晩餐
シャワーから出ると、既に母さんと父さんがリビングに居た。
「見張り、有難うね」
母さんが大所から僕に声をかける。僕はぎこちなく、いいよ、と返した。
「あんたお腹空いとる?」
「…うん、ちょっとだけやけど」
「豚カツ買って来たから食べやあ、今温めたるわ」
分かった、と返事をする。父さんはソファにどっかりと座って、お笑い番組を見ながら、パソコンを弄っていた。僕が台所の椅子に座っていると、父さんが急に話しかけてきた。
「お前の好きな小野乃ののか映っとるで」
父さんの声に、咄嗟に体を強張らせる。
「ほ、ほんとやな」
そう言って僕は笑顔を見せた。そして僕は再びスマホに顔を戻した。大丈夫だ、うまく笑えていた。
「……ちょっと、こっち来なさい」
父さんがそう言って、父さんの隣を叩く。僕は黙って、父さんの隣に座った。
「お前、何か俺らに隠し取る事、無いか」
体が熱くなる。平常心を装い、僕は無いよ、と答えた。
「………そうか」
父さんは静かに呟き、また黙った。そして口を開いた。
「…本当の事言うと、俺はお前が心配や」
僕は父さんを見つめた。
「…お前……最近変やで」
父さんは真剣な顔をして言った。
「……龍君が死んまって、一回学校行けんくなった時、あったやろ。あの時はどうなるかと思ったけど……でもお前は今、ちゃんと学校に行けとる。それは本当にすごい事やと思う。でもテツ、本当に辛いんなら、行かんくてもええんやで。俺らはお前の為に学校行かせとる……でもその学校が、お前のストレスになるんなら、転校してもええと思う」
父の言葉が、頭の中でぐるぐると回った。転校したい。もうあいつ等から逃げたい。でも駄目だ。だって僕は犯罪者やから。犯罪者やから、罰せられなあかん。父さん、俺は犯罪者なんよ。もうあいつ等から逃げられん。ビデオも撮られてまった。俺が我慢すればええ。それでええんや。
「……父さん、何言っとんの」
僕は笑った。
「心配しんくても、何も無いで大丈夫やって」
父は僕の顔を見つめ、そして目を離した。
「…そうか。ごめんな、変な事聞いて」
そう言って父は顔をテレビに背けた。
泣き出しそうだった。僕はそれを押し殺して、何でもない顔をしてテレビを見た。
父さんが僕の目の前の椅子に座る。僕は目を伏せてテーブルに着いた。
湯気を立てている豚カツと、両脇には、味噌汁とご飯が置かれている。箸を手に取るが、指が動かない。ごくりと生唾を飲み込む。
箸を豚カツに突き立てる。衣がさくっと音を立て、開いた穴からは熱々の肉汁がソースと蕩けていた。口の中から、涎が大量に出る。美味しそうなソースと肉の臭いが、僕の異を揺さぶる。けれど、けれど。
気持ち悪い。
僕の目の前に置かれた豚カツが、まるで焼き立ての大きな白い芋虫の様に見えた。
美味しそうなのに、気持ち悪い。
この豚を殺す時も、僕が牛を殺したように、あんな風に血が出たのか、と思う。ぐぇ、と胃が呻く。
食べたくない。気持ち悪い。でも、食べなければ変に思われてしまう。
僕は我慢して豚カツを口に放り込んだ。歯がジャクッと衣を切った。味が溢れ出す。喉に蓋をされた様な、おかしな感覚だ。喉が縮みこんだ。異物を入れさせない様に。全て全て、吐きそうになるのをこらえながらも飲み込む。嫌悪感で、口の筋肉が動くのを拒否する。
僕は猛ダッシュでトイレに駆け込んだ。さっき食べたものを胃から出す。吐く度に、頭に子牛が思い浮かんだ。子牛の死体と、豚の死体。さっきの豚カツは、豚の死体だ。僕は死体を食べたのだ。
泣きながら、僕は口から最後の肉片を吐きだした。便座の中には先ほどの豚カツの残骸がぷかりと浮かんでいた。
ああ。
ぽたぽたと胃液交じりの涎を垂らしながら、僕はふと思った。
食べちゃえばいいんだ。
全部。
「てつッ!大丈夫!?」
