第一章

出会い

「テツ、遅いじゃん」

 市民公園の日陰、パピコを口に含みながら、リュウは週刊マガジンのページを捲った。アイスの外側に浮かんだ水滴が、ぽたりと雑誌の再生紙に落ちた。

「ごめん」

 そう言ってリュックサック降ろす。馬鹿みたいに暑い夏の湿気が僕の肌に纏わりつく。リュウが片方のパピコを僕に渡した。さんきゅ、と言ってそれを受け取る。じりじりと焼かれる肌に、アイスの冷気が触れて鳥肌が立つ。パピコの先っぽの部分のアイスを齧ると、心地よい甘さが口の中に広がった。

「山中は?」

「親がまたヒス起こしたらしいわ。もうちょっとしたらくるやろ」

 リュウの返事にふぅんと返して、僕は上を見上げた。木々の隙間から漏れた白い光が、僕の目を焼く。

 ジーン、ジーン、と蝉の鳴き声が辺りに響いている。小説とかで、蝉の鳴き声は大抵ミーンミーンだけど、そんなん有り得ないと思う。ジーンジーン、これが蝉の鳴き方だ。聞いてるだけで熱くなって、苛々してしまう、だけど何となく懐かしい感じがする音。蝉の音と共に、目の前の大きい滑り台から、幼稚園ぐらいの女の子が滑り降りてくる。

「あっぢぃいい」

 と、大声を上げる。汗がころろころと頬の上を転がり落ち、シャツが背中に張り付く。蒸し器の中に行く方がましかもしれん、と僕は思った。手持ち無沙汰になって、リュウが呼んでいる週刊誌を覗き見する。リュウの開いているページに、僕の好きな漫画の表紙が映っていた。それ面白いよな、と言おうとすると、リュウがその漫画を飛ばし、次の漫画を読み始めた。

「え、お前、その漫画嫌いなん」

 そう言うと、リュウは器用にパピコを吸いながら返事をした。

「んー、まぁまぁ詰まらん」

「面白いやん、俺、単行本買ったで」

「単行本買う程やないなぁ。それやったら否中卓球部の方が面白いわ」

「お前ギャグ漫画しか読まんやん」

「ギャグ漫画以外は漫画と認めん」

ふとリュウが顔を上げた。僕も一緒に顔を上げる。遠くの方から、小さくなった山中の姿が見えた。

「おせーぞ!」

 と声を張り上げる。汗でびしょびしょになった山中が、ごめんごめん、と自転車を押しながら僕達に謝る。

「大丈夫だったん、お前の親」

「いやー、結構やばかった。キエーって感じでさぁ。マジでヒステリックにも程があるて。夏休みの宿題やから、って言ったら何とか離してもらえた」

 そう言いながら山中がハンカチで汗を拭く。山中は、ここらで有名などっかの貴族の末裔だか何とかで、つまりボンボンなのだ。そして山中の母はヒステリックになりがちで、常に山中を家に勉強だとかで押し込めようと躍起になっているのだった。

「ええ母さんやと思うんやけどね、本当にヒステリックなのは勘弁してほしいわ」

 肥満気味の顔をハンカチで拭くと、山中は困った様に笑った。

「お前、おっさんかよ、その拭き方」

 リュウが山中を見てけらけらと笑う。

「おっさんって言うのは見た目だけで勘弁しろって」

山中が笑う。蝉の声が、心地いい物に変わり始めた時、あ、と突然、山中が声を上げた。

「おい、あれ」

 山中が指を指す方向へ目を向ける。公園の真ん中、そこを丁度一人の女子が横切っていく所だった。女子が公園を横切る、だなんて日常茶飯事な事だ。しかし、その女子が持っている雰囲気が、日常を確実な非日常へと塗り替えていた。

「あいつ、転校生だって。夏休み終わったら俺らの学年に入るんやって。母さんが言ってた」

 山中が夢でも見ているかのような声色で、食い入る様にして彼女を見つめた。何時もだったらからかう所だが、何故か僕は何も言えず、山中と同じように彼女を見つめた。何故か、彼女を見つめなければいけない気がしたからだ。

恐らく、僕よりも身長の高いのであろう彼女は、白と黒のモダンなワンピースに身を包んでいた。それも、体にぴったりとフィットする、なんか大人っぽいやつ。そこから伸び出る足は、同級生の女子を束にしたって叶わないぐらいに長く、折れてしまうように、それでいて嫌に痩せている訳でも無い、理想的な細さを持って真っすぐに伸びていた。

