終わり



 昔と全く変わっていない様で、全く違うプラット―ホームで、僕は静かに電車が来るのを待った。さわさわと、草が揺れる音がする。前は赤かった電車が、何時の間にか青色に変わっている。それと共に、内装も新しくなっていて不思議な感じがした。窓の外から、大量の稲穂が、地面に向かって頭を擡げているのが見えた。

『次の駅は―――、高山―――、高山―――』

 風邪なのか、掠れかかった声の運転手が、けだるげな声で駅の名前を読み上げる。僕は立ち上がり、電車から降りた。

 高山駅は何時の間にか改装され、僕の記憶とは違う駅になっていた。巨大な駅は近代的になり、見たことのない店が開いている。平日の昼とだけあって、駅には数人のサラリーマンしか歩いて居なかったが、休日には山程の人が押し寄せるのだろうと思った。

スマホで、駅に着いた事をメールする。近くにあったパン屋に駅の見取り図を貰い、何とか外に出た。目の前に広がる景色は、ずいぶんと変わっていた。放課後、よく買い食いをしていたコロッケ屋は消え、代わりに小奇麗な服屋に変わっている。ショーウィンドーの向こうで、マネキンがバレリーナの様にポーズを取っていた。

おーい、と誰かを呼ぶ声がする。振り向くと、中年の男性が車の窓から体を乗り出していた。誰か分からず、僕は目を細めた。

「哲夫君やろーーー?」

 聞き覚えのある声に、やっと合点が行く。僕は男性の元へ駆け寄るり、頭を下げた。

「態々迎えに来て頂いてすみません。あ、これ、つまらない物ですけど…」

 そう言って菓子折りを渡すと、リュウのお父さんは大口を開けて笑った。

「何やその態度!ええってぇ、こっちが恥ずかしくなるわ」

 リュウのお父さんは、昔と全然変わっていなかった。豪快な笑い方、松の木の様に高い、百九十センチの身長は、僕が成人した今でも越えられない。唯一変わった点とすれば、頭の毛が少し薄くなったぐらいだ。

「すっかり大人になってまったなぁ」

 助手席に乗り込む、お父さんはしみじみとそう言った。

「前はあんなに小さかったのになぁ。こんなにでっかくなってまって、スーツ何か着て、もう立派な大人やん」

 五年の年月が感じさせられない程、昔と同じように話しかけられる。窓の外の風景が、段々と僕の記憶と同じ物になって来る。

「全然そんな事無いですよ。お父さんより低いですし」

「いや、十分でかいわ。最後にあった時、まだ小学生みたいやったのにな、龍よりもデカくなってまったなぁ」

 リュウの父さんがそう言う。僕は何と言えばいいのか分からず、話を反らした。

「そう言えば、高山駅改装たんですね。その…凄く新しくなってて……」

「そうやなぁ。俺も初めて見た時はびっくりしたわ。東京の駅も、あんな感じで大きいんやろうな」

「東京の駅は、多分もっと小さいと思いますよ。県自体が小さいですし」

「あー、そうやったか」

 お父さんがそう言う。気まずい沈黙が、僕達の間に流れた。話のネタを必死に考えていた時、お父さんが口を開いた。

「ごめんな、気ぃ使わせてまって」

「えっと…いや…全然使ってません。大丈夫です」

「……本当に大人になってまったな」

リュウの父さんは寂し気にそう呟いた。

「気ぃまで使うようになってまって…。金田君は、今を生きとるんやろうな。…俺達は過去に生きとる。龍が死んでまった事を、まだ受け止められへん」

 僕は黙った。

「美佐江の方はもっとひどい。一年前までは毎日、飯を余分に作っとった。龍がひょっこり、帰ってくる気がしてな。今でも偶に作るよ。龍がもう居ないって、俺たちが一番分かっとるのに」

 長い沈黙の後、僕達はリュウの家に着いた。僕が小学校の頃つけたアイスクリームの浸みも、柱の下のリュウとの落書きの後も、全く変わっていない。玄関を開ける直前、お父さんが振り返った。

「…美佐江と会えんかもしれんが、大丈夫か」

 僕は頷いた。お父さんが玄関を開ける。

 家の中は、僕の想像よりかは薄汚れていた。玄関の端にごみ袋の山が堆積している。透明の袋の向こうに、薄っすらとオレンジ色の物が見えた。それがリュウのユニフォームだった。