母さんが叫びながら、トイレのドアを叩く。僕はふらふらと立ち上がり、トイレの鍵を開けた。次の瞬間、母さんがドアを開け、物凄い勢いで僕の体を抱きしめた。半分泣いている母さんを抱きしめながら、僕は震える声で大丈夫、と言った。
両親が寝静まったのを確認して、僕はリビングに降りた。パジャマの上からコートを着て、懐中電灯を手に持つ。台所から、出来るだけ切れ味の良さそうな肉切り包丁を持ってきて、紙袋の中に入れた。そして、家じゅうから集めたサランラップとビニール袋、ハンマーとタオル、ドライアイスを持って、僕は家を出た。
全てが闇に飲み込まれた牧場を、ただ一人で歩く目の前に手を翳しても、何も見えない程暗い。所々点在する街灯に、蛾が群がっている。それを横目で見ながら、僕はひたすら歩いた。
倉庫に着き、裏にちゃんと手押し車があるのを確認して、ほっと胸をなで下ろす。床に懐中電灯を立てに置き、僕は作業に取り掛かった。
胸に詰まった他の内臓も取り出し、床に捨てる。股間の辺りの内臓へ手を伸ばすと、そこには丸い臓器があった。それを引っ張ると、死体の股が凹む。子宮だ。子宮の近くに、白い脂肪の塊があり、それを取り出すと、アンモニアの酷い匂いがした。
死体の足には殆ど脂肪が付いていないのか、筋肉の縦線だけが目に入った。太腿の付け根の筋肉を、真横で切断する。切断した肉を、縦に向けて引っ張る。骨とくっついている部分をはぎ取り、取れた肉を保存容器の中に入れた。
それを繰り返し、両足と両腕から肉を取り、サランラップに包む。四肢だけでもかなりの肉があり、分厚かったサランラップも段々と薄くなっていた。
死体の顔を持ち上げる。頭は生きているかと錯覚する程普通なのに、それから下は空っぽで、手足も骨だけになっている牛の姿は、つぎはぎの化け物の様で気味が悪かった。
首から頭にかけて残っている皮を、一気に剥がす。ぴしぴし、と組織と組織が剥がれる小さな音が、指の下から響く。一気に剥がすのは難しく、一旦手を止めて、人間で言う項当たりの皮膚に縦に切り込みを入れる。その切込みから手を入れ、前に引っ張ると、意外と簡単に皮膚は剥がれた。
抜け殻の様表情の皮膚を地面に捨てる。死体の目に手を伸ばし、親指と人さし指で眼球を掴んで引っ張り出す。眼球の裏側に、血管の様な物がくっついて離れず、力づくで千切った。弾力のある、少し軟骨にも似た感触の目玉を覗き込む。濁った瞳が、僕を見つめ返す。僕は怖くなって、思いっきり地面にそれを投げつけ、足で潰した。足と床の間に、潰れて出てきた液体が糸を引いた。
頬の柔らかい脂肪と筋肉と、唇の辺りの肉を剥ぎ、容器に入れる。死体の歯が剥き出しになる。口から舌を取り出し、引っ張りながら奥の付け根で切った。まだ子牛だからか、牛の舌はかなり短かった。鼻は食べれるのか、と考えたが、焼肉屋で見たことが無いので止めた。
食べられると思った肉の部位を、全てサランラップで包み、紙袋の中に入れる。次に他のビニール袋に、食べられない内臓などを入れ、骨はまた違うビニール袋に入れる。
過袋の中から、ハンマーとタオルを取り出し、タオルでビニール袋を巻いた。そして地面に置き、思いっきりハンマーを振りかざす。ごきん、と何かが崩れる衝撃と音が、タオル越しに響く。
ネットで見つけた、骨の粉骨方法の記事を頭に思い浮かべる。これで合っているのかと思いながら、ただひたすらハンマーを打ち付ける。暫く経つと、想像していたよりも骨は割れ、粉上になっていた。頭蓋骨は粉砕できないので、仕方なくタオルに包んでクーラーボックスの底にしまっておく。
粉骨で詰まった袋と、内臓で詰まった袋を手に取り、外へ出る。スコップで穴を掘り、そこに粉骨をばらまき、土と一緒に混ぜる。
冷蔵庫に入れるには多すぎる肉の分を、袋に入ったドライアイスと共にクーラーボックスに投げ入れる。