髪の毛は見とれる程黒く、艶めいていて、風で髪が揺れるたびに、その香りが僕らの元まで届くような錯覚に襲われた。

そして、最も目立っていたのは彼女の美貌だった。まるで夢から醒めたかの様な美しさだった。切れ目で、大きすぎる目が、長い睫毛で覆われて、その瞳が僕を見た様な気がして、とっさに目を反らした。彼女が僕たちの視界から消えるまで、山中は馬鹿の様に彼女を見つめて居た。

「すっげー美人……」

 呆けた口から山中の声がふわふわと漏れ出る。

「俺らのクラスに入ってほしいなぁ…」

 夢見心地でまた山中が呟く。うん、と無意識の内に頷きそうになってしまって、僕は咄嗟に声を高くさせて言った。

「お前、また惚れたのかよ」

 何時もの調子で山中の背中を叩く。山中の背中に溜まった汗が手の平に吸い付き、内心うげっと顔を顰める。

「この前も、家庭教師の大学生に恋したって、騒いでたじゃん。運命の相手なんだろ。大学生はどうしたんだよ」

 そう聞くと山中は苦々しい顔をして頭を横に振った。

「あんなヤリマン・ノ―タリンは俺に相応しくない」

「え、どうしたん。あんなに好きだったのに」

「…実はな、あいつに告白したん。……この前…」

 えっと僕は声を上げた。逆ナンをされるだけ為に、態々東京にまで赴き、しかも手に入った成果は秋葉原のメイドからのティッシュしかないと言う、受け身のエキスパート・山中のする頃では無い。

「お前、頭でもいかれたん?お前よくやったな、マジで」

「失礼やなぁ。当たって砕けろって言うやん。それぐらい俺は好きだったの!」

 辺りに汗を飛び散らせながら、山中が熱く叫ぶ。

「で、振られたん」

 と、リュウ。

「いや、なんかな…振られては居ないん」

「マジか」

「振られるよりも悪いわ。なんか、もっと貴方と一緒に居たいんです、貴方の事が好きなんですって言ったらな」

 おーッ、かっけーッとリュウと僕は騒いだ。

「なんか紙くれてな……」

 ほうほう、とリュウと僕が一緒に頷く。

「こっちのコースやと、料金が倍やけどもっと一緒に居られるよ、って」

 リュウと僕が一気に空気を口に取り入れた。と、同時に大口を開けてそれを吐き出した。ぎゃひーーっと、下品な笑い声が公園に木霊する。

「なんなんッ、期待したッ、期待したわッ」

 ぶるんぶるんと肉を震わせて、山中が拳を突き出す。

「知っとったッ、振られんのは予想でき取ったわ!でもこれは無いッ、これは無いッ!中年に見えとってもなァッ、心はまだ中学生やぞッ!俺はテメーの金づるのおっさんじゃないんやッ」

拳を震わす山中の様子が、更にリストラされたおっさんと重なってしまうので、僕らはますます声を上げて笑った。

「やから俺は、もう違う恋に生きる事にした、それが彼女や…」

 山中が夢見る乙女の様に両手で胸を掻き合わせる。僕は笑い過ぎて出た涙を拭いた。

「もういい加減止めとけってぇ、また泣くぞ」

「俺を止める事はな、新垣結衣ちゃんでしか出来ん」

 リュウが呆れたように言う。

「ホントお前面食いやおな。まぁ、でも、さっきの女子は確かに綺麗だったな」

「だよなっ!なんかな、東京から引っ越して来たらしいわ。東京でモデルやってたんだって」

「へー、芸能人でもおかしくないな。あんな綺麗やと」

 僕は先ほど見た彼女を思い出した。今思い出しても、あんなに綺麗な子は、東京の中でも中々居ないんじゃないだろうか。

「もしさー、一億万分の一の奇跡で、お前が付き合えたとしても、お前とあんな美人や、ペットと飼い主みたいになってまうわ」

 それを聞いたリュウがゲラゲラと声を上げて笑った。てめぇ、と山中が僕を殴る振りをする。リュウはベンチに置いたリュックサックを背負った。

「もう直ぐプラネタリウム始まるで。先行くぞ」

 適当に返事をして、自転車に飛び乗る。焼けたサベルは、ズボン越しでも熱く、更に首筋から汗が垂れた。




「プラネタリウム、高校生三人」

 リュウはそう言って生徒手帳ををリュックサックから取り出した。俺たちもそれに習って、家から持ってきた生徒手帳をオッサンの前に掲げる。受付のおっさんが間延びした声で雑誌を捲りながら手を差し出した。

