第四章

殺害



 暗闇の中、父さんの声が薄っすらと聞こえる。ゆっくりと瞼を開くと、部屋の照明の光が目に入る。僕は力なく体を起こした。周りを見渡す。僕は制服を着たままで、自分の部屋のベットに突っ伏して寝ていた。学校から帰宅して、直ぐにベットに倒れ寝たのを思い出す。僕のベットの傍で、父さんが心配した表情で、僕の肩に手を置いていた。

「…大丈夫か」

 僕の顔を見て父さんが言う。

「お前、ちゃんと寝とんのか…隈凄いで」

父さんの声が頭に響く。僕はぼんやりとした頭で、ふにゃふにゃと返事をした。

「よっぽど疲れとるんやな、ならええわ」

 父さんがそう言って僕の部屋を離れようとする。父さんが僕から離れていくのが怖くて、僕は頭を振って、ベットの上から無理やり起き上がった。

「大丈夫やお…何、手伝い?」

 父さんは僕の顔を見て、暫くためらった後、ようやく口を開けた。

「薪割り、運ぶの手伝って欲しいんやけど……疲れとんなら俺一人でも出来るで、大丈夫」

「……父さんが頼む時って、本当に一人じゃ運べんときやん、やるわ。寝て元気になったし」

 僕はよろよろとベットから降りた。スクール鞄を掴む。少し眠ったお蔭か、頭痛は随分とましになっていた。

「じゃあ…頼むわ」

 父さんが少しだけ微笑む。僕は父さんの後を追って、部屋を出た。

 




 僕の家の前にある牧場を通り、牧場と森を区切るフェンスの扉を抜ける。森の中を暫く進むと、目の前に丸太小屋が現れた。一昨年、父さんが友達の大工と一緒に作った物だ。

丸太小屋と言っても、そんな本格的な作りでは無く、中には予備の牛の餌と、使わなくなった古いストーブや芝刈り機など、色んな物がごっちゃになって置かれていた。丸太小屋の前には平たい切り株があり、辺りには割ったばかりの薪が散らばっている。

父さんが小屋に入り、青い押し車を持ってくる。僕は地面に散らばった薪を拾い、押し車の中に入れた。

僕達の家は今、牛を四頭、子牛を一頭飼っている。定年退職した父さんがどうしてもやりたかった仕事と言うのが、農場経営者だった。本来ならば牛だけではなく、もっと大きな農場を経営できた。しかしその頃に僕が生まれてしまった。

牛五頭と、人間一人の世話は、かなりのお金がかかる。しかも父さんは、今度は馬を買おうと考えていた。だから僕達は、節約できる分はとことん節約しなければいけなかった。この薪割りも、光熱費を浮かせるためだ。

押し車の中が、次々と大量の薪で埋まっていく。入りきらない分の薪を、父さんが僕に渡す。と、父さんがすっとんきょんな声を上げた。

「お前、何でスクール鞄何てもっとるんや」

 僕は、はっ、として自分の右腕を見た。ここに来るまでまったく気が付かなかったが、僕は右腕にスクール鞄を引っ掻けていた。

「寝ぼけとった…」

 と、僕が言うと、父さんは笑った。

「鞄あったら、薪もってけれんわ。とりあえず、スクール鞄ここに置いて、薪だけ持って帰ろうか。鞄は後から取ってくればええやろ」

 僕は頷き、鞄を置いて、父さんから薪を受け取った。木のささくれが皮膚に刺さる。若干の痛みと痒み。父さんが思い出した様に言った。

「明日、お前学校休みやろ。悪いんやけど、明日、牛の見張りしてくれんか。町内会の仕事で、公園掃除しないかん。終わったらそのまま、牛の餌買いに行くで、多分夕方ぐらいに帰ってくる」

