第五幕

16話

 時間とは、誰かが何もしなくても平等に進む。目には見えない概念であっても、生きとし生ける者はすべて時間に支配されている。

 時間とは、この世で唯一無二の特別な歯車だ。何人なんぴとからの干渉は決して許さず、それでいて全てに絶大かつ無慈悲な影響を与える。


 白木学院大学。全国でも有名私大である通称白学しろがくの学生会館に、赤井帆信あかいほのぶは毎週水曜日に清掃アルバイトとして勤務していた。

 業務内容としては朝と夕方の2回、4階建ての学生会館の随所に設置されたゴミ箱の中身を回収して廻る。他には特に無い。強いて挙げるとすれば、学生たちからの苦情のをするくらい。拘束時間は長くとも、実労働時間は短い。それでいて時給も良かった。


 帆信がこの清掃バイトに応募した理由は、彼が浪人生であったから。現在、同じ大学を2度も失敗している。1度目は許された。親の金で予備校に通えた。だが、2度目は許されなかった。予備校費を自分で稼ぐために、帆信はこのバイトを始めたのだ。


 勉学の時間が必要な彼にとって、この清掃バイトはまさに好都合だった。結果として、今でもバイトを続けてなんとか予備校にも通えている。

 しかし、ひとつの落とし穴があった。彼の派遣先である白学は、彼が2度も失敗した志望校なのだ。

 絶望にふさわしいこの落とし穴は、底が無い。何しろ、彼は毎週水曜日になると、見たくもない学生たちの浮かれた笑顔を見なければならなかった。運命のイタズラだ。もしかしたら、自分もあの学生たちに迷ってキャンパスライフを謳歌していたかもしれない、と考えなかった日はなかった。学生たちが憎かった。彼らは主人公で、自分は裏方だ。学生たちが有意義な時間を過ごせるよう、帆信はさっせと汗をかく。


 そんな魔の水曜日の落とし穴の中で、帆信は叫ぶ。誰も振り向かない悲鳴。彼は、コーヒーを溢すといった学生たちへのイタズラを始めたのだ。


 廊下やトイレ、更衣室に。ポスターが貼ってある掲示板に。時には、大切な機材室に。

 被害にあった学生たちは、揃って顔をゆがめた。帆信にはその顔が何よりも好物だった。しかし、時間が経つに連れて、このイタズラも虚しくなってくる。ひとりぼっちの帆信とは違い、学生たちには青春を共有する仲間が居た。自分のイタズラさえ、学生たちにとっては単なるスパイスに過ぎない。

 簡単に言えば、自分は学生たちのための小さな歯車だということに、帆信は気付いたのだ。それも、あっても無くても困らない代物。替えの効く代用品。


 そんな時だった。白学に合格するため、という大義名分さえ見失いかけていた彼の手を引っ張り、奈落の落とし穴から救い出してくれる天使が現れた。

 彼女は奥原おくばる稀乃まれのと名乗った。ライダースジャケットを羽織った金髪の女学生。白く透明感のある玉肌に、キツイ印象のある釣り目と幼さも感じさせる桃色の小ぶりな唇。華奢な手足には似つかない豊かな胸元。


――いよいよ、今日ね


 水曜日の昼過ぎ。学生会館のとある喫煙所で、帆信と稀乃は向かい合ってパイプ椅子に座っていた。太陽は頭の真上にあるが、トタン屋根が2人に影を落としている。

 稀乃はKOOLのメンソールに火を着けた。いつの日か帆信が渡してやった紫色のライターを使って。


「あいつのギターケースにメモは入れた?」

「うん。黄緑色のメタリカのシールが貼ってあるやつに」

「スタンガンは?」

「ちゃんと持ってきたよ。実は試し打ちもしてみたんだ。今は待合室にある俺のカバンの中さ」


 計画の最終打ち合わせ。歯車はもう廻した。稀乃にストーカーしているピアス野郎を拉致するための。あとは、午後6時に駐車場の管理室に呼び出したピアス野郎をスタンガンで気絶させるだけ。どこか遠くから、ひぐらしの鳴き声が聞こえた気がした。


――車は?

「今日親は留守だから、こないだの車に乗ってきたよ」

――気絶させた後はどうする? 何処に持っていく?

「そう言うと思って、ちゃんと下調べしてたんだ。白学の裏山を越えた先に海岸があるだろ? 波が高くて海水浴も出来ないところ。あそこに古くなった小屋があるんだ」

――そこに置き去りにするのね

「ああ。漁業用の小屋らしいんだけど、今は無人だ。もう何年も乗ってないボロ船もある。寄り付くとすれば、酔狂なサーファーくらいだよ」

――あいつを縛るロープは?

「守衛室を探してみたけど、やっぱりあったよ。登山用のしっかりしたやつ。山岳部の忘れ物さ」


 夏休み前の、春学期最終週の水曜日。期末考査やらレポート課題やらでいつもより学生の数も少なかったが、時たま煙草を吸おうと数人の学生がやってきた。が、彼らは帆信を見るなりそそくさと逃げ去っていった。


 それを見て、帆信は稀乃と笑いあった。


「俺、そんなに怖い顔してたかな?」

「ううん、すごく良い顔してるよ」


 夏の真っ白な日差しの中、喫煙所の影に隠れて見つめ合う2人は、きっと浮いているのだろう。


 白学の毎週水曜日。帆信が廻した破滅への歯車は、めりめりとぎこちない音を立てて回転している。


 稀乃が笑った。可憐で美しい笑みだった。

 帆信も笑った。獰猛どうもうで醜い笑みだった。


「良き水曜日ですね」


 さぁ始めよう――白学という大舞台の最終章だ!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る