第5話 館と形容


 港を出て四十分ほど。


 遠景に突き出た岩場のように見えてきた島は、近づいてもさほど大きくない。歩いても三十分足らずで一周できてしまいそうな、本当にちいさな島だった。


 砂浜からすぐ森になっていて、島全体がなだらかな丘のようだ。右手、西の方には小高くなった部分があり、一番上に見張り小屋のような、周囲を見渡せる場所があるのが見えた。


 やがて申し訳程度につくられたコンクリートの波止場に近づき、ゴムタイヤのクッションでワンバウンドして船体は受け止められる。


 渡された鉄板の橋を越えると、木守は身体に少しだけ揺れが残っているような気がした。


「……気持ち悪くてしかたがないわ」

「兎卯子、きみ船ダメだったんだね……」


 木守よりも兎卯子の酔いは深刻そうで、鉄板を渡り終えてすぐに崩れ落ちる。


 心配そうにこちらを見る船主の男から酔い止めをもらい、しばし風に吹かれて休むこととなった。かぶっていた黒いケープのフードを目深に下ろし、彼女はあー、とうめく。


「大丈夫か、嬢ちゃん」

「三半規管弱かったみたいで……少し休めば平気だとは思うんですけど」

「そうか。まあ、森に入って、踏み固められた道なりにちょっと進めば集合場所だそうだからな。迷うほどの広さもあるまいし、回復してから行きな」

「ありがとうございます」

「気を付けてけよ」


 船は波止場を離れていき、すぐに水平線へ見えなくなった。


 兎卯子が回復するまでの間、木守はポケットからスマホを取り出して、砂浜や森の入り口を歩く。フリーWi-Fiを拾わなかったので、ネットなどは使えないようだ。


「明後日の正午まで、ここに閉じ込められたかたちか」


 ぼやいて、船の去った水平線を眺める。灰色の雲が、湧き出す湯気のように彼方でちらついていた。


 波止場に戻ると兎卯子も自前のスマホをいじっている。


 彼女のスマホは設定変更で指の触れている位置のアプリが「マップ」「電話」「メール」だのとアプリ内容を読み上げる機能をオンにしており、音を頼りに操作できるようになっている。画面上のテキストの読み上げも可能だ。


 けれど当然、画像については読み上げ不能なので内容を把握できない。


 なので先日のように『点字の形状がどの字に対応しているか』などは、検索してもわからない。だから木守に解読を頼んできた次第である。


「兎卯子、なにしてんの」

「音楽でも聴いて気をまぎらわそうと思ったのです……」


 元から白い肌がいまや蒼白になっている彼女は、頭をふらふらさせながらミュージックアプリを起動した。


 不安になるような落ち着くようななんとも言えない曲が流れ、木守が「なにこれ」と訊くと兎卯子は「雨の樹」と曲名を告げる。


 しばらくの間、そうして二人並んで音楽に耳を傾けていた。


 リピート再生で三回ほどかかったあと、復調したらしい兎卯子はふうと息をつき杖を突き、立ち上がる。


 森の方を見て、「そろそろ行きましょうか、お待たせしたわね」と軽く笑んだ。血色は良くなっていたので、木守はうなずきを返して「だね」と言った。


「僕らが最後ってことは、残りの九人は来てるんだろうし」

「ああ……それって『到着したらいきなり決戦』という可能性もあるかしら」

「あるかもなぁ。まだ酔いが心配なら、もう少し休もうか?」


 船での往路と酔いからの休憩でだいぶ日は傾いてきているが、兎卯子の場合日が沈んだ森の中を歩こうと戦闘に支障はない。体調の万全を期した方がいいだろうと、木守は案じる。


 けれど彼女はふるふると首を横に振り、涼しい顔で森へ歩き出した。


「暮れていく最中の方が暗順応の状態如何では相手の目測を誤らせることができますし、むしろ都合がいいもの。いま行きましょう」

「ああ、そう。ちゃっかりしてるね、戦術が」


 そういうことならと、木守は彼女の二歩後ろを歩く。


 殊この局面に至って木守が肘を貸していないことに難癖つける者はいないだろうし、むしろ片手が塞がっているとなにかあったときに不自由だ。


 というわけで彼女の判断と行動に任せ、木守はのんびりと森林浴を楽しむつもりで歩いた。濃い木と土の匂いが、人の手が入る頻度の低さを思わせる土地である。


 のしのしと進むうちに道は開けてきて。


 やがてそれは、目的地である館の前庭へとシームレスに繋がることとなった。


 ただ前庭と言ってもその痕跡が残るばかりで、花壇だったと思しき埋まった煉瓦や薔薇が巻き付いていたと思しきアーチの骨組みが、むくろのように荒廃ぶりを晒しているだけだ。