 ぼんやりした頭で、分かった、と僕は頷いた。







「じゃあ行ってくるけど、大丈夫?」

 僕が母さんにマフラーを渡すと、母さんは心配そうに僕に聞いた。

「大丈夫だって、そんな心配しんくても……」

「あんた、心配するに決まっとるやろ、最近体調悪いみたいやし…本当はお母さんが一緒に居りたいけど、そうもいかんでさ…」

 母さんはそう言いながら、テーブルの上に財布を置き、首にマフラーを巻きつけた。父さんが母さんを外から呼ぶ。母さんは靴を履き、玄関に立った。そして僕を抱きしめ、僕のおでこにぶちゅーっと唇を当てた。何時もは泣いて嫌がる僕も、今日は何故かなされるままに、黙って母さんが唇を話すのを待った。

「じゃあ、行ってくるわ」

 母さんが僕から体を離し、ドアノブに手を掛けた。僕は唾で濡れたおでこを服の袖で拭きながら、いってらっしゃいと言った。

あ、と突然、母さんが思い出しように声を上げた。

「もし出来たら、牛見る前に、薪割っといてくれへん?出来たらでええけど」

「昨日、父さん割ってたよ」

「だって、お父さんもう年やからさぁ、あんたが余分に割ってくれたら、お父さんが楽に出来るでしょ。でも、出来たらでええでね。あんたに無理させ――…」

「あー、もう分かったから、早く行けって」

 長々と話し始めた母さんにそう言うと、僕は玄関へ母さんの背中を押した。

「なんや、さっきは大人しかったのに」

 母さんは楽しそうにそう言うと、玄関の扉を開けた。

「すぐに帰って来るからね」

 僕は頷いた。

 母さんの微笑みを最後に、玄関の扉は閉まった。





照り付ける太陽が、僕の頭上に振り注ぐ。太陽の光と正反対に、僕の頬へ吹き付ける風は凍える様に冷たい。僕は母さんから貰ったマフラーに顔を埋め、手をポケットの中に入れた。そんな動作だけでも、酷い片頭痛が頭に響く。

ずきんずきんと言うよりかは、ぼわんぼわんと、意識が遠のくような独特な頭痛。まるで体の中心にある支柱が、金づちで叩かれて出た音の響きが、そのまま痛みになっている様なかんじだ。

そんな酷い痛みを持て余しながら、僕は牛達をじっと眺めた。

数匹の牛が、のんびりと草を食み、咀嚼し、それを吐き戻してまた咀嚼する。反芻を繰り返し、排便をする。同じことをずっと繰り返しているだけなのに、僕と比べて牛達は幸せそうだった。

「お前ら良いな、幸せそうで」

 僕はそう呟いて、僕は牛を眺めた。

 モォ~と遠くの方から子牛の鳴き声が聞こえた。悲鳴染みた鳴き声に、僕は立ち上がって、音の鳴く方に向かって歩を進めた。

すると、子牛が農場のフェンスに開いた小さな穴に近づいているのが見えた。

 待て、と大声で怒鳴る。その瞬間、驚いた子牛が、その穴を潜り、外の森に出ていってしまった。

「嘘やろぉおおおっ」

 僕は絶叫すると、急いでフェンスを潜り、子牛を追いかけた。

と、突然、鋭い痛みが頭に走り、頭を抱えた。

ずきん、ずきんと頭の皮膚の下で血管が呻いているのが分かる。頭が割れる様に痛い。地に落ちていく様な痛み。山中の笑い声。皆森の笑み、羽川の表情、メグの体、リュウの死体、その真ん中で、母さんと父さんが僕に笑いかけた。

 牛を逃がしたら、母さんと父さんに失望される。僕にはもう二人しか居ない。

あいつを捕まえなきゃ。僕は立ち上がり、鋭い頭痛に耐えながらも、必死で子牛を追った。  

地面が揺れる。木々が僕の頬を鋭く打っていく。痛い。走る子牛。捕まえそうになる。しかしその瞬間、子牛はぴゅっと逃げ、また走った。中々捕まらないのと、頭痛で僕は考えられない程苛々した。視界が揺れる。回る。ぐわんぐわんとまた声が聞こえる。クラスメイトの笑い声。頭痛。吐き気。叫び出したかった。いや、叫んでいたのかもしれない。