「じゃあ三人で千八百円ね」

リュウが目を顰めた。山中と僕が顔を見合わす。リュウが顔を顰めたまま、受付のオッサンに詰め寄った。

「あの、岐阜市内の高校生は料金無料な筈なんですけど、あの、ポスターにも書いてありますけど」

 リュウが、おっさんの隣に貼ってあるポスターを指さした。『宇宙を神秘を見に行こう!』そう言っている変なキャラクターの横に、きちんと『高校生以下は無料』と書かれている。おっさんは雑誌から目を離さずに言った。

「あのね、それは『高校生以下』でしょ?高校生以下ってのはね、中学生は含まれてないの」

 うぜえなあ、と顔全体で言っているオッサンに、リュウは増々眉の皺を深くさせた。

「高校生を含まないのは、高校生未満だと思うんですが。高校生以下は高校生も含みます」

「じゃぁ先生が間違えたんじゃないですかねえ」

 おっさんが完全に舐め切った声で横目で僕らを見つめる。

「あんた、いい加減にしろよ。ここに高校生以下は無料って書いてあんだろうが」

 リュウが耐え切れずに凄んだ。やめろって、と竹中が小さい声で言う。ばくばくと心臓が鳴った。脂汗が顔から滲み出る。僕も、もう良いって、と掠れた声で言った。

「じゃあ帰れば」

 おっさんが顔を上げた。角質が飛び出しかけている鼻の穴横に、親指ぐらいのデカい疣が付いていた。疣を見ている僕らの視線に気づくと、おっさんは慌てて顔を雑誌に戻した。

「とりあえず、千八百三十円」

 リュウは怒りで真っ赤になりながら、おっさんを睨んだ。

「もう良いって、リュウ。払おう。俺らが間違ってたのかもしんねえし」

 山中がリュックサックから財布を取り出す。

「これ逃したらもう見れないし。もういいじゃん。払おうよ」

 確かに山中の言う通りだった。これを逃したら、次は無い。明後日から新学期が始まるし、しかも次のプラネタリウムが見れるのは来週だ。プラネタリウムのチケットとパンフレットを理科の先生に提出しなければ、夏休みの宿題をやってきていないと見なされ、何日間の居残りは確実だ。山中の声に、リュウがぎりぎりと歯を食いしばる。

「一人六百十円だから」

 山中が金をおっさんに渡す。僕も仕方なくおっさんにお金を渡し、おっさんの受付を通過した。

「リュウ、もう払えって。もう始まるぞ」

 リュウは受付の手前で、顔を般若の様にして怒りに体を震わしていた。ただひたすら、強烈な殺意を持って小汚いおっさんを見つめている。やめてくれよ、と内心僕は思った。プラネタリウムももう直ぐ始まる。こんなちっさい事で怒るのなんてだせーって、そう言おうとした。

「おい、俺らもう行っちゃうからな」

 ビビりながら山中がそう言った瞬間、リュウは諦めた様に目を深く瞑って財布を取り出した。ゆっくりと小銭を取り出し、おっさんの顔を見ずに勢いよく小銭を受付に叩きつける。真っ赤な顔をしてリュウはこちら側に来た。山中と僕を無視して、プラネタリウムの中に入る。山中は呆れたように僕と顔を合わせ、リュウの後ろを付いていった。





『太陽は地球に光を送る唯一の――――』

 青年の声なのか、それとも中年の声なのかよく分からないナレーターの声が、僕の耳を柔らかく撫でた。目を開けると、目の前に一面の星空が浮かび上がっている。作り物だと分かりきっていても、つい、自分は今山の上で寝転がっているんだとか、そう言う馬鹿らしい想像が頭の中に浮かんだ。白い矢印が、目の前で赤く燃えている太陽の周りをくるくると回った。

『太陽の自転のスピードは約―――』

 僕は太陽から目を背け、目の端に移っている白い点を見つめた。

ずっとその白い点を見つめていると、周りが段々と暗くなって、最後にはその白い点しか見えなくなる。目を開けているのに、それしか見えなくなる。この不思議な感覚が、僕は大好きだった。

と、突然僕は自分の喉の渇きに気づいた。隣に座っている山中を見る。暗闇の中、奴は大満足げに大口を開けて小さな鼾をかいていた。わざわざ起こして報告するまでも無いだろう。僕は山中を起こさない様に席から立ち上がった。真っ暗闇の中、何となくリュウの背中を探してみる。勿論、分かる筈も無いのだが。

