第三幕

9話

 春学期の最終講義が近づく初夏の、とある水曜日。白木しらき学院大学――通称「白学」の学生会館も、レポート課題や学期末考査の追い込みのせいで慌ただしい。


 ほとんどの学生たちが目の下にクマを拵え、キャンパス間の人通りの少ない路地には、昨年度考査の過去問を売る輩もいた。


 赤井あかい帆信ほのぶも、学生たちに混じって朝から浮き足だっていた。清掃アルバイターである彼は、早いうちに学生会館のゴミを回収し、喫煙所で彼女を待っていた。


 先週あたりから蝉の声も聞こえ始めた。梅雨が明け、世間はいよいよ夏。太陽がアスファルトを真っ白に照らし、対照的に影は濃くなる。背中に汗が滲む。帆信は、まだ長い2本目の煙草を早々に灰皿に落とすと、すぐさま3本目を取り出した。

 その時だった。


「おまたせ」


 振り向くと彼女が立っていた。

 金髪に白く透明感のある肌。透き通った声。奥原おくばる稀乃まれのは、今日も白いTシャツにライダースジャケットを羽織っている。手にはコーヒーが入った紙コップを2つ持っていた。


「鍵は?」

「ちゃんと持ってきたよ」


 ポケットから取り出して見せてやると、稀乃は美しく笑った。


「どうやったの?」

「簡単だよ。毎週水曜日のガードマンってアイドルオタクでさ。そいつが好きなアイドルを近くで見かけたって言ったら、すぐ飛んで行ったんだ」


 稀乃は、また嬉しそうに笑った。


「稀乃も、煙草吸ってからいく?」

「ううん、もう行こうよ」

「OK」


 そうして2人は学生会館のとある倉庫へ向かった。先週の水曜日。喫茶メビウスで計画した通り、今日の《イタズラ》の対象は映画研究会の機材室だ。

 くすねた鍵でドアを開けると、三畳ほどのスペースにところ狭しと色々な機材が置いてあった。


「誰も見てないよね?」

「うん、この時間は学生が少ないから」


 ドアを閉まると、中は真っ暗になった。映画研究会は、学生会館の中でもひときわうるさい連中だった。部室からは四六時中笑い声が漏れ、撮影と銘打って通路やキャンパス内を我が物顔で占領する。そんな彼らの顔が、暗闇の中で浮かび上がる。


「どれにコーヒーをかけるの?」


 稀乃の声が耳元で聞こえてきた。透き通った綺麗なその声には、意地の悪い色も混じっている。


 暗闇にも少しだけ目が慣れてきた。帆信は、テープやDVDが詰まったボックス籠に手を伸ばす。

 おそらく、過去の作品や映像データが記録されているのだろう。それらのひとつひとつには作品名や日付、整理用の番号が丁寧に書かれていた。


――BIWAKO BOYS

 ふん! つまらなさそうなタイトルだ。


「これにしようぜ」

「カメラにしないの? 高価だし、映画と言えばカメラじゃない?」

「いくら高いと言っても、カメラは金で買えるだろ? でも、こいつらは金では買えないなんだよ。映研の連中が汗水掻いて必死に撮影した、いわば宝物だ。そっちの方が苦痛だと思うぜ」

「なるほどね……」


 稀乃の顔を見ると、笑っていた。「名案だね」と言わんばかりに。


「それに、映研の連中にとっては大切な勲章なのかもしれないけれど、我が儘で身勝手な撮影に迷惑している奴らもいる。だからこのイタズラは、俺だけじゃなく撮影被害者を代表した仕返しなのさ」

「俺だけじゃなく、でしょう?」


 稀乃が笑顔のまま、帆信の肩を叩いた。彼はそれが嬉しく思えた。そうだ、今の俺はひとりじゃない。そうして、帆信はテープやDVDをひとつひとつケースから取り出すと、稀乃からコーヒーが入った紙コップを受けとった。


 ざまあ見ろ!


 無慈悲にこぼされたコーヒーは、映研の結晶を破壊した。たっぷりと、紙コップ2つ分のコーヒーが掛けられた映画データたち。きっと修復は不可能だろう。帆信は、これを見た映研の連中の絶望した顔を想像して、思わず笑みを漏らしてしまった。


 稀乃も笑っている。白い頬をピンク色に染めて。そして2人は顔を見合せて、例の言葉を口に出す。


「良き、水曜日ですね」

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