と、次の瞬間、僕の視界は開いた。

思わず立ち止まる。それと共に子牛も立ち止まった。

そこには、昨日来たばかりの、父さんの丸太小屋があった。

倉庫の近くの切り株に小さな斧が突き刺さっている。その切り株に子牛は近づくと、僕を見てモォ~と鳴いた。

呑気な奴だ。怒りで体が震えそうになるも、捕まえられるんだから、まだ良いと自分を宥め、子牛に近づいた。子牛はもう逃げる気を失くしたのが、潤んだ瞳で僕を見つめるだけだ。

僕は子牛にゆっくりと振れ、腹に両腕を入れて持ち上げた。

近くで見てみると、生まれたばかりである所為か、牛と言うよりは少し羊に似ていた。

思っていたよりもずっしりと重い。前に母さん達と行った焼き肉を思い出した。ロース、ハラミ…あれだけの色んな肉がこれに詰まってるんだから、重いのは当然か。そうぼんやりと思った。

と、ブリリリリ…と不快な音と、凄まじい匂いが僕の鼻を突きさした。ぶちょべちょ、と何かが僕の足と地面に掛かった。生温かい物が、ぐちょぐちょと足を覆っている。

あ、と僕は口を開いた。

あ、ああ、ああああ。

「どんな味がする?」

 僕は吐きながら、懸命に手で犬の糞を口の中に入れた。信じられない程の苦みが口の中に広がると共に、糞の独特の香りが鼻の奥から臭った。頭上からはクラスメイト達の罵倒が聞こえた。頭がぼぅっとして、苦みと臭みで鼻の奥が痛くなった。皆森は、吐いた吐瀉物も全部舐める様に言った。僕は泣きながら、げろで塗れた地面を舐め続けた。ひところぢぃいぃ、と水島が狂った様に叫んだ。水島はとても幸せそうな顔をしていた。そうだろう、水島はもう虐められなくていいのだから。誰かの足が僕の頭を踏んづけ、僕の顔は糞の中に埋もれた。謝れよ、メグを犯した強姦鬼で、リュウを殺した犯罪者やって、生きとる価値も無い人間やって謝れよ。あ、あ、あ。頭に笑い声が木霊する。僕は地面に手を伏せた。顔を無理やり上げる。皆森がにやにやしながら、携帯のカメラを僕に向けていた。僕を囲む奴等が、僕を虐める奴らが、憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎僕は近くにあった斧の柄を握った。木のささくれが、手の平にチクチクと当たった。そのまま、僕は斧を垂直に居ろした。

 ゴムの様な皮膚が、斧の先に当たる。そして次の瞬間、どろどろとした赤い汁が花火の様に飛び散った。

 子牛の掠れた悲鳴に、僕は意識を取り戻した。

「あ…ああ…」

 僕は掠れた声を上げ、腹から血を流し、痙攣している子牛を見下ろした。震える手から斧が滑り落ちる。血が飛び散る音を聞いて初めて、僕はとんでも無い事をしてしまったと、激しく、実感した。

「あ……」

鼓膜の裏側で、心臓が暴れまくる。ぐわんぐわんと頭痛が鳴り響く。気持ち悪い。

子牛が鳴きながら、両足を走る様に動かした。その度に、子牛の腹から毀れた腸が揺ら揺らと揺れた。子牛の腹から、微かに湯気が立っていた。血と牛の糞で、何もかもがグチャグチャに混ざり合って、分からなくなっていた。

 子牛がまた、絶叫を上げた。牛の絶叫が辺りに木霊する。痛い、所の騒ぎでは無い。牛は死にかけていた。僕から逃げようと何度も立ち上がり、その度に地面に崩れ落ちた。牛の切れた腹から、ぼとぼとと血が落ちた。胸がむかむかする。

「ざ…」

 僕は笑った。

「ざまぁみろ」

 僕は呟き、震える手で、地面に落ちた斧をもう一度掴んだ。吐いた息が、白くなって僕の周りを飛んだ。

 僕は牛に近づいた。父さんが、牛を解体していた時を思い出す。僕は牛の首元に斧を当てた。牛が叫ぶ。いや、違う、叫んでいるのは僕だ。僕と皆森だ。

 僕はもう一度、斧を振りかざした。

 

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