一階の自動販売機には、不味い割には高すぎるジュースばかりが置いてある。それでも背に腹は代えられず、僕はその中でも一番安い、何処のメーカーかも分からない烏龍茶のボタンを押した。

電子音の後に物が落ちる音。プラスチックの蓋の向こうからペットボトルを取り出し、ぐみりと一気に飲み込む。痛い程冷たい温度が喉に通り、旨味となっ胃に落ちていく。ほぅ、と安心しきった声を上げて僕はペットボトルから口を離した。

「美味しい?」

 と、突然横から誰かの声が聞こえた。ぎょっとしてそこから飛び退く。飛び退いた瞬間、花の何とも言えない香りが僕の鼻を擽った。

「さっき公園に居たでしょ」

 そう言って、先ほど公園で見た転校生が、僕に向かって薄っすらと笑った。

「え、あ、うううん」

 突然の事にパニックになった僕は、舌を縺れさせながら、馬鹿の様に頷いた。僕のその様子を見て、転校生は声を立てて笑った。

「貴方、面白いね」

 そう言って僕にもう一度笑顔を見せる。その笑顔が、そのまま週刊誌の表紙に乗っていてもおかしく無くて、僕は純粋に驚いた。頭の隅っこで、同級生の女子の事を思い出す。芸能人と言うのは、こうも人間離れした生き物だと言うのか。

「貴方、岐阜中でしょ、私立の」

 僕はぎょっとして彼女を見つめた。名前すらまだ名載っていないと言うのに、どうしてそんな事をこの子が知ってるんだ。人の心を読める超能力者の様に、彼女はまた笑った。

「生徒手帳、さっき受付の人に見せてたでしょ。表紙に岐阜中の紋章があったから」

「あ……え、見てたの」

「見てたよ。と言うか駐車場からずっと後ろに居た」

「え、気づかんかったわ……」

 ごめん、と何故か理由も分からずに謝る。彼女はまた声を上げて笑った。

「別に謝んなくてもいいのに。というか、それって、何?」

「それって、何?」

 僕の返答に、また彼女は笑った。自分が馬鹿の様に思えて、恥かしくなる。

「それ、方言?なんか君、訛ってるね。関西弁みたい」

 田舎者、と間接的に言われている気がして更に顔が赤くなった。口を開き、慌てて弁護をする。

「関西弁やないよ。岐阜弁。似とるってよく言われる」

「ふーん。そうなんだ」

 そう言って転校生は話を切ると、自動販売機に顔を向けた。小銭を入れ、ボタンを押そうとする。あ、と僕は口を開けた。

「それ、やめた方が良いよ。不味いから」

「へー、ありがと」

 そう言って転校生はそのままボタンを押した。ガタンと音がして炭酸飲料が下に落ちる。その様子を見て、僕は突然何かおかしな気分に襲われた。眉を顰めたくなるような、何だか変な気分だ。でもそれは出来なかった。何故なら、よく分からないけど、彼女には、そう言う力があったからだ。彼女に対して、そんな事をしてはいけない錯覚に襲われた。