 その、奥。


 西日を浴びて耀く青黒い洋館が、森の木々を押しのけて建っていた。


 二階建ての豪奢な木造建築。窓の多くは鎧戸がついていたり雨戸が閉まっていたりしたが、それらにも細かなレリーフが刻まれているのが見て取れる。


 玄関ポーチはひさしを洒落たデザインの八角柱で支えており、大きな両開き扉が行く先で厳として構えていた。


「こんな離れ小島にしては壮麗な館だなぁ」

「それほど立派にできているの?」

「少なくとも僕らの町じゃ、建てらんないだろう館だね」


 ちょっとマンション建設の話が持ち上がるだけでやれ日照権侵害だなんだと囃し立て、大きめの戸建てができれば井戸端会議でそこの住民の処遇が決まるような陰湿な町に住む木守はそう言った。


 離れ小島にあるわりに寂れた印象はなく、館は堂々としている。こういう場合でもなければ、入るのに気後れするような建築物であった。


「では、入りましょうか。少し侵入に気を払うわね」


 その威容を気にせずぱたぱたと近づき、兎卯子は扉の縁に触れてそこが内開きであるのを確認すると、突き出した白杖の先端をノブに載せる。


 押し下げて開き、中から不意打ちに備えてバっと半歩退く。


 一拍の間を置いても、とくになにも起きなかった。


「……近くにはいないようね」


 耳を澄ました彼女はそう言い、ジャンパースカートの裾を揺らして館に踏み込んでいった。木守もボストンバッグを抱え直してつづく。


 入ってすぐ、吹き抜けのホールだった。チェス盤を思わせる白黒の石造りに深紅の絨毯が敷かれており、正面の階段は中途の踊り場から両階段となってぐるりと頭上をめぐる二階の回廊へつづいている。


 左右を見渡すと、そちらは外観から予想できていたが、長く廊下が伸びている。絨毯はこの廊下にも這っていたので、毛足のよれ方から右手の方に多く人が移動した気配を木守は察した。


「あっちかな」

「そのようね。微かに声が聞こえますもの」


 白杖を絨毯に突いて兎卯子が先導する。のそのそと木守はあとを歩いた。


 次第に、声は大きく聞こえるようになる。


 廊下の突き当たり、半開きの扉から漏れ出る光の手前で足を止め、兎卯子は杖先で扉をこづき押し開けた。


 話し声が少し弱まり、注目がこちらを向いたことがわかる。兎卯子は踏み込んで部屋の中の音を聞くよう、首をめぐらした。


「遅れてごめんなさいね。十人目の招待者である憂原兎卯子と申します。どうぞよろしく」


 フードを深くかぶった頭を下げる彼女につづいて木守が入ると、そこは広間だった。


 奥のマントルピースを囲むようにソファが置かれ、五人がそこに腰かけている。


 右手奥から、肌の色が濃く革製の服を纏う巨漢。体格の良い浴衣の女。スカジャンを羽織る大柄な男。眼鏡をかけたおとなしめな女。小柄で年齢と性別の判然としない人物。


 彼らは一様に、兎卯子の立ち姿を観察する。


 それは一瞬だが、品定めの視線と言っていいものだ。もちろん視線は木守にも移るけれど、こちらは腕前の品定めではない。十人の参加者以外の人間、ということは……などと、様々な疑念が渦巻くが故のものと思われた。


