら! 自分から出向くならまだしも、天女様を呼びつけるような真似を」
「そんな大袈裟ですよ。それよりも奥方様、そろそろ天女呼びは勘弁してもらえないですか。私のことはキムと呼んで頂ければ」
キムを呼び止めたのは
「そんな滅相もない。天女様のお名前を口にするなんて恐れ多い!」
「
キムをひと目見て舞い上がった
「キム、こんなとこにいたの」
背後からの声に、キムはほっとしながら振り返った。そこには屋敷にあって唯一彼女に対等な態度を取る、
「ああ、ごめんなさい、スイ。今から行くところだったの」
「あんまり遅いから迷子にでもなったかと思ったよ」
「これ、
あけすけな口調でキムと会話する娘に、
「全くあなたは、天女様になんという口のきき方を!」
だが
「お母様、今は天女様と約束がございますので御免遊ばせ。お叱りは後で受けますので」
そう言ってキムの手を引きながら、一目散で母の前から遠ざかる。代わりに小さく頭を下げたキムに、また
「お母様にもいい加減にしてほしいよね。あれじゃキムが息苦しくて窒息しちゃう」
キムを自室に引っ張り込んだ
「そんなことないわ。そもそも正体不明の私なんかに、こんなに良くしてもらっちゃって」
「それにしたってキムも丸一日屋敷に閉じ込められたままじゃ、いい加減退屈でしょう」
閉じ込める、というのは
「ただ天女って言われても、私には全然自覚がなくて。どうして空から落っこちたとか、その前の記憶もあやふやなまま。それどころかこの……世界のこともよくわかってないし。それがなんだか申し訳ない」
薦められるまま椅子に腰を下ろしながら、キムが小さくため息をつく。だが
「キムがいた世界って、いったいどんなの? まだ思い出せない?」
「うーん、なんだかどれも薄ぼんやりとしててはっきりしないのよね。ここに来る直前に、空飛ぶ船みたいなものに乗ってたらしいことは覚えてるんだけど」
「空飛ぶ船!」
その言葉を反芻する
「それだけでもわくわくするなあ。ああ、もう、早く思い出してよ。あなたがいた世界の話をもっと知りたい」
「ちゃんと思い出したら真っ先に教えるから。それにしてもスイは、そういうよその世界の話とかが好きなのね」
「もちろん! 現世でも異世界でも、まだ見たことない世界の話は大好き。特に
「ビョウ?」
キムが首を傾げて尋ね返す。すると
「この世界の海の果て、その先にある大瀑布が落ちる先にあるとも、はたまたまだ見ぬ大陸とも伝わる伝説の世界、それが
「へ、へえ……」
両の拳を握り締めて力説する
「うん、まあ、スイがそこまで言うなら、どんな世界なのかちょっと興味が湧くかな」
「そうでしょう、そうでしょう! だったらまずはこれを読んでみて!」
「謎の作家・
「誰も見たことがないのに、隅々まで描いたってわかるの?」
書物を受け取りながらキムが口にした何気ない疑問に、
「……ああ、それはその、
「へえ、伝承録ねえ。といっても私に読めるかしら」
キムは手にした『
「どう、面白いでしょう? 良かったら貸してあげ……」
「――読める」
「え?」
さらに一枚をめくったキムは、紙面を右から左までじっくりと読み通してから、やがて神妙な面持ちを上げた。
「不思議だわ。この世界の文字や言葉、多分見たことも聞いたこともないのに、なんでか理解出来る」
「そうなの? だって最初から会話出来たじゃない。そりゃ多少は発音が違うけど、普通に同じ言葉を使ってるもんだと思ってた」
「いや、私が前に使ってたのはもっとくねくねした、そもそも縦書きじゃなかったような気がする……」
そしてキムは手にした『
「ああ、もう。はっきりと思い出せるのが名前だけだなんて、もどかしくって仕方ない」
「まあ、まあ」
目の前に立ちこめる靄を振り払おうとでもするかのように頭を振るキムを、
「キムがいた世界の話を聞きたいのは山々だけど、無理に思い出そうとしても頭が痛くなるだけだって」
「それはそうかもしれないけど」
そうは言ってもキムの顔は釈然としない。己の正体が自分でもわからないのは、他人が思う以上に不安なものなのだろう。それぐらいは
そこでと
「お嬢様。裏口の前で、
「ああ、ちょうどいいわ」
下女の報告に悪戯めいた笑みを浮かべた
「キムはまだ、この世界のこともわからないことだらけなんでしょう。だったらまずはそこから始めない?」
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