第15話 合気指南


 まばたき過多になっている加虎木を後目に、木守と兎卯子は水差しとグラスを用意する。トレイは見当たらなかったので、木守は指の間へ挟み込んで人数分のグラスを持ち上げた。


 そこではたと思い当たり、グラスを調理台へ置く。


「そういえば食料、カレーの残り以外はないのかな。正直これ、一人あたり〇・五食ぶんくらいしかなさそうなんだけど」

「さあどうでしょう。あの厨房で食べ物の匂いは感じませんでしたから、おそらくないと思うけれど」

「でも兎卯子お腹空いたんでしょ。ちょっと探してみてもいいんじゃないか」

「まあ、缶詰の保存食などは、さすがに私の嗅覚も感じ取れませんから。当たってみるのも一興かしらね」

「戸棚とかになんかないかなぁ」


 ぐだぐだと話し合いながら、木守と兎卯子は食料を探す。


 離れた位置で加虎木は、そんな二人をなにするでもなくぼんやりと見つめていた。


 デッキブラシは隙なく構えているので、不意に厨房に踏み入る者があったときの護衛をしている……のかもしれないが。


「加虎木さんも手伝ってくださいよ。食事、自分は半人前でいいっていうなら別ですけど」

「え、あ、ええと……はいです」


 木守が呼びかけると、わたわたと探索を手伝ってくれた。調理台の下の収納や、冷蔵庫などを確認してくれている。開くと、冷気がもわりと漏れた。


 電気は、通っている。……来訪前にネットで確認していたがこの黒月館はべつにいわくつきの屋敷だとかそういうのではなく、単に予約して利用できる離れ小島の貸別荘だそうなので当然だが。


 ちなみにその際予約者の名前も調べておいたが、『田中太郎』と明らかに偽名だった上にさすがに個人情報などは抜き出せなかったので、とくにその時点では主催者についてわかっていることはなかった。


「お。缶詰の乾パンあった」

「あまりおいしくなさそう」

「食べたことないけどまぁ、イメージは良くないよね」

「でも、無いよりはマシね。いただきましょう。缶切りはあるの?」

「無いけどエントランスのコンクリの床で開けられる」

「なぁに、それ……生活の知恵?」

「サバイバル知識かな」


 雑談しながら厨房をあとにする。グラスと水差しを持っていく途中で開けて、小腹が空いた広間のメンバーで食べればいいだろうと思っていた。


 と、デッキブラシを構えたままだった加虎木がはっとした顔で廊下を小走りし、追いついてきた。そんな顔しなくても全部食べやしないのに、と木守は思った。


「ちょ、ちょっと、木守さん、憂原さん」

「なんですか、慌てて。そんなにお腹空いてるんですか?」


 先ほどの手洗いの前で木守が問うと、加虎木はぶんぶんと首を横に振るう。


「いやいやそーではなくですね! さっきの! さっきの発言です!」

「さっき?」

「すごく重要なことをさらーっと、言ってたですよね!」


 ああ主催者の件か、と納得した木守は廊下の途中で足を止める。木守からすると昨晩兎卯子からすでに聞かされた話題なので、そこまで気にされると思っていなかったのだ。


 胸の前で握ったデッキブラシをぷるぷるさせながら、加虎木は兎卯子と木守へ交互に目をやる。


「いっ、いつから、主催者さんが誰かわかってたですか? あと、わかってたならどうしてここまで黙ってたのです?!」

「いつからと言うと、昨日広間に全員が集まったあとね。どうして口にしなかったかと言うと。泳がせた方が向こうから尻尾を出しそうですし、他の招待者の方と不測の事態に陥った際交渉材料になると思ったからよ」


 せっかく得たアドバンテージを譲ってしまうことはない――そう考えていた。だから木守にも部屋で二人になるまで話さなかった、と兎卯子は昨晩語った。


「つまりここで話したのはもう交渉材料の必要が無くなったから。このあと当人を問い詰めればいいと思ったから。で、その際には状況を知っている味方が居た方が有益と思ってのことですね。あなたは味方して、くれるでしょう? 加虎木さん」

「それはもちろん、こんな状況ですし……そっそれでっ。この妙な戦いの主催者、どうやって気づいたのですか!」


 よほど見通しの悪かった現状にストレスが溜まっていたのか、加虎木は息継ぎも惜しむように問うてくる。


 兎卯子はそんな彼女へにっこりと微笑んでみせながら、すんすんと鼻を鳴らした。


「気づいたのはごく単純に、匂いよ」

「……匂い?」

「鼻が利くの、私。ちょうどいまのあなたと私くらいの、会話できる距離まで来てくれれば、そのひとが昨晩食べたものだって当てられるくらいには」


 正確には衣服や頭髪などに付いた匂いを感じ取っているらしい。木守もちょくちょく、同じジャケットを翌朝も着ていたときなどは当てられている。


「この厨房、入ったときに少し空気が違うと感じなかったかしら」

「空気……というか。まあ。新築の建物入ったときみたいな、というか。清潔感みたいな匂いは、したですけど……?」

「塩素系漂白剤の薄まった臭いよ。最近流行りの次亜塩素酸水なんかは反応したあとはすぐに無臭になるけれど、ここは管理者が借主の来訪前に洗剤と塩素系漂白剤で清掃しているのでしょうね。……私にはその臭気の、わずかに付着した残り香だって感じられるのよ」


