12話

 今日の放課後は、珍しく帆信が先に喫茶メビウスに来ていた。


 注文を取りにきた無愛想なおばちゃん店員には、「後から連れが来るから」と灰皿だけを貰った。早く稀乃に会いたい。夕方のゴミ回収を前倒して、半時間ほど早くバイトを上がったのだ。ピアス野郎とのについて確証が欲しい。


 願望にも近い嘆きだった。神様が居るならぜひ聞いてほしい。たった1秒でも隙間時間があれば、2人の仲良さげな顔が浮かんでくる。浮かんできては、信じがたい妄想をして、自らの心を万力で締め付けてしまう。このままでは頭がおかしくなる。


 そうして、灰皿に2本の吸殻が横たわった時、つきに稀乃はやってきてくれた。喫煙所で見かけた時と同じボディラインが分かる白Tシャツを着て、幼くも美しい笑顔の彼女が。


「今日はごめんなさい。喫煙所で無視してしまって」


 他の学生たちに見られたら不味いと思って、と稀乃は付け加えた。


「もし私と君が顔見知りだと分かったら、アリバイ工作も難しいでしょ?」


 うむ、やはりそうか。彼女の言葉を聞いて、帆信の心は徐々に晴れていったが、心臓の鼓動はまだ収まらない。肝心なのは、例のピアス野郎について、だ。


「あの男はだれ?」

「あの男?」

「喫煙所で会った時に話していた奴だよ。片耳にピアスをしたチャラチャラした男」

「ああ、あいつね……」


 稀乃は勿体ぶるように、煙草に火を着けてひと呼吸ついた。

 鼓動がひときわうるさくなった。願望はいつしか祈りへと変わっていた。早く答えてくれ……俺が納得する答えを!


「実は……付きまとわれてるの」


 清らかで、透き通った稀乃の声。その言葉が、帆信の奥底からマグマのように沸々と生まれてくる感情を、急速に鎮火させた。


「は?」

「あいつ、哲学科の同じゼミの学生なんだけど、事あるごとに私に絡んでくるのよ」


 彼女の言葉に嘘はない。不思議とそう感じられた。だって、稀乃は心底面倒な表情かおをしていたから。


「なら、無視すれば良いじゃないか」


 喫煙所で俺を無視したみたいに、と帆信は言いかけて止めた。ようやく暴走していた自分の気持ちを客観的に見る余裕が生まれ始めたのだ。


「君は、女心を分かってないわね」


 稀乃は、今度は意地悪く笑った。


「怖いのよ。無視でもしたらエスカレートするに決まってるわ。もしかしたらストーカーになるかも。そうして自宅まで付きまとわれて、最後は強引に……。そうなると男の力には勝てないのよ。女はみんな怖いの。だから私も、必死になって距離感を保ってるんだ」

「……ごめん」


 帆信は謝ることしか出来なかった。彼女に対する複雑な感情が、今では「申し訳ない」という気持ちが強くなっていたから。


「いいの。それはそうと、さ……」


 稀乃が机に身を乗り出して顔を近づけてきた。Tシャツの胸元から、うっすらと谷間が見える。


「あの後、機材室のカメラにもイタズラしたでしょう?」


 帆信は痛いところを突かれた気持ちになった。


「どうして知ってるの?」

「話題になってる。10何万もするカメラが、1台じゃなく何台も。学生にとっては多額よ。学生支援課もようやく本腰入れて犯人を探すみたい」


 そのことは帆信の耳にも入っていた。

――今度は映研のカメラだって

――イタズラもここまで来ちゃ度が過ぎてる


 それに、バイト上がりの間際に、受付に何度か電話が掛かっていたことも。


「どうしよう? 大丈夫かな?」

「大丈夫よ。君には私がいるもの。嘘のアリバイを証明してあげるから」


 帆信はアイスコーヒーのグラスを揺すった。カランカランと氷が鳴る。


「でも、ここのおばちゃん店員に聞かれたら? 俺と稀乃の関係がバレるかも」

「あのおばちゃんなら大丈夫よ。そこまで学生たちに興味もないし。それに、私たちはいつも奥の席にいるから、他の学生たちにも気付かれないわ」


 きっと、大丈夫よ――

 稀乃の励ましは、不思議と帆信の心を軽くした。彼女の透き通った声は、まるで真水のように、心に直接染み込んでくれる。


 その時だった。メビウスのドアが開いて、例のピアス野郎が入店してきたではないか。彼は店内を一瞥し、ドア付近のボックス席に腰かけた。


「あいつだ。きっと稀乃を狙ってきたんだ」


 稀乃の方を見ると、彼女からはいつもの美しい笑みが消えていて、怯えているようだった。ピアス野郎は、席に着いた後も店内をジロジロと観察している。帆信も何度か目が合ってしまった。だが、幸いなことにピアス野郎が稀乃に気付くことはなかった。


 ほつほつと沸いてくる得体の知れない狂気。帆信の心に再び火が着いた。稀乃に付きまといやがって。稀乃に――


「ねぇ」


 背中を丸めて小さくなった稀乃に肩を叩かれた。


「何?」

「来週のイタズラのことなんだけどさ」

「イタズラ?」

「うん。今は期末考査前で学生たちも少ないでしょ? だからこそ、お願いしたいことがあるんだ」


 夏休み前。春学期の講義も最終となり、学生たちの数もうんと減っている。そんな今だからこそ敢行したいイタズラがあるのだと、稀乃は言った。


「あの男を拉致らちしよう」


 それはまるで、悪魔のような提案だった。

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