そして内臓の袋と紙袋を持って、僕は牧場を去った。細切れになった死体は、こんなに小さいのにも関わらず、腕が千切れそうな程ずっしりと重かった。僕はよろけそうになりながら、玄関の扉を開けた。
足音を立てない様にゆっくりとリビングに上がる。リビングは真っ暗だった。僕はキッチンの天井についている小さな電気に明かりを灯した。
バックの中から大量の肉片を取り出す。
時計を見る。時刻は二時上回っていた。この時間帯なら、両親はぐっすり眠っているだろう。大きな音を出さない限りは、目を覚まさない筈だ。
戸棚からフライパンを取り出し、母さんがやっていた事をまねて、フライパンに油を引く。そして取り出した肉をその上に乗せた。
フライパンが熱せられると同時にパチパチと油が跳ねていく。裏面を焼き、ひっくり返す。肉の焼ける香り。不思議と子牛が、突然美味しそうな食べ物の様に思えてくる。その途端、激しい罪悪感が僕を襲った。
僕は自分の体がぐるぐると、何処かに吸い込まれていく感覚に陥った。跳ねる音。焼ける音。子牛の肉。血塗れの手。斧。現在と過去が目の前で混じり合い、目が回る。僕はまた殺した。ああ、もう分からない。
何が悪で、何が善なのか分からない。
全ての命は平等だ、そんな言葉を色んな所で聞く。でもそれは違う。命は平等じゃない。命が、全部が平等なら、どうして皆森は色んな人を傷つけ、呑気に生きていられるんだ。命が平等なら、子牛を殺した僕は、何で死んでいないんだ。
どうして僕は牛を殺したんだ。
どうして僕はリュウを殺したんだ。
どうして僕は……。
……僕は一体何なんだ。
皆森は悪なのか。悪だ。あいつは悪だ。自分の快楽の為に、どれだけ人を傷つけても、何とも思わない、化け物だ。僕は違う。人の痛みが分かる。
なのに僕は…。
斧の感触を思い出す。あの時、僕は、笑っていた。
僕も、皆森と同じだ。
化け物だ。
ぱちッ、と肉の脂が跳ねた。
僕は焼き終わった肉を皿に乗せ、テーブルに置いた。ナイフとフォークを持ってくる。肉だけでは味気ないから、こしょうと塩を一応振りかける。
子牛の前に座る。
いや、それはもはや子牛では無かった。ただの食べ物だった。母が作るご飯と同じで。
僕が殺した事なんか、まるで無かったのかの様に、ただの肉片だった。
まるで夢を見ている様だった。椅子に座っている筈なのに、ぐるぐると体が回っている様な感覚に陥った。
僕の頭の端の何かがおかしいと叫んだ気がした。何かがおかしい。なのに、目の前に広がる光景はただの一般的な、夕食のそれと変わりなくて。
子牛をナイフで切り分け、口へと運び、食べる。
肉だ。
ただの肉だ。
ただの食べ物だ。
ぐちゅぐちゅになった肉汁が、舌と溶け合う。気持ち悪くて、吐き出したい、けど、そんな事は出来なかった。
子牛を殺して食べた自分が何だか酷く、残酷で愚かしい存在に思えた。唾液と共に飲み込む。喉を肉が流れていく。それを喉が突っ張って、嫌だと主張する。
きもちわるい。
喉の叫びを無視して、筋肉に力を入れる。
やっと肉を飲み込んでも、まだ皿の上には肉が大量にある。しかも、まだ焼かれてない肉もあった。
残った肉を、これを、全部食べるなんて。
でも僕には罰が必要だった。殺した責任を取らなくてはいけなかった。
吐きそうになり、食べた肉が胃液と共に逆流してくる。それすらも僕は飲み込んだ。苦くて酸っぱい。でもそれが子牛の本来の味の様に思えた。
お腹が一杯になり、それを超える程食べても、肉片の量は前と同じままだった。僕はげっぷを吐きながら、残った分の肉を冷蔵庫の中に押し込んだ。リブングの窓から、うっすらと日が昇り始めているのが見えた。地平線に浮かんだ太陽の光が、僕の体を貫いた。
「ざまぁみろ」
僕は小さく呟いた。その言葉が小さなさざ波となって、僕の体に浸透した。僕はもう一度呟いた。
「ざまぁみろ」
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