「まずい」

 転校生はそう言って飲みかけの缶を僕に差し出した。

「あげる、要らないから」

 ぐいぐいと飲みかけの缶を押し付ける。

「え、要らんて、俺も飲まんし」

 つい本音がぽろりと零れ出る。ふーん、と転校生が何か言いたそうに僕を見つめた。

「そうだよね、ごめん」

 そう言って背中を向けて缶を直接ゴミ箱に入れる。ゴミ箱の奥そこから、缶が他のゴミと当たった音が鈍く聞こえた。

「貴方の名前、なんていうの」

 転校生がそう言って微笑む。先ほどと同じような、完璧すぎる笑顔で。

「…金田哲夫。…あのさ、君、転校生やろ。東京からの」

 知ってたの、と彼女が驚いた様に目を大きくさせた。

「うん。俺の友達が教えてくれた」

 そうなんだ、と彼女が言った。

「友達って、貴方の隣に居た大きい男の人?先輩?あの人何歳なの」

 恐らくリュウの事を言っているんだろう、と僕は思った。リュウは高二にして、阿保みたいに体が大きい。それに反して、山中は僕よりも五センチ背が高いだけだからだ。

「え、と、リュウの事?…あいつは俺と同い年やで。見えへんと思うけど」

「え、嘘でしょ?待って、貴方って高二だよね」

「そうやお。高二」

 真ん丸な瞳を更に真ん丸にさせた彼女を見て、僕は少し笑った。リュウの話をする度、皆決まって彼女と同じような反応をするのだ。

「私と同い年なのに、全然そう見えないね」

「うん、俺もそう思う。性格も大人っぽいし」

 転校生は不可解な目つきで僕を見つめた。その目を見て、不意に猫を思い出した。猫の目に似ている、そう思った。

「ねぇ、学校って楽しい?」

「うーんと…、楽しいで。勉強とか、先生とかうざいけど」

「本当?…生徒とか、どんな感じの子が多い?」

「どんな感じ……?…まぁ、大人しい子が多いんやないかなぁ」

「ふぅん、そっか…」

 転校生はそう言うと、考え込むようにして窓の外を見た。転校生の横顔は、びっくりする程綺麗で、鼻の先と顎の先が綺麗な直線を描いていて、流石芸能人だな、と僕は思った。

「私って、どんな感じに見える?」

 転校生が振り向き、突然そんな事を言った。どきまぎとしながら、答える。

「え、えーと…」

「なんか、その、話しかけにくい雰囲気とか、そう言うのあるでしょう。その…大丈夫かな」

 転校生がソファに座った。不安げに手を弄る。

「私、転校生だし…、新学期とかならまだましだけど、二学期からだから、…その、不安なの。…東京の学校とかでも、私、色々あってあんま馴染めなくて…、だから…」

 転校生が僕を上目遣いに見つめた。うっ、と喉が詰まる。僕は舌を噛みながら、必死に転校生を慰めた。心臓がバクバクとなる。どこどこと心臓の中で誰かが太鼓を叩いてるみたいだ。

「だ、大丈夫やおっ、皆良い奴ばっかりやし、そりゃ、東京からの転校生やからさ、ちょっとは浮くかも知んないけど、けど直ぐに友達なんて出来るから大丈夫やて」

 転校生は、そうかな…と呟き、慌てて明るい声を出す。

「ごめんね、初対面なのにこんな話して…。……ねぇ、金田君って妹居る?」

「妹?…居らんけど。一人っ子やから」

「そっか。私、お兄ちゃんが居るんだけどね、なんか、ちょっとお兄ちゃんと雰囲気に似てたから…、だから変な話しちゃったのかも…」

「えーと、全然、変やないと思うよ。転校やから、不安になるのは普通の事やから…」

「…うん、ありがとう」

また彼女の目が、何処かに行く。何処かに言った彼女の瞳は、まるで先ほど居たプラネタリウムの様だった。あ、と腕時計を確認した転校生が、小さく声を上げる。

「私、もう行かなきゃ。色々教えてくれてありがと」

 そう言って、転校生はベンチに置かれた荷物に駈け寄った。荷物が重いのだろう、うーん、と喉の奥から唸り声を上げて、必死に持ち上げようとしている。

「持ってったろうか」

 見るに堪えかねてそう声をかけると、いいの?と明るい声を出してさっと後ろに引いた。

「入り口までお願い出来る?」

 嬉しそうに微笑む彼女から、僕は荷物を受け取った。化粧品や何やらで埋められているそれは、思いの他重かった。

 彼女と一緒に入り口に荷物を持って行くと、入り口の目の前には普通の軽自動車が止まっていた。彼女の親の車らしい。転校生は、先程科学館で見せた笑顔と寸分変わらぬ笑顔で、僕から荷物を受け取った。

「私達同じ学年だよね。もしかしたら、同じクラスになるかもしれないね」

「そうやなぁ…、俺らのクラスが一番人数少ないし、一緒のクラスになるかも」

「本当?」

 転校生が、僕をじっと見た。黒い瞳の中に自分が飲み込まれていく様で、おかしな感じがした。

「私、貴方と一緒のクラスになりたいな」

 転校生は歌うように言った。にこりと笑う。その笑顔に、僕の心臓が激しく揺れた。心臓で太鼓を叩いている奴が、奇声を上げて喜び踊っているのが分かった。体が硬直し、僕は転校生を見つめた。

「荷物運んでくれて有難うね!じゃあ、学校で」

転校生は踵を返すと、じゃあねと言って車に乗り込み、消えてしまった。彼女の、残り香が、まだ僕の周りに漂っていた。ばくばくと五月蠅い心臓を手で摩る。目の奥に、笑った彼女の笑顔がこびりついていた。クーラーの風を全身に受けながら、どうしようもなく僕の体は火照っていた。また、転校生の笑顔が目の前に現れる。

