第四幕

13話

 その水曜日の夜。帆信は眠れなかった。


 久方ぶりの不眠だ。予備校費を賄うため、2度も受験に失敗した志望校である白木しらき学院大学に、清掃のバイトとして毎週水曜日に派遣された当初のような寝苦しい夜。学生たちへの嫌がらせ――コーヒー溢しのイタズラを初めてから改善されたはずなのに、今宵はまるで悪魔たちが枕元で頭を揺すっているように、一向に睡魔は訪れない。


 暗い自室のベッドで横たわりながら、目を開けたまま、時たま通りすぎる車と規則正しい時計の針の音を聞く。


 毎週の水曜日。奥原おくばる稀乃まれの。彼女との出会いも、帆信にとって大きな転機だった。イタズラを共有し、共感できる仲間。彼女もまた、キャンパスライフに幻滅し、帆信と同じく他の学生たちの幼稚な言動に嫌気を抱いていたのだ。


「どうすれば良い?」


――あの男を拉致したい

 稀乃のその言葉を、もう何10回も頭の中をリフレインしていた。本当は答えなんてとっくに出ているのに。今までは廊下や更衣室、イベントや学生新聞が貼られた掲示板に、ただただコーヒーを溢すというイタズラを行ってきた。絶妙な線引きだ。学生たちは聖域を汚され、時には涙を浮かべて訴えてくる。その顔を見ることが、帆信の安眠に繋がった。小さなコーヒー溢しのイタズラ。学生たちも翌週にはケロリとしている。だが、今回の稀乃の提案は、この線引きを大きくものだ。


 あの時の稀乃の顔は、真剣だった。

 イタズラを始めたのも、ほんの出来心だった。コーヒーを溢して、キャンパスライフを謳歌する学生たちが慌てふためくのを眺める。それでも、彼らはそのイタズラを単なる出来事としてしか見ていないことに、赤井も気がついていた。


 壁に張ったアイドルのポスターと目が合う。とっくに暗闇に目が慣れていた。


――あなたは単なる歯車よ

 そうだ、俺のイタズラは学生たちのキャンパスライフにスパイスを与える、ただの歯車だ。

――裏方なんて嫌でしょう? あなただけの人生よ? スポットライトに照らされて、みんなから声援を浴びて、主人公になりたいんじゃないの? 本当はあなたも舞台に立ちたかった。だからイタズラをしたんじゃないの? 学生たちと一緒の舞台に立ちたかったんじゃないの?


「うるさいっ!」


 暑苦しい初夏の熱帯夜。帆信は逃げるように、頭まで布団を被った。それでも、内なるは囁き続ける。


――この時代、誰でも簡単に有名になれるの。主人公になれるのよ? 誰かのための歯車のままで良いの?

 俺は歯車なんかじゃない。

――そう。君は単なる歯車じゃない。イタズラなんてどうってことないわ。映研のカメラだって、滅茶苦茶にしたじゃない。歯車はもう廻りはじめてるのよ。


 帆信はベッドから抜け出した。それから窓の網戸を開けて顔を出す。雲に覆われた月が見えた。満月だ。分厚い雲を通り越して、青白くも力強い月光は、彼の顔を雄大に照らした。


「俺はただの歯車じゃない。俺の歯車が中心なんだ」

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