アウトキャスト―密室武術会殺人事件―

第10話 拳闘ｖｓ空手

「『ボクシングじゃ戦えナイ』と、そう言ったナ」

　低く中段へと下げた左腕を小刻みに揺らし、居付かない体勢で鹿野は言った。

「言ったが。儂の発言に、思うところあったか」

「シメーを賭けてきタものを軽く見られるノは、我慢ならナイ」

　たぶん身命だ。と木守は思った。

　ともあれ、鹿野は半座と大神が先ほど雑談していたように、自身の技への自負があってやってきた人間であるらしい。

　こめかみに血管を浮き上がらせ、張った上腕二頭筋を見せつけるようにしながら、北熊谷に殺気を向けている。

「……試して、みるカイ」

「其の方が望むなら。それで、気が済むのなら。やってみるが良い」

　侮りなどは感じられないが、敬意なども感じられない淡々とした言葉で北熊谷は返す。

　端的に言って、興味がないという風だった。

　これを受けて鹿野はうっすらと笑みを浮かべる。気持ちのやり場がどうしようもなくなった人間の表情だった。

　北熊谷が、軽く肘曲げた両腕を突き出した姿勢のまま右足を躙（にじ）るように進める。

　間合いを詰める意図に対し鹿野の意図も合流した。

　ボッ、

　と、

　空気を撃ち抜くような音がする。

　ヘビー級。決して軽くないはずのその巨躯が。

　身を低く縮めたダッキングからのダッシュで、異様なほど素早く室内に駆け戻る音だった。

　天を衝く鹿野の長身から生み出される絶大なリーチが、北熊谷を射程に捉える。

　二十センチ近い身長差は間合いの差として現れ、鹿野のフリッカージャブが下から跳ね上がるように北熊谷の顔を襲おうと牙を剥いた。

「シッ」

　鋭い吐息ひとつ。

　突き出していた北熊谷の両腕が動く。

　右前腕でフリッカーの左手首を上から押さえた。擦り下げるように相手の前腕の上を滑らせ、小さく内側へ弧を描くように内から外へいなしていく。

　同時に、左腕が前方へ向かっている。左右の連携、夫婦手（めおとで）。

　肘から先を鉈と成して振り下ろすような、叩きつける掌だった。

　それは間合いを詰める左足の前進と同時であった。

　着地と同時に押し込んだ掌底が、顎から胸をガードしていた鹿野の右腕に重みをかける。

　ぐっ、と固まる一瞬があった。

　硬直の解除と共に、鹿野が後ろへ跳ね飛ばされる。

「重テェ……！」

「当然だ」

　構えは左前になったのみで、同じく両掌を前に掲げた姿勢で北熊谷が言う。

　前進に際しての体重移動により、ウエイトだけなら鹿野と大差ないであろう太い体の重量を、すべて押し込む突きだった。

「ダガ……パリィは出来タ。イケるゼ、カラテ野郎」

　フッフッと息を吐き、右腕を軽く回す鹿野。先と同じデトロイトスタイルに戻り、左前になった北熊谷を見やる。

　ボクサーと相対する空手家は、己の突きの威力をいなした相手を見てほう、と声を上げた。

「身のしなやかさと反応の速さで避けたか。やりおるわ」

　少しだけ、認めたと見えた。

　鹿野が獰猛な笑みをたたえる。

　再びの、ダッシュ。

　左腕もガードを上げた。そのまま鹿野は真正面へ突っ込むと見せて――北熊谷の左側、先ほど踏み出した足の外へと曲がりくねるように潜り込む。

「ぬ」

　北熊谷が左掌を突き出す。拇子拳。五指のうち親指だけを曲げておき、その関節で急所を抉る手。

　鹿野が潜り込む一瞬、下がったガードからのぞかせた顔面を狙っての攻めだった。

　自身の外へと移動していく鹿野を捕まえるように、外側から弧を描き相手の突進力を加算するような一打――

　それが、ギリギリで右肩に阻まれた。

　顎先を守るべく上げた肩に衝突する。

　この横からの衝撃を利して、鹿野は潜り込もうとした左側から北熊谷の真正面に己の身を戻す。

　ぎゅっと縮めた身体から繰り出されるショートアッパーが北熊谷の顎を狙っていた。

　絶妙のタイミング。北熊谷の右、夫婦手は間に合わない。

　ならばと身を大きく逸らした。

　けれどそこまでが鹿野の策略だった。

「堕ちナ」

　がくん、と身を逸らすのみならずのけ反る北熊谷。

　姿勢が傾いで、浮いた。

　鹿野の右足が、北熊谷の左足の後ろで粘り強く床を噛んだままだったのだ。

　上体の重心移動の際にここに引っかかるかたちとなり、北熊谷の身体は後ろに転がっていく。

　おそるべきは、足を残しながらも身体の動きにそれをほとんど匂わせなかった鹿野だ。

　ショートアッパーを中断した彼は、倒れ行く北熊谷の顔面めがけて、上体をねじって溜めていた右を狙いすます。

　圧倒的なリーチのストレートは、倒れ遠ざかる北熊谷の禿頭へ槍のごとく伸びた。

「くっ」

　北熊谷、右掌を掲げて壁と成す。

　しかし壁ごと撃ち抜かれ、太い体が宙を舞った。

　ごどんと背中から落ちて重たい音を立て、後転して立ち上がる。

　殴られた顔はわずかに赤くなっていた。

　北熊谷の手が、掌ではなく、五指を揃えた貫手のかたちをとる。興味のなさそうだった表情が研ぎ澄まされ、感情が欠落し、目が据わっていく。

　出していた左足の膝から力を抜き、北熊谷が前に出た。

　鹿野が不敵に笑んで受けて立とうとする。

　二人の距離が縮まり、

　拳と貫手が交差し、

「そこまでです」

　まさに接するか否かのタイミングで、入間が声と共になにかを投げてきた。

　動きが止まる。

　ごろりとアップルグレネードが二人の間に転がった。

「――ッ、」

　Ｍ６７の爆発までのリミットはレバーを離してから五秒だ。息を呑む空気が伝わってきた。

　しかし、よく見れば。

　安全ピンは戻した状態であった。脅しのために、投げてきたのだ。

　だとしてもまともな神経をしているとは思えない行動だ。文庫本を閉じてにっこりとしていた入間は、すたすたと近づいてきて手榴弾を拾い上げる。

「軽いお試し程度なら見逃そうと思ってましたが、そろそろヒートアップして殺し合いに発展しそうだったもので。お二方、やるのであればそれは明日がよろしいでしょう」

「……イルマ。テメエ」

「なかなか面白かったです。明日が楽しみですね」

　では、と入間は手榴弾をポケットにしまい、広間をあとにした。

「……あのひと発言がもう主催者寄りっていうか、主催者のものじゃない？」

「そう感じられなくもないわね」

　木守が横の兎卯子に耳打ちすると、彼女は気の無い感じに返してきた。

　水入りとなってまた興が乗らなくなったか、貫手を緩めて北熊谷はジャケットの襟を正した。「明日だな」とぼやいて彼も広間をあとにする。

　残された鹿野はしばらくの間立ち尽くしていたが、やがて苛立ちが限界に達したのか拳を振り上げ、壁を殴りつけた。

　巨（おお）きな拳のかたちそのままに壁は陥没し、血すら滲ませずに鹿野も歩き去る。

　纐纈は一部始終を眺めてため息をつき、ソファに座り込んだ。

　鯨井はマイペースに、まだスマホを眺めていた。

　面倒な空気になってきたな、と木守は頬を掻く。