3話

 学生会館の1階には売店もあった。


 昼休みには学生たちでごった返すのだが、今の時間は静かだった。その売店を抜け、講義を受ける別キャンパスへの小道の間に、小さな喫煙スペースがあった。トタン屋根の下にはパイプ椅子が2つと灰皿が1つ。それから消火用の赤いバケツも。

 時刻は9時半を回ったところ。1限目の講義の最中だからか、喫煙所には帆信ひとりだった。彼はパイプ椅子に深くもたれかかると、煙草の煙をくぐらせた。


 春の陽気は、帆信の心にさわる。喫煙所の近くには駐輪所もあり、その脇には桜の木が立っていた。満開を終えて散る花びらたちは、優雅に舞い、どこか潔さもある。


 バイトの初日。まだ桜が満開だった頃、帆信はこの喫煙所で、舞い落ちる桜の花びらを掴まえようと躍起になっていた学生たちを思い出した。

――やった、ゲット!

――クソッ、俺だって!


 不合格通知が届いた後、大学のHPで受験番号を入力すると試験の点数が分かる。帆信は合格ラインに30点ばかり足りなかった。たったの30点。しかし、その点差の壁は高く分厚く、幼稚な学生と帆信の間を無情に裂いているのだ。


 考えたくない、そんなこと。

 宙に溶けていく煙草の煙を見ながら、そんな鬱憤も消えてしまえば良いと帆信は思った。バイトを辞めてしまえば良い。しかし、仕事内容は浪人生にとってはすこぶる有難い。頭の中の渦がどんどんと大きくなる。帆信はその葛藤に飲まれないよう、毎週水曜日はいつも闘っているのだった。


 空は快晴だった。暖かいうららかな春の陽気。講義中の静かな喫煙所。帆信はもう1本煙草に火を着け、青空に向かって大きく煙を吐いた。


 その時だった――きゃっ! と悲鳴が聞こえてきた。見ると、陸上部のランニングウェアを着た女学生がひとり。彼女の足元やシューズが濡れており、短いランニングパンツであらわになった脚にも飛沫しぶきが飛んでいた。手には小さな紙カップ。どうやら、売店で買ったコーヒーを溢したらしい。彼女は、床を拭くべきか、それとも自分のシューズが先か、とあたふたしているように見えた。


 困惑している彼女と目が合う。帆信が無視を決め込んで、3本目の煙草を取り出した時だった。大きな瞳は、今にも泣きそうになっていた。


 仕方ない。帆信はまだ長い煙草の火を消して、彼女の元へ向かった。


「床は拭いときますから」


 モップが要る。帆信は守衛室まで取りに行き、それから彼女の手や脚を拭くための新しい布巾も持ってすぐに引き返した。しかし、にはすでに陸上部の女学生はおらず、コーヒーの水溜まりだけがそのままにあった。周囲には彼女のほか、誰もいない。


 なんだよ、せっかく持ってきてやったのに――

 帆信は彼女のために持ってきた布巾を乱暴にその水溜まりに投げ入れた。真っ白な布巾がみるみる茶色くなっていった。

 4月3週目の水曜日。春の陽気は温かく、白学の学生会館には、まるでプリズムを通した爽やかな光が射していた。



 その翌週の火曜日の夜。帆信は自室のベッドで寝返りを繰り返していた。清掃のバイトを始めてから、勤務前日は決まって寝つきが悪い。魔の水曜日――派遣先である志望大学で、見たくもない学生たちの顔や、くたらない青春を謳歌する姿が脳裏によぎる。


 どうして自分は清掃のバイトなどしているのか。どうして自分は学生という役を与えられず、舞台に立てないのか。昔から勉強だけは出来た。おかげで中学、高校と、それなりのヒエラルキーも保っていた。

 なのに、今はどうだろうか。憧れのキャンパスライフではなく、ト書きもセリフもない裏方だ。それも舞台監督や照明、美術といった花形ではなく、憎き主役たちが気持ちよく演じるためのカバン持ちじゃないか。


 ベッドの隣――勉強机の上には「合格」と大きく書かれたポスターがある。受験で有名な神社から、合格祈願で貰ってきたものだ。だが帆信の頭には、かつてはそこに貼られていたアイドルの桃口杏子のポスターが浮かんでいた。


 火曜日の夜はいつもこうだ。が耳元で囁き続ける。おかげで眠ることは出来ず、気がつけば水曜日の朝を迎え、黙々と出勤の準備を始めるのだった。

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