「……じゃ。アンタが十人目ってことハ、奥のボーイが今回の『主催者』かイ?」


 少しだけイントネーションに異国の風を感じさせる口調で、巨漢が言う。


「いいえ、ちがいます。彼は私の、付き添いよ」


 返しつつ兎卯子はすたすた歩き、一番スペースの空いていた巨漢と浴衣の女の間に腰かけた。どちらも体格は兎卯子より二回り近く大きいので、余計に彼女がちいさく見える。


 そこで浴衣の女は兎卯子の手にある白杖を見て、付き添いという語の意味に気づいたらしい。


 ポニーテールの後ろ髪を揺らしながら、兎卯子のフードの内をのぞこうとする。


「……えっ。あなた、見えとらんの?」

「ええ、まったく……と言っていいかは、実のところわからないのですけれどね」

「なにそのお茶濁した感じ」

「濁したくもなります。だって私『見える』というのがどういう概念なのか、よくわかっていないもの」

「あー、つまり先天的な……なーるほどねぇ」

「ええ。そういうことなのよ」


 ほがらかに返す兎卯子。


 なんとなくこの対応にとっつきやすさを感じたのか、浴衣の女は声から硬さが抜けた。


「ともあれよろしく、憂原ちゃん。そういやこの名前、格闘界隈で聞き覚えあるわ。つまりあなたが、《歩く暴風圏》ってことだあね」

「あまり気に入らない通称なのだけど、そうよ」

「ふうん、そう……まーしかし物騒なあだ名付いとるからもっとこう、獰猛で激しい感じの子ぉ想像しとったわ」


 膝に頬杖ついて、浴衣の女はじろっと兎卯子を見やる。


「でも実物はぜーんぜん。可愛い感じしとるね、あなた」

「それはどうもありがとう」

「いやホントホント。可ぁ愛いくって、まるで――」


 と、そこで形容する前振りが入った。


 あ、まずいな、と木守は思ったが、ボストンバッグを下ろそうとしていたので止めに入ることはできない。


 どうしようもないので、一瞬のうちに覚悟だけ固めることにする。


 そして形容の言葉は、つづいた。


 それはなんの気なしの発言だったのだろうが、


 兎卯子の抱える地雷を確実に踏み抜くワードだった。


「――お人形さんみたいな、」「その形容も気に入らないのよね」


 くすりと兎卯子は笑んだ。


 フードを、ぱさりと脱ぎ払った。


 目深にかぶっていたそれが隠していた、縫い潰された目元が露わになる。


 血のように赤い糸で縫われた、白い髪の間に透けて見える強烈な色彩が、露わになる。


 ――これを急に至近で見て、呆気に取られない人間はそうはいない。


 この隙を逃さず兎卯子は左腕を突き出した。


 はたからはソファ座面のゴミを払いのけたようにしか、見えない動き。


 けれどそれで終わっていた。


「ぎゃッ――」

「『お人形さんみたいな』『人じゃないような』『造り物じみた』……ってね。私、あんまり頻繁にそう呼ばれるものだから、呼称に近づけるようこうやってボディステッチなど施しているのですけど……」

「――ぁッ、ぁぁあっ、ッ痛ぁぁぁぁぁァァ!」

「……どうしてかしらね? あなたがたが嬉しそうに呼んだものと程近い姿ですのに。見せてあげると、みんな呆けてしまうのよね」


 つぶやきながら立ち上がる兎卯子。


 対照的に、崩れ落ちる浴衣の女。


 女は見る見るうちに目に涙を溜め、右手を左手で押さえ込んでいた。


 その小指は、通常曲がらない方向にベッキリとへし折られていた。


 大柄な男と眼鏡の女がこれを見て、ざわめき立ち上がる。


「なっ、なっ」「あんたいきなり、なにしてるんです!」

「なにしてるもなにも。気に入らない言動がありましたし大層油断しておられるようでしたから、目を覚まさせてあげただけよ。他人への気遣いか自分への気遣い、どちらかが足りていれば負うことのなかった負傷ですね」


 悪びれることもない兎卯子は白杖を床に突きながら浴衣の女を見下すように首を傾け、浴衣の女は憎々し気に兎卯子を睨みあげていた。


 巨漢はヒュゥと口笛を吹き、小柄な人物はにこやかに一部始終を眺める。


「――なんだ、どうしたんだい」

「――悲鳴が聞こえたが」

「――もう開戦はじまったのかね?」

「――……死んではいない声だったな」


 そこへ、騒ぎを聞きつけてきたのか残り四名もなだれ込む。細身の軽薄そうな男、黒いスーツを着た初老の男、地味な格好の中年女、険しい顔つきで目を伏せた男の順だ。


 期せずして、十名が揃う。


 あとからの四名の視線が兎卯子と、木守を順番に見た。


「……あの、僕は主催者とかじゃなくて、あそこにいる参加者の付き添いです」


 先手を打って自己申告する木守だった。


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