10話

 イタズラを終えて講義がある稀乃と別れた帆信は、鼻歌混じりに待合室へと戻った。


 受付には例のガードマンがすでに戻っており、彼は帆信を見かけるなり、慌てたように声を掛けてきた。


「赤井君! 桃口杏子居なかったけど、本当に見たの?」

「ええ、本当に見ましたよ。こないだ見せてくれた雑誌のアイドルでしょ? あ、でも……マスクしていたからただ似ているだけなのかも」


 そこまで言うと、ガードマンは大人しく肩を落としてみせた。


「あれ? ここに機材室の鍵が落ちてますよ」


 帆信は白々しく、ポケットに隠していた鍵をあたかも今拾ったような口調でガードマンに渡してやった。


「あ……ありがとう」


 ガードマンはまだ落ち込んでいるのか、力なく鍵を受けとると、元々あった場所に戻した。


 なんて簡単なんだ。これなら、どこの鍵でも盗み放題だじゃないか。帆信はガードマンを尻目に待合室のドアを開けた。


「ちょっと待って」


 咄嗟に、ガードマンに呼び止められて振り向くと、彼は先ほど戻した機材室の鍵をじっと見つめていた。


「はい?」

「どうして機材室の鍵だって分かったの?」


 思わず背筋が凍った。受付で保管している部室やスタジオの鍵には、すべて番号のみが振られているだけだった。部屋の名前は書かれておらず、それは機材室の鍵も同じだ。学生たちが鍵を受けとるには、学生証を提示して、自身が所属するサークル名や使用する部屋の名前を告げなければならない。そうして、ガードマンは手元にある一覧表と照らし合わせて、番号順に並んだ鍵の中から割り当てられた部屋の鍵を学生に渡すのだ。


 しまった――

 帆信は頭の中まで凍てつく前に急いで理由を探す。


「あ、ああ……こないだ、機材室の鍵を借りている学生をたまたま見かけまして。その時のガードマンさんが、番号を呟きながら鍵を探していたことを思いだしたんです」


 壁掛けのキーホルダーには無数の鍵がずらりと並んでいる。確かに、この中から該当の鍵を探すには、多少の慣れが必要だろう。

 ガードマンもその苦し紛れの理由に納得したのか、「そっか」とだけ呟いて、それ以上は言及してこなかった。


 待合室のドアを閉め、帆信は自分の心臓の音を聞いた。強く、激しい。なかなか収まってくれない。額に汗が滲み、頬を伝って畳の上に落ちる。部屋の外からは、学生たちの呑気な笑い声が聞こえてきた。


 自分の鼓動と対峙するだけで息が上がってくる。

 ヤバい、やばい、ヤバイ、やばイ――


 手が震えている。それを見て、焦る気持ちはさらに加速していく。

 とりあえず、落ち着かなくては――

 

 そうして、帆信は次から次へと沸いてくる汗を拭ってから、ひどく重たい足をひきずっていつもの喫煙所へと向かった。


 その道中、うつむいて歩いてせいか、廊下の端っこに落ちている紫色のライターを見つけた。拾ってみると、それはいつしか稀乃に挙げたライターだと、帆信はすぐに気が付いた。


 落としたのかしら? 横車にはサビもあった。いつ落としたのか。あとで届けてやろうとポケットに仕舞った時に、帆信の脳裏に妙案が浮かぶ。


 そうか! もし、万が一疑われても、稀乃にアリバイを作ってもらえば良いんだ。


 機材室が誰かに侵入された時。自分が待合室から離れていた時に、自分はキャンパスのどこかで掃除をしていた。それを稀乃が見かけていたと証言してくれれば、立派なアリバイが成り立つ。


 フワリと、心が軽くなった気がした。自然と体も。気休め程度のこのアリバイ工作でも、今の帆信にとっては充分すぎるものだった。


 いつもの喫煙所には、先客の学生たちもちらほら居た。帆信は喫煙所の片隅に寄ると、先ほど拾ったライターで――横車のサビのせいで何度かカラ打ちになったが――煙草に火を着けた。


 喫煙所には、夏の爽やかな日が射していた。真っ白な光の中に、紫煙が溶けていく。軽くなった心のおかげで、暑い夏の陽気が平和に思えた。

 もっと慎重になろう。ガードマンのあの言葉を思い出すだけで、冷や汗が滲んだ。


 そんなことを考えながら漂う煙をしばらく眺めていると、講義中のはずの稀乃が、喫煙所に突然やってきた。ライダースジャケットを脱いだのか、若干スモールサイズの白Tシャツが彼女のボディラインを強調している。


 帆信は、喫煙所の隅っこから稀乃の近くに寄るった。


「これ、落とした? さっきそこの廊下で拾ったんだけれど」


 だが、稀乃はすでに違うライターで煙草を吸っていた。彼女は帆信が差し出した紫色のライターを一瞥しただけで、何も言わず無視した。


 この時間帯では珍しく、学生たちの往来があった。学期末考査を控え、早めに切り上げる講義が多いのだろう。帆信は彼女が自分を無視するのは、他の学生に見られたら不味まずいからと考えた。それに、今は喫煙所にも他の学生がいる。


 もっと慎重になろうと決めたところなのにと、帆信は自分を悔いてみせた。


 しかしその後、稀乃はまだ長い煙草を灰皿に落とすと、往来する学生たちの中にいた見知らぬ男のもとに笑顔で駆け寄ったではないか。


「やっほー! テスト終わったの?」


 いつもとは違う彼女の笑顔が、帆信の視界に焦げ付く。なんだか声の雰囲気も違って聞こえた。その男は前髪が目にかかるくらい長く、彼も金髪だった。片耳にはピアスリングも見える。2人は仲良さそうに話しながら、そのまま学生会館の奥へと消えていった。


 帆信は、2人が見えなくなった後も、しばらく呆然と眺めていた。持っていた煙草から灰が落ちる。指先寸でのところまで燃えていた。


 誰だ? あいつは……

 帆信の心に分厚い雲がかかる。彼の今日の心の天気は慌ただしい。イタズラがバレたかというスコールがようやく通り過ぎた矢先のこと。


 まさか彼氏? いや、稀乃によってはそんなことは無いはず。いつしか喫茶メビウスで聞いた彼女の言葉がリフレインする。

――私も嫌気がさしてたの

 きっとただの友人、いやクラスメイトに違いない。万一、あんなした奴は稀乃には似合わない。


 様々な憶測が彼の頭を駆け回り、心に掛かった分厚い雲は、やがては雷鳴を伴う土砂降りになっていた。

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