「そろそろ捨てなあかんなぁ」

 そう苦笑いをするお父さんの顔は、昔と変わりない物の、深い皺が幾つも刻み込まれていた。

「美佐江ーーっ、哲夫君が来てくれたでーー」

 お父さんが二階に向かって大声を出す。二階からごそごそと物音が聞こえる物の、返答は無い。お父さんは溜息をついて、僕を客間に案内した。

「ちょっとお茶持ってくるで待っとって」

 そう言って姿を消す。客間は掃除が行き届いていて、整理整頓もしっかりされていた。棚の上に飾られた、数々のトロフィーと賞状を眺める。

 囲碁、バスケットボール、弓道、長距離走、柔道、それ以上にも数えきれない程の賞が棚の上にひしめいていた。

 歯型の付いた将棋の賞状を見て、小学校の頃を思い出した。僕とリュウは将棋教室に通っていて、一緒に将棋の大会に出たのだ。僕は初めの試合で負けたが、リュウは決勝戦まで上り詰め、準優勝した。そんなリュウが羨ましくて、僕は泣いて、リュウの賞状に何故か噛みついた。しかしそんな僕よりもリュウは悲しそうな顔をしていた。優勝が取れなかったからだ。その後、何時間も二人で泣き続けたのを覚えている。

リュウは完璧だった。

大人になった今でも、僕はリュウを超えられない。そしてそれは今後も変えられることは無いだろう。

襖が開いて、お父さんが客間に入って来た。テーブルの上にお茶を並べる。

「麦茶好きやっとよな」

 僕は頭を下げて、麦茶を頂いた。冷えた麦茶は、懐かしい味がした。

 もう秋だと言うのに、まだ蝉が鳴いていた。

「有難うな。毎年、遠いのに墓参りしてくれて」

 僕は驚いて顔を上げた。あの事件から、リュウの家族と会うのは、これが初めてだった。何で知ってるんだ、と言う僕の表情を読み取ったのか、お父さんは少し笑って答えた。

「坊さんが教えてくれたわ。毎年、若いお兄ちゃんが墓参りしてくれるって。龍もこんな友達持って、幸せやと思うよ」

「あ…いえ…こちらこそ、今まで中々顔を出せなくて、申し訳ないです」

「まぁ、分かるよ。気まずいもんな」

 リュウのお父さんが言った。長い沈黙の後、お父さんが口を開いた。

「……龍が…自殺やなくて、あの女に殺されてまったって聞いて、俺はあの女をずっと殺そうと思っとった。ずっと、アメリカの何処に居るか探し取った。見つけたら直ぐに殺すつもりやった。逮捕されても良かった。……でもあいつは一足先に早く、山中君に殺されてまった。…嬉しいと思うけど、それよりも悔しい。あいつは、もっと痛みつけられて死ぬべきやった。そう言う人間やった。俺が、龍の敵を討つべきやった………俺はまだ、あいつを殺したい」

 お父さんは淡々と喋った。

「…俺たちはまだ、あの頃に囚われとる。龍が生きとる頃に」

 そう言ってお父さんは黙り込んだ。

 僕はゆっくりと口を開いた。

「……僕も、皆森を殺したいと、思っていました…いや、多分、殺してました」

 僕は続けた。

「あの事件が分かったきっかけは、僕のお母さんが皆森が僕を殺そうとしている所を見て、警察に通報したからです。でも、確かに僕の記憶では、皆森が僕を殺そうとしたのではなく、僕が皆森を殺そうとしていたんです。僕は確かに、皆森を殺しました。夢の中で僕は、何故か、皆森の代わりに牛を殺していました。小さい子牛を…。そして僕は、遺体をばらばらにして、食べたんです、死体を隠す為に……。次の瞬間、僕は病院で目を覚ましました。…夢だったんです。でも、鮮明に覚えています。本当に皆森を殺してしまったみたいに」

 お父さんが僕を見つめた。

「僕は今まで、この夢を見たことを忘れていました。でも山中のニュースを見て、思い出したんです。山中も遺体をばらばらにして、食べていました。その時、僕は思ったんです。もし、あの時、あの夢を見て無かったら、僕は山中みたいに本当に皆森を殺してただろうって。牛が、僕を止めてくれたんだろうって。……僕は、その牛が、リュウだと思うんです」

 僕はお父さんを見つめた。頭がおかしいと、変だと思われても構わなかった。

「……リュウは小さい頃、川で溺れた事がありますか?」

 お父さんは複雑な表情を浮かべながら頷いた。

「その時、牛の夢を見たとリュウから聞きました。そして気づいたら、川の縁に立っていたらしいです。……リュウは、それは死んだ祖父が牛になって、自分を助けてくれたのだと言っていました。…不謹慎かもしれません、馬鹿らしいかもしれませんが、僕はリュウが、牛になって僕を助けてくれたのだと、そう思っています」

 お父さんは目を見開き、考え込むように俯いた。そして、待ってろ、とだけ言うと、立ち上がり何処かに言ってしまった。そして暫く経つと、古い巻物の様な物を持って帰って来た。茶色い染みが沢山付着した紙を、慎重に開く。

