7話
バイトが終わり、帆信は彼女に指定された喫茶店メビウスへ時間通りに向かった。
今時珍しくなった煉瓦造りのレトロな純喫茶だ。天井が低く薄暗い店内。鰻の寝床のように奥へと細長く続いており、煙草をふかし、大きな声で演劇の話をしている学生たちのグループがいた。他にも数名の客がいたが、どれも白学の学生らしい。分厚い洋書を読んでいる者や、ボックス席を1人で陣取ってレポートを仕上げている者。
その中に、彼女の姿を見つけた。彼女も帆信に気付いたのか、奥の席からこちらに手を上げてくれている。
学生御用達の喫茶店。演劇グループの1人と目が合った。帆信は作業着姿の自分がひどく場違いな気がして、小走りで彼女が座る席へと向かった。
「ちゃんと来てくれたね」
「え? うん」
無愛想な店員のおばちゃんが、どこか他所他所しく水と一緒に注文と取りに来た。
「えっと、アイスコーヒーを」
「はい、アイスコーヒーを1つね」
目の前に座る彼女は、机の上に置いてあるKOOLのメンソールの箱から煙草を1本取り出すと、手慣れたように火を着ける。帆信も自分のアメスピに火を着けたのだが、灰皿が無いことに気がついて、さっきのおばちゃん店員に灰皿も頼んだ。
しばらくして、アイスコーヒーと一緒に灰皿を持ってきてくれた。やはり、おばちゃん店員はどこか他所他所しく、帆信にチラチラと視線を投げてくる。
作業着姿の自分がそんなに珍しいのか、それとも常連ではない新規客特有の不信感なのか。どちらにせよ、帆信はただでさえ緊張していた。
場違いな喫茶店に呼び出されたこと。イタズラがバレてしまったこと。彼女は得体の知れない笑顔でこちらを見つめるばかり。金髪で、透き通った白い肌。少々キツイ印象もあるつり目だけれど、唇は小さく桃色で幼さも感じられる。有り体に言えば、彼女はドの付く美人だった。
「どうして呼び出したんスか?」
運ばれてきたアイスコーヒーを半分くらいまで一気に飲んでから、帆信はそう聞いた。
「そう焦らないでよ。私は
稀乃と名乗った彼女は、決してその微笑みを崩さなかった。意地悪な瞳の奥に何が隠されているのか。帆信とは対称的に、彼女はまだアイスコーヒーをひと口も飲んでいない。
「お、俺は赤井帆信……です。漢字は、普通の色の赤に井戸の井で、帆信は――」
「知ってる。船の帆に信じる、でしょ?」
「え?」
「ほら、それ」
稀乃に指されたの胸元を見ると、帆信は「あっ」と声を出した。そこには、清掃バイト用のネームプレートが付きっぱなしだつた。
律儀に名乗り返したことが恥ずかしくなって、帆信は頭を掻く。今日に限って外し忘れるとは……それにしても、良く気付かれたな。ネームプレートは名刺よりも小さく、そこに書かれた名前となると尚更だ。よほど目が良いのだろうか。
「哲学科の2回生って言いましたよね?」
「ええ。それが?」
「となると、今年で20歳ッスね」
稀乃は、初めて罰が悪い顔をした。そして、テーブルの上にあったクールのボックスから新しい煙草を取り出して火を着けた。ライターは、昼間渡してやった紫色のものだ。
「そうだけど……どうして? 私、先月が誕生日だったの。煙草はちゃんと20歳から吸ってるから」
稀乃が吐いた煙が、薄暗い店内に溶けていく。帆信も短くなった煙草の最後のひと口を堪能すると、灰皿で火種を丁寧に消した。
「じゃあ、俺と同じ歳ッスね。それに――」
言葉が詰まった。「俺が志望する学科と同じ哲学科」とは言えなかった。
「それに? 何?」
「いえ、何でもないッス。勘違い」
「ふぅん」
稀乃は例の意地悪な笑みのまま、頬杖をついてみせた。
帆信は、2度も白学の受験に失敗している。どちらも志望学科は哲学科だ。自分がストレートで合格していたのであれば、もしかしたら稀乃と同じ教室で同じ講義を受けていたのかもしれない、と考えてみた。だが、それは今の自分にとって、ひどく残酷な妄想だと気付いたのだ。
「それで? どうして俺を
アイスコーヒーを飲み干すと、カランと氷が鳴った。
稀乃は頬杖をついたまま、大きく口元に笑みを作った。
イタズラがバレた。彼女はそのことを誰に言うでもなく、わざわざ犯人である自分を呼び出した。何が目的なのか。もしかしたら、口封じのための金銭を要求されるのかもしれない。
そうして、少しばかりの沈黙の後、稀乃はようやく口を開いた。
「君のイタズラに、私も加担したいの」
再び、空になった帆信のアイスコーヒーがカランと鳴った。
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