 木守は床に目を落とす。


 もちろんそこには清掃の痕跡などなにもないが、わずかに残った臭気があのとき感じられたのだろう。


「お手洗いの方は汚れていなくて清掃をサボったのか、塩素系の臭いはしませんでした。つまりここの匂いを漂わせているひとは、あのレトルトの食事を寸胴鍋へ用意した主催者だけでしょう? そして匂いの該当者は二人居ました……私の言葉や行動に対する反応から、どちらが主催者かはすぐに絞り込めたのですけれど」


 白杖でこつこつと絨毯張りの床を叩きながら、兎卯子はひと息入れた。


 次いで主催者が誰だったのかを。


 彼女へ教えるべく、口を開こうとして。


 一瞬で口を閉じ直すと、サっと廊下の先を向いた。


 動作につられて加虎木もそっちを向く。広間方面、玄関ホールへの角だ。


 なにも、ない。


 なにも、起きていない。


 しかし前触れはあるのだろう。空気の揺れ、微細な音、幽かな匂い。


 それらに対する鋭敏な感覚を総動員して、憂原兎卯子は生きている。


 だからこそ接敵にもすぐ気づけるのだ。


 角から爪先がのぞく。重心を後ろ足に残しており、角から出した頭をもし打たれそうになっていてもすぐに退ける姿勢。


 スリッポンを履いた足、長いスカートを視線で辿ると地味な色のカーディガンとブラウスを着込んだ細身の体があり、ショートの黒髪に覆われた顔には目立ち始めた皺の影がある。


 鯨井が、近づいてきていた。


 たるみが厚みを生じさせているまぶたの下で、暗い瞳がこちらを睨む。すたり、すた、と歩みを止めない。


 仕掛けてくる様子はないが、真意の読める顔でもない。


 纐纈からは接触するなと言われていたものの、さて。どうしたものか。


 広間に戻る経路で出くわした以上、接触せずとなると引き返さなくてはならないのだが。とはいえ彼女はなにか凶器を持っているわけでも、害意ある間合いの詰め方をしているわけでもなく。ただただ、歩いてきているだけ。


 観察しているうちに距離は詰まる。相手が一足で踏み込める間境が迫る。


「……、」


 すると反射的な行動だろう。加虎木はデッキブラシの毛先に近い端を右手で握り、左手は中ほどへ添えるようにして先端を後方へ向けた。


 右足を前へ。


 半身にとって、刀で言うなら脇構えに近い体勢へ。


 そんな加虎木に視線を直接くれることはなく、有効視野角に収めているかどうかという態度で、鯨井は悠然と得物の圏内に入り込み――


 結局、一瞥いちべつくれることすらなく、通り過ぎた。


 冷や汗を流しながら、固まっている加虎木。


 木守が彼女から目を離し厨房の方を振り返ると、開いた扉の奥からジャーっと水道の流れる音がした。やがて緩やかに流れが止まり、静まって音が切れる。


 来たときと同じように、鯨井はゆったりした歩みで戻ってきた。片手には底の丸い花瓶のような形をしたガラスの水差し。籠城するにしても、水分は必要と判断して汲みに来たか。


 そのまま、固まっていた加虎木の横を過ぎる。


 流し目で、自分より二回りは年若き武術家の顔を見やる。


「……得物構えて身をすくめて、臆病な。怯えを飼い慣らせんようじゃ、器はそこまでってこったね。倉内もこんなのに許しを与えるたぁ、耄碌したか」


 冷ややかに告げる。


 先ほど北熊谷が口にした言葉と同じトーンであった。


 再び、流派への侮辱。


 しん、と、針で刺すような沈黙。


 それを破ったのはカランとデッキブラシが転がる音だった。


 鯨井は歩みを止めない。聞こえていないからだ。


 彼女の聴覚障がいを知らない加虎木が、眼鏡の奥から睨みつける……これを鹿野のようなキレやすさだ、とは非難できまい。殺人の起こった異常状況によるプレッシャーと自身の掲げる流派への侮辱、二つ合わさってストレスが限界に達したためだ。


「……私のことはいいですが、師への侮辱は撤回して欲しいです」


 ざわりと、横に居る木守も総毛だつような殺気が発せられる。


 これでやっと感づいたらしい鯨井は、肩越しにこちらを顧みて半目で加虎木と見合う。表情から彼女が己の背に投げた言葉をなんとなく察したか、齟齬なく会話をつづける。


「なに怒ってるんだかね。弟子を見るたぁ、そういうことだ。弟子の出来不出来はそのまま師の評に直結する。つまり、あんたが師を貶めてるのさ。あたしに突っかかるのはお門違いだよ」