「もしかして、これかもしれん」

 お父さんは僕に巻物を見せた。よく分からない象形文字の中央に、牛に似た、それでいて少し羊に似ている奇妙な生き物が描かれていた。

僕は息を呑んだ。

「これ…これです」

 色あせて薄くなった絵は、微妙に姿かたちが違う物の、僕の見た牛そのものだった。

「カイチ…」

 と、お父さんは呟いた。

「中国の伝説の神獣。正義や更生を象徴する瑞獣の一つや」

 小さく唾を呑みこむ音が、お父さんから聞こえた。

「哲夫君は知らんと思うけど、俺のひぃじいちゃんは中国からの使者やった。江戸頃に来て、そのまま住み着いたらしい。これもその、ひぃじいちゃんの中国から持ってきた物の一部や。……俺がガキの頃、じいちゃんが言っとった。俺らの家系を、カイチが守ってくれとるんやと。……俺は信じてなかったが…本当やったのかもしれん……」

 お父さんは茫然としながら、紙の上で気高く胸を張るカイチを撫でた。

「龍が、カイチになって、哲夫君を守ってくれとたんやろうか…」

 小さな声でそう呟いた。





 結局、リュウのお母さんには会えなかった。四時間ほど、色々な事について僕はリュウのお父さんと話し合った。リュウの事や、カイチの事や、今の事や過去の事。纏まりの無い話は、僕達の心に乗った重りを、少しだけ軽くした。

「哲夫君は俺達に会うの気まずかったかもしれんけど、本当はずっと前から、哲夫君に会いたいと思っとった。成長した哲夫君を見れば、龍の事を受け止められるんやないかって」

 帰り際、リュウのお父さんはそう僕に言った。

「今日話して、ちょっとは楽になった気がするわ。有難う」

 リュウのお父さんはそう言って笑った。

「だからまた暇な時にいつでも来てな。美佐江も、次は会えると思うわ」

 僕は何回もお礼を言いながら、リュウの家を後にした。少しだけ、ほんの少しだけ僕の罪が軽くなった気がした。

 でもまだ、僕には行かなければいけない場所が残っていた。





 大量に並んだ墓石。その中で、僕は一番真新しく綺麗な墓石の前に立った。

 リュウの墓には真新しい花が生けられていた。恐らく、リュウのお母さんが生けた物だろう。

バケツの中の水を、少しずつリュウの墓にかける。スポンジで体を擦ってやると、墓は嬉しそうにぴかぴかと光り輝いた。新しい花を僕の花と変える訳にも行かず、僕は墓石の前に花束を置いた。持ってきた蝋燭と線香に火を付ける。

 僕はリュウの墓の前で手を合わせた。日は沈みがかり、辺り一面が真っ赤に染まった。真っ赤になったリュウの墓を見て、ごめん、と、僕は呟いた。

「あの時、あんな酷い事言って、ごめん」

 合わせた手がぶるぶると震える。

 僕はずっと後悔していた。リュウにあんな事を言った事を、後悔していた。

僕はリュウを分からなかった、いや、リュウの事を理解しようとしていなかった。

皆森がリュウを殺した。でも僕も皆森と同罪だった。リュウを殺したのと同じくらい、いや、それ以上深い罪を僕は背をっていた。

 あの時、リュウの背中を直ぐに追っていたら。

 あの時、リュウの相談に乗ってやれば。

何回もそんな事を考えた。無駄だと知りながら、僕は考えるのを止められなかった。

リュウのお父さんは、自分達が過去に生きていると、そう言っていた。

僕も同じだった。僕もまだ、過去に囚われていた。

僕はぽつぽつと、リュウに語りかけた。

「俺、もう二十歳になってまったよ。もう二十歳になってまった…。俺はまだ分からへんよ。俺は大人になったのに、まだ迷って、悩んで、分からん事ばっかで、お前みたいに上手くいかへん。悔やんでも悔やみきれん。あの時、お前やなくて、俺が死ねば良かったって、何回も考えた」

 僕は涙を流しながら、リュウに話しかけた。あの頃に戻った様だった。

「俺は、何もかも分からへん。皆森がお前を殺したのか、それともお前が本当に自分で死んでしまったのか、本当はそれすらも分からへん。俺は馬鹿やし、俺は………屑や。……でも俺は生きなあかん。お前を、…殺してしまった罪を、俺は一生抱えて生きな行かん」

 ざわざわと風が吹いた。木々が揺れ、木の葉の囁き声が辺りに飛び散る。

「………あの時、お前が、俺を助けてくれたんかったら、俺は取り返しの付かん事をしとった。山中みたいに、皆森を殺し取った…。……有難う。本当に有り難う。有難う」

 僕は地面に崩れ落ちた。土に紛れながら、僕はリュウに謝った。次の瞬間、誰かに背中を叩かれた。

「なにシけた顔してんだよっ!」

 懐かしい、リュウの声。

 僕は振り向いた。

 地平線の向こう、沈みゆく夕日の中で、一人、牛が立って僕を見つめていた。

僕はリュウの名前を叫び、立ち上がった。遥か遠くに立っている牛は、静かな瞳で僕を見つめていた。僕は走った。手を伸ばす。指の先が、リュウに触れようとした、その瞬間、太陽は完全に山に落ち、牛の姿は空気に溶けていってしまった。

 牛の鳴き声が一つ、辺りに響き渡った。

                                    了

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牛の鳴く頃に 瀬戸内海晴夫 @setonaikai

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