「なんやこれ…」

 と呟いた瞬間、後ろの激しい衝撃で、僕は前によろめいた。驚いて後ろを見ると、リュウが力士の様にして目の前に立っていた。

「お前こんなとこで何してんだよ。探したやんか」

 夢から現実へ一気に引き戻され、僕は驚きと恥ずかしさでぱくぱくと口を開いた。

「お前、顔真っ赤やぞ」

 そう言われ、どきりとする。

「あ、そ、そう!?暑いもんな!ってかめっちゃ驚いたんやけど!?何?!」

 リュウが不審な目でじとりと僕を見る。その後ろから、山中が俺ペプシ、と声をかけた。

「買わねーし、あとペプシも売ってねぇ」

 リュウがそう言うと、おねがーい、と山中が体をくねらせた。

「じゃあなっちゃんな。今度返すからよ」

「お前いっつも言うだけじゃん」

 リュウがそう言って、諦めた様にジュースを買った。ガタン、とジュースを吐き出す自動販売機を見て、また転校生の事を思い出した。




 

 三人で連れ立って、自転車を止めてある駐車場にまで行く。リュウはまだ受付のおっさんに怒っているらしく、唾を飛ばして文句を言っていた。

「大人はずりーからな、仕方ない」

 そう言って山中がリュウを宥める。そして突然、顔つきを変えると、にやにやとして声を潜めた。

「そんなリュウさんにとっておきの品物があるのですが…」

 何だよ、と僕とリュウが言う。山中は嫌らしい笑みを浮かべ、リュックサックからちらりと雑誌の表紙を見せた。けばけばしい文字のピンク色と、その後ろに広がる肌色に、あっと声を上げる。僕の反応を見て、山中が誇らしげな表情を浮かべた。

「近所のゴミを漁り続けること早二カ月……、中には汚すぎて使えなかった物も沢山ある……そして俺は一昨日、これを見つけたんや!」

 まじか、と僕は思った。そして同時に山中へ対する尊敬の念が僕の中で爆発した。夏休み前、エロサイトの詐欺に騙された僕は、親からネット制限をかけられた。それから僕は『To Loveる』などのぎりぎり購入できるレベルの漫画をブックオフで集めていた。けれどネットのエロ漫画に見慣れていた僕の心は、まだ満たされる事は無かった。同じくネット制限をかけられている山中がゴミを漁ってエロ本を見つけると宣言した時は、僕は一ミリも本気にしていなかった。しかしそれから二カ月の間で、山中は鋭い嗅覚と粘つく執着心を持って宝を探りあげたのだ。

「す…すげぇ!マジでお前尊敬するわ!マジで!お前ならやると思っとった!」

 山中が鞄の口を一杯に開き、僕はその中に頭を突っ込んで雑誌を見る。薄暗い中、目の前に広がる光景は、想像していた以上に懐かしく、そして凄かった。

「これ、貸してくれるよな?!なっ」

 山中がゆっくりと頷く。僕は少しだけ泣きそうになった。その時、山中のポケットから、アニメソングが大音量で流れた。

「うわ、母さんからだ」

 山中は苦い顔をしてスマホをマナーモードにした。スマホはたっぷり一分間は体を震わし、そして切れたかと思うと、また体を震わし始めた。

「俺帰んなきゃ。母さんに殺される」

 山中はそう言うと、電光石火の速さで僕にエロ本を渡した。

「汚したら殺すからな!」

 そう叫んで山中は自転車に飛び乗った。モンペの母ちゃんに宜しくなー、と山中の背中に声を投げると、うるせー、と木霊が帰って来た。僕はいそいそとリュックサックの中にエロ本を隠した。リュウがエロ本を見つめているのに気づき、僕は、お前はいいよな、と言った。

「ネット制限ないんだろ。お前と俺のスマホ交換してくれん?」

やだよ、とリュウは自転車のサドルを足で跨いだ。

「この後どうする、カラタンでも行く?俺、腹減った」

 リュックサックを背負いながら、こっから遠いっけ、とリュウに聞く。

「多分、十分ぐらい」

「じゃあ行こ、スガキヤ食いてぇ」

「俺パスタ」

「女子かよ」

 るせーとリュウが笑う。僕も笑って、自転車のサドルに飛び乗った。

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