第2話 日常茶飯事の襲撃
時節は三月の下旬、うららかな春の日である。
往路、見上げれば桜。
川沿いの並木通りは、暖かな色に染まっている。
陽気にさらされて、道行く身体はぽかぽかと温かい。
「暑ぅ。これならジャケットなんて、着てこなくてもよかったかなぁ……」
そう思いながら住宅街へ入り、建物の角を左へ曲がろうと、
木守はひょこりと右の爪先を出して。
重心が後ろに残っている段階で。
サァっ――と、悪寒を覚えたため歩みを止めた。
瞬間、
目の前を左から右へと猛烈な勢いですっ飛ぶ人影。
どしんと塀にぶつかって、おそらくは骨が折れたのだろう。
倒れ伏した大柄な男があばらを押さえて、一瞬遅れての絶叫。
「ぁぐぐぐあぁーッ!!」
「……うわぁ」
粟立った両腕の肌をスリスリとこすって
それから彼がひょこりと角より顔を出せば、死屍累々。
姿勢はさまざまなものの、だれもが身体のどこかを押さえうめいている。
数をあらためると、八人いた。つまり先の男と合わせて九人。野球チームひとつ分の人数が、打ちのめされていることとなる。
……いや。
ちがう。
「サッカーチームひとつ分――か」
追加で空から二名、人間が降ってきた。
グルングルンと縦回転し、ほとんど受け身も取れずに背から足から落ちた二名は、ごりんと嫌な音を立てて地面に転がる。またしても絶叫が、閑静な住宅街に響き渡った。
「ちっ、ちくしょう! 今日こそブッ倒してやろうと思ったのによ……!」
「腕が、腕が……この女ァ、ふざけた技使いやがって!」
これを受けて、さもうるさくてたまらないという様子の、涼やかな高い声がかぶせられる。
「……そんなに大声あげることでもないでしょうに。口だけの奴ってどうしてこうなのかしら」
視線を地面から上げれば、この発言の主にして惨状の犯人を見ることとなる。
それは白い、小柄な少女だ。
木守より頭ひとつ低く、背丈は一五二センチ。
ショートボブの真っ白な髪を軽く内巻きにしており、インナーカラーに桃色をあしらう。
フリルの目立つ純白のパフスリーヴブラウスを着て、腰から下には三段ティアードの漆黒のジャンパースカートを合わせており、蜘蛛の巣柄のワンポイントが入った灰色のタイツが細い足を覆っている。
手先は絹織りの手套、足元はリボンが足の甲でクロスしたエナメルシューズで固めて、背筋に芯が入っているように気持ちのいい姿勢で立ち尽くしていた。
男たちを踏みつけにして。
なんら良心の痛まない様子で、立って居た。
と、彼女は木守の足音に気づいたのかくるりとこちらを向く。
身に纏うものとも髪の色とも異なる、白さというより無垢な無地と言った色味の肌。顔と喉をそんなきめ細かい美しい地に覆われた彼女は、なまめかしく開いた朱い口許を歪めて笑い、こわばっていた眉間と目元を緩ませた。
その、まぶたには。
ボディステッチ。
上下を赤い糸でじぐざぐと縫い付け、瞳は閉ざされている。
非人間的な美しさをよく『人形のような』とは評するが、彼女が自ら己の身に施すこうした装飾は、その手の言を一切許さない。
「あら――木守、木守ではありませんか。今日はアルバイトではなかったの」
スンと鼻を鳴らし、足音と匂いで木守を特定した彼女は言う。
生まれつき全盲とは思えない、しっかりとした歩みで男たちを踏みつけにしながら近づいてくる。
これから木守が訪ねようとしていた友人、ずばりその人であった。
彼は肩をすくめて応じると、「今日は僕、休みだったから」と切り出した。
「兎卯子のとこに遊びに行こうと思ってさ。でもそっちは、今日も忙しかったみたいだね」
「別段これは、仕事ではないのですけれど……降りかかる火の粉は払わねばならないだけよ」
「ふうん。払った結果が上空五メートルお空の旅とは豪快な。さすがは《歩く暴風圏》」
「その通称、あまり気に入っていないので呼んで欲しくはないのですけど」
木守の軽口にため息をこぼし、兎卯子は肩を落とした。
