8話

 人は社会の歯車なのだろうか――

 見知らぬ誰かの為に働き、自分も見知らぬ誰かによって支えられている。歯車と歯車が噛み合えば円滑に廻り続ける。それは家族、社会、そして世界へと広がっていく。

 歯車が噛み合わなくなれば衝突や争いが起き、ひとつ欠ければ他の歯車へが来る。歯車を大きくしたり、増やしたり、と。

 人はひとりでは生きていけない。密と疎を問わず、絶えず関わり、意図せぬところで影響を与えて、また与えられているのだ。


「今日も始めましょう」


 カチリ、カチリ――と素朴な音を立てていた帆信の歯車は、その日から狂い始めた。組織化されたスペースに、突如現れた小さな黄金の歯車のせいで、壊れかけていた帆信の歯車が加速していく。


 毎週水曜日――帆信が志望校であった白学での清掃バイトの日。彼が朝のゴミ回収を終えて喫煙所で煙草を吸っていると、そこが待ち合わせ場所のように稀乃はやってくる。


 そして、「コーヒー溢し」のイタズラを稀乃と共に行う。

――君のイタズラに、私も加担したいの。


 なぜ、稀乃は帆信のイタズラをバラす訳でもなく加担したいのか。彼女の台詞セリフの真意は分からない。だが、帆信の心は晴れやかだった。理由は二の次。共感し、イタズラを共有したいと思っていた矢先の彼女との出会いに、断る理由なんて無い。


 それに、彼女のおかげでバリエーションも増えた。男である自分が入れなかった女子トイレや更衣室にも範囲が広がる。女性の悲鳴は特に心地良い。コーヒーのシミが広がったワンピースを片手に、涙目で受付のドアをノックする姿を見た時には、帆信はつい笑みを漏らしてしまった。


 バイト後――水曜日の放課後には、彼女と喫茶メビウスでコーヒーを飲むことも恒例となった。その日行ったイタズラの感想を言ったり、次のイタズラの計画を立てたり。


「お疲れ様。今日もスゴかったね」


 メビウスには、決まって稀乃が先にいた。いつも同じ、店奥のボックス席。


「そうだね。おばちゃん、俺アイスコーヒー」


 例の無愛想なおばちゃん店員も、彼の来店には慣れていて、すぐにアイスコーヒーと新しい灰皿を持ってきてくれた。


「あれ、どうだった? 昼休みにした女子更衣室のイタズラ。私、講義があったから見れなかったんだ」

「あれね……被害にあった子が受付の窓を怒涛の勢いで叩いてさ。しかも泣きながら」


 それを聞いて、稀乃は満足そうにクスクスと笑った。イタズラは彼女と2人で行うが、被害者の反応を見れるのは基本的には帆信ひとりだけ。だからこうして、喫茶店ここで彼女に教えてやるのだ。


「来週はどうしようか? 私、映画研究会に仕掛けたいのよね」

「本当に!? 実は俺も同じ事を考えてたんだ。あいつら、映画研究会と謳ってるくせに、部室でゲームやったりギターを弾いたり馬鹿騒ぎしてうるさいから、そろそろ泣き顔が見たいと思ってたんだ」

「なら、彼らの機材にイタズラするのはどうかしら?」


 映画研究会には部室の他に、カメラや照明を保管する機材スペースが別途与えられていた。帆信が守衛室にいる間、映画研究会の連中がその機材スペースの鍵を貰っているところを何度か見かけたことがあった。


「いいね。鍵は、俺がなんとかして受付から持ち出すよ」


 稀乃は「なら、これは決定ね」と笑ってみせた。彼女と目が合う。美しい彼女の笑顔は、帆信の心を踊らせた。今日も金髪が良く似合っている。


 ああ、水曜日が待ち遠しい。

 帆信にとって、かつては魔の水曜日だったはずか、今では恋しく思えて仕方がない。イタズラを稀乃と共有し、共感する。メビウスで彼女と語り合う時間いまが、帆信にとってなによりも幸せな時間ときだった。


 アイスコーヒーを飲み干し、そろそろ店を出る雰囲気になった。彼女も自分のKOOLのメンソールを鞄に片付けている。帆信があげた紫色のライターと一緒に。


「今更、なんだけどさ……」


 そのライターを見て、帆信は煙草の煙を深く吐いてから、彼女にこう聞いてみた。


「稀乃は、どうしてイタズラをするの?」


 言ってから不味いと思った。まるで夢物語のようなこの現実を帆信はつついてみたくなったのだ。しかし、彼女はたっぷり時間をかけて煙草の火を消すと、儚さを隠した表情かおで、ゆっくりと答えてくれた。


「私嫌気がさしてた。思っていキャンパスライフと違って、みんな幼稚で。白学っていわゆる名門じゃない? 必死に勉強して、やっとの思いで合格できたのに、いざ入学すると周りは昔流行ったテレビゲームだとか、くだらない映画だとかで笑いあっている。そんなの見るとさ、高校生活が無駄な気がして、色々犠牲にした自分が馬鹿みたいに思えてきたのよ」


 そこで君を見かけたの――

 稀乃は美しい笑みを浮かべて見つめてきた。帆信はつい目を背けてしまう。


「救世主だったのよ、君は。くだらないキャンパスライフから私を解き放ってくれた、ね」


 目を背けた先――机の下には、稀乃の白くて細い脚が伸びていた。彼女と出会ってから、その整った顔に透き通った声、そして白く綺麗な肌を忘れたことは、一度もなかった。稀乃の顔に視線を戻す際に、ぶつかる2つの膨らみは、帆信の頭の中を瞬く間にバラ色にする。


「俺たちが違った形で出会っていたなら、もっと面白い方向に歯車は廻っていたかもしれないね」

「あら? 君はもうただの歯車じゃないよ」


 稀乃は両手で頬杖をついて、こちらに顔を近づける。拍子に、薄いTシャツの胸元から華奢な身体には似合わない豊かなそれらのあらわになった。


「君は、この白学には欠かせない立派な主役なのよ」


 そして今日という1日を、2人は決まってこう締め括る。


「良き、水曜日ですね」

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