第6話 不世出の天才vs歩く暴風圏

「ううぅうぅ……くそっ、くそっ……あぁぁぁ、ァアッ!!」


 浴衣の女が、立ち上がった。そして叫びつつ、へし曲げられた小指をつかむ。


 ごきん、と元の位置へ戻した。


 見ているだけでこちらも指が痛くなってくる表情で、だらだらと脂汗を流しつつ、低く重心を落とす。


「こっ、の……ぁぁっ……まだ、だわ。まだ、動く」


 ぎりぎりと指先を絞るようにうごめかし、ダメージの確認を済ませる。


 次いで両腕を、兎卯子を抱きしめにいこうとするかのように広げた。


 両手の指は開いている。それは襲いかからんと鎌首をもたげた蛇を思わせる、獰猛な攻撃の意志を宿した手。


「この、女……ぶっ殺したるわ……!」


 咆えて、挑みかかる。状況を見守っていた周囲が止める暇などありはしない。


 浴衣の裾がパンっ! と跳ね上がる音がして、素早い踏み込みが間合いを詰める。


 杖をついて立っていた兎卯子はこれを受けて手元の得物を投げ出し、向かってくる浴衣の女を迎え撃った。


 伸びて来た左腕の手首を、兎卯子は右手の甲で上方へ打ち払う。


 浴衣の女はつづけざまの右を――たったいま小指を曲げられたばかりだというのに気にした風でもなく――突き出し、しかしこれも兎卯子の左手で下方へ弾き落とされる。


 互いに両手を天地上下に構えたかたち。


 浴衣の女の前進は、しかしまだ止まっていない。腕を突き出しながらの猛進は終わっていない。間合いはこの攻防の間も削られつづけていた。


 ゆえに、距離が詰まった二者が採りうる最速の動きは、肘を自身の身体へ引き付けるように動かすことであり。


 必然、それは互いの襟と袖をつかんだ組み合いへなめらかに移行することを意味した。


 兎卯子が浴衣の襟と袖を。浴衣の女はフリルの多い兎卯子のブラウスの襟と袖を。指先を生地へもぐりこませるようにつかんでいる。


「あら、やっぱり。やわらなのね」


 うれしそうに兎卯子は言い、凄絶な笑みを浮かべた。先日街中で雑魚に絡まれていたときにはついぞ見ることのなかった顔だ。歯ごたえのある相手がうれしいらしい。


 浴衣の女は鬼の形相でこれに応じ、小柄な兎卯子との身長差と体格差を利した圧力をかける。


 単に上からのしかかるというわけではない。


 触れている箇所にかける力をまったく変化させないまま、相手が自身の身体で意識している箇所を次々と切り替えさせる、そういう魔技だ。


 体捌きのわずかな変化により次の手を予測させることで、相手を押し――流され――押し返し――こらえ。


 微細な重心の変化が起こすこれらの動きを、絶えず相手に意識するよう仕向ける。


 するとどこかに隙が生まれる。


 単純な話だ、人間は同時に身体の二か所へ注意を向けることが難しい。ひどい頭痛に悩まされているときに指のさかむけが大して気にならないように。


 時間にすれば一秒にも満たない二人の硬直の中には、そんな攻防が見えた。


 そして均衡を保っていた天秤が傾く。


「ぜぁぁっ――」


 裂帛の気合いと共に浴衣の女が動いた。


 兎卯子の肚が、つまり重心が微かに浮いたのを見て取った。


 吸い寄せられるように前に進んだ兎卯子の右足に、内側から浴衣の女の左足が絡みつく。くるぶしのあたりをすくい上げるように刈りに行く。


 兎卯子のちいさな身体が、背から地に叩き伏せられるイメージが浮かんだ。


 だがそうは、ならなかった。


「――ぶぐっ!?」

「うふ」


 悲鳴と笑い声が交差する。


 吸い寄せられるように兎卯子の身が前に出たと見えたのは、かすかに彼女が前傾したから。


 前傾した理由は攻撃の予備動作。


 つまりは頭突きの溜めだった。


 引き付けられて足を踏み出し、その足に浴衣の女が足を絡めてくるかどうかのタイミングでうつむいた顔をグンと振り上げた。最接近していた浴衣の女は、それで顎をかち上げられてしまった。


 次いで、兎卯子は襟を握っていた左手を滑らせ、開いた親指と人差し指の間で喉へ叩き込む。二連続で上に向かって弾かれた。のけぞる。だがまだ兎卯子は右手の内で袖を離していない。


 刈られかけていた右足の着地と同時に踏み切り、両腕を後ろへ引いて胸を張るようにしながら左膝を下腹部へ蹴り込んだ。


 ついに袖がびぃぃ、と破れて少し威力が逸れる。


 それでも後方へ勢いよく転がって、浴衣の女はマントルピースに背中をぶつけて停止した。痛みにうめき、あああああ、と低い声を吐き出しつづけている。……《歩く暴風圏》の異名通りの、相手を吹き飛ばす戦いぶりである。


 兎卯子はこれを見て、立ち上がってこないことを確認すると、ふいに力が抜けた様子で手の中にあった袖を放り捨てた。


 これでもう彼女の中ではすべて片が付いたのだろう。つまらなそうにふうと息を漏らし、


 やっと自分が周囲からすごい目で見られていることを察したようだった。


 楚々とした顔つきを――どのように身につけたかは不明だが、とにかく見る者を不安にさせる顔だ――取り繕い、軽やかに「ふふ」と笑って杖を拾い上げる。


「失礼いたしました。ちょっと先走ってしまって」


 そんなことを言い、いまのやり取りをなかったかのように席へ戻る。


 げんなりした周囲の空気が、木守にもひしひしと伝わってきていた。






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