「では私が不出来でないと証を立てられれば、撤回すると?」

「それができそうもない奴だから、そんなのを見込んだ奴を耄碌したという他ないんじゃないのさ」


 馬鹿にしたわけではなく落胆したような声で、鯨井は言う。


 歯を食いしばる軋みが木守の隣から聞こえた。


 加虎木は左足を前に進め、両手を開手のまま下段に構える。ロングのプリーツスカートのため、足捌きを少し視認しづらくなっている。肩幅より狭めのスタンスは後ろの足を斜め前へ開いた。


 鯨井は水差しの瓶の底に両手を添え、胸元に抱えた格好で加虎木へ向き直る。


「あたしに認めさせようっての?」

「条件は同じく徒手です。立ち合いを願いたいです」

「冗談じゃないね」

「この期に及んで技を見せたくないなどという言い訳で逃れるつもりです? それではこちらもあなたを、尻尾を巻いて逃げ出す程度の使い手とそしる他ないですが……用心棒だの後ろ暗いことを言っておいて、臆病なのですね」

「おいおい、ばか言っちゃいけないよ」


 くは、と笑って鯨井は水差しを抱えたまま。手洗いの入り口脇の壁に背を向けながら加虎木に首をかしげて見せる。


「冗談じゃない、ってのは条件を同じくしろってところさ」

「は……?」

「あたしはこの水差し構えたままにさせとくれよ。口に付けるものを床に置くのは、ゴメンなんでね」


 左足を半歩だけ前に出し、重心を深く安定させた立ち姿で鯨井は笑う。


 加虎木は呆気にとられた。


 ややあってから、わずかに目を見開き、次いで細める。


 明らかに己を軽く見た態度の鯨井に、敵意を鋭く研ぎこんだと見えた。


「……ご自身で提案されたことですよ?」

「やる前から相手の心配たぁ強気だね」


 それきり口をつぐみ、鯨井もじっと加虎木を見やる。


 鯨井の方からは敵意、殺意といったものは浮かび上がっていないが、その代わりに底の見えない縦穴を思わせる不気味さが発せられていた。


 加虎木から吹く敵意の一切を、吸い込み落としているような。


 誘い寄せる、黒い意思。


 間と視線の交わりが、それら意思の具体的な現れとして巻き起こった。


 双方の意図が読まれ合い、絡み合い、もつれ合い――引き解ける。


 加虎木が前に出した左足の膝を抜く。重心が倒れるのを利した、力みなく初動の薄い一歩が間合いを削る。


 体重移動の力を打撃の威力に転化した。左の掌底が伸びる。


 これを見切って、鯨井が半歩出していた左足をつぅっと退いた。加虎木の爪がガラスの表面を掻くかどうかの位置にまで下がる。瓶の中の水面は引き下がるのに合わせてちゃぷンと波立ち、鯨井の方へ寄っていく。


 次いで繰り出された加虎木の動きもまた、波であった。


 右足を強く踏み出して鯨井の引く足に追いついた。ここで、踏みつけるのでなくその足の下に爪先を潜り込ませ、あたかも引き潮が砂浜の表面を削るように足場を崩す。


 同時。


 着地した足から股関節へ、腰から肩へとうねりが起こり、右の掌底に勢いが載る。


 中段への鉤突き。全霊の一打が鯨井を襲う。


 両手は水差しの丸い底を抱えたまま。防御はできない。左足も接地を崩され後ろへ体を倒しかけている。回避はできない。


 どうあがいても逃れ得ない、必殺。


 必倒。


 そんな一撃。


 が、


 吸い込まれた。


「――え」

「《迎陰げいいん》」


 つぶやきは技の名か。


 体格差から見下ろしていたはずの相手に心理的に見下みくだされ、加虎木の身にこわばりが生まれた。


 けれどそれは右掌底を打ち終えてからだ。


 攻撃までの流れには、なんら問題はなかった。


 けれど求めた結果は、なにひとつ得られなかった。


 底の見えない黒い縦穴に。


 彼女の放ったちからは、吸い込まれ。


 じゃブん――じャぽン、と水差しが渦を巻く。


 加虎木の触れた位置から、まるで水流を送り込まれているように。


 左へと旋巻く軌道で、激しい河を思わせる流れが荒れ狂っている。


 鯨井は、なんの痛痒も感じていない顔で。


 胸元にそっと抱えたままの水差しで、己の身体に向かっていた掌底を防ぎ、それで水差しを割ることさえなく立ち尽くしていた。


「技を使わせたことだけは、褒めてやる」


 壁に背をもたせかけていた鯨井は、すっとまっすぐな立ち姿に戻るとその場を去った。


 残された加虎木は震える右手を見つめ、どうしようもない面持ちで、床に目を落とした。


「あらあら」


 兎卯子が他人事のように一部始終を聞き終えた感想を四文字で終わらせる。


 いや、実際、他人ごとではあるのだが。

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