と、そのとき兎卯子の背後で、ゆらりと人影が立ち上がる。
先ほど兎卯子がぶちのめした男のうち一人が、ダメージから回復したらしかった。
獰猛な顔つきで目を血走らせ、ボトムスの後ろポケットをまさぐると小ぶりなナイフを取り出している。
「…………っの、くそ、アマ……!」
いまにも力の抜けそうな足どりで、男は仲間を踏まないように近づいてくる。
ずいぶんと思いやり深いことだ。皮肉ではなく本心からそう思いながら、木守はその様を見つめていた。
距離を詰め、男はタタタッ、と駆けこんできた。
腰だめに構えたナイフを深く、突き込む動き。
背面から肝臓あたりをめがけての一撃。刃先が兎卯子に滑り込まんとする。
けれど、届くことはなかった。
「あら」
軽く、道端で会ったご近所さんに話しかけるような気安さで、兎卯子は声を漏らす。
背を向けたまま左の後ろ蹴りで、間合いへ踏み込む男の膝を蹴り抜いていた。
男は反射的に踏ん張ろうとして上体が
これで揺らいだ力の流れを見逃さず、左へ旋を巻いて振り向きざま、兎卯子の両手が閃いた。
下から突き上げるように出した兎卯子の手が、男の手首と前腕を一瞬で這い回る。
――触れれば崩し、掴めば投げる。
そんな異様を語られる兎卯子の両手――彼女いわく《
「刃物はいただけないわ――じゃ、さよなら」
振り向いて正対したところから、兎卯子がまた左へ回転する。
懐に潜り込んだ兎卯子の背に、男は覆いかぶさるような姿勢で載せられた。掴まれた手首を引かれ、身体が重力から一気に解き放たれる。
さながら暴れ馬を御しきれなかった愚か者のごとく。
上空五メートル、お空の旅。
勢いあまってグルングルンと縦回転している男に、もう受け身を取る術はない。
ズダァンと落ちてめきょッ、とまたどこか砕ける音。
すっかりお約束となった一拍遅れの絶叫を無視して、手套をぱんぱんと払った兎卯子は近くに立てかけていた白杖を手にしていた。
すでに終わったこととして、気にも留めていないのだ。
「……それで、兎卯子。こいつら一体なんだったの」
「さあ? 襲ってきたから対処したまでだもの」
「いやいや。それでも名乗り口上とか、因縁つけるにしても過程とかはあるでしょ」
「いちいち覚えていられません、そんなもの。耳障りな音は意識的に覚えないようにしているもの」
「ああ、そうだったね……」
あらゆる面で聴覚に頼るところの大きい彼女にとって、情報の取捨選択は生命線足りえるのでその状態もやむなしだ。
仕方なく、木守は周囲を見回して重傷者がいないかだけ確かめることとする。
一見したところ頭を打っている者や内臓を傷めている者、頚椎や脊椎や腰椎に問題のある者はいないようだ。
こんな状況でも、多少は手加減をしていたのかもしれない。ほっとする木守だった。
「……とりあえず全員、生き死にの話にならず済みそうだ」
「それでは遊びにまいりましょう、木守。あ、でもその前にお昼を食べてもいいかしら。そのつもりで家を出てきたものだから」
「ああ、そうなの……なに食べる? またパスタ?」
「そうしたいところですけれど、昨晩あなたはパスタを食べたようだし」
スンスン、と形の良い鼻を鳴らして兎卯子は平然と言う。
「献立が連日かぶるのは、良くないでしょう」
「僕このジャケット、昨日も着てたっけか……もしや匂う?」
「ええ。おいしそうな匂いが」
兎卯子はころころと笑う。
夕飯を食べに行ったときに匂いがついていたのだ、と木守は理解する。
「まあ、でも僕は兎卯子が行きたいならイタリアンで構わないよ。今日はピザ食べるから」
「そうですか。ではイタリアンで、よろしく」
「どこ行く?」
「ワインが安いあそこがいいわ」
メニュー裏にある間違い探しがやたら難しいチェーンのお店のことだ。
木守は了解して、兎卯子に肘をつかんでもらうと歩き出した。
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