日常

「よ」

 と、背中を叩かれ僕は振り向いた。バスケットボールのユニフォームを着たリュウが、シャワーでも浴びたのかと思ってしまう程汗を滴らせ立っていた。

「うわっ、汗びしょびしょやん」

 リュウは、朝練やってきたでな、と言いながら、靴箱から取り出した上履きを自分の足元に投げ落とした。リュウの汗が、床に敷かれたスノコに吸収され跡を作った。

「きったねー、シャワー浴びて来いよ」

 リュウが首から下げたタオルで汗を拭きながら答える。

「更衣室のシャワーぶっ壊れてんだよ。しゃーないで今からプール行く」

「室内プールんとこ?シャワーあったけ?」

「あるやろ、多分」

僕は上履きを穿いた。二カ月前に買ったばかりなのに、もう指先がきつい。僕は仕方なく、踵で上履きの後ろを踏み潰した。

「もう入らんくなったん」

 リュウが驚いた様に僕の上履きを見る。僕は上履きの中で指をぐにゃぐにゃと動かした。

「また新しいのかわな」

「成長期やな。良かったやん」

「背ェ伸びるの嬉しいけど、靴、買え変えなあかんのがめんどいわ」

「分かる」

 何時もと変わらない、なんてことない会話。

「ってか放課後、お前んち行ってええ?」

 突然リュウがそう言って、僕に手の平を合わせた。

「またか。お前ほんとに牛好きやなぁ。何処がええか分からんわ」

 僕はそう言って溜息を付いた。僕の家は個人酪農をしている。何故か牛が大好きなリュウは、暇さえあれば牧場に来て、牛の世話をするのだ。

 リュウは小さい頃、川で溺れかけていた時、牛の幻を見たらしい。そして気づくと、リュウは川の縁に立っていたそうだ。それからリュウは、牛を神様の様に崇めている。

「多分あれはさ、死んだじいちゃんが牛になって俺を助けてくれたと思うんよ。じいちゃん牛好きやったし。やから、なんか知らんけど、牛を大切にしなあかん気がする」

と、耳にタコが出来るぐらいにリュウは何度もこの話を話した。僕は正直、リュウの言っている事はよく分からなかったが、牛の世話を手伝ってくれるのは有り難いので、大抵は何も言わずに頷くだけに留めていた。

昨日山中が食べ放題で吐いた話を聞きながら、僕とリュウは廊下を歩いた。ざわざわと人の声が五月蠅い。夏休み明けだからだろうか。しかしそれにしては五月蠅すぎる気がした。

「そんでさ、山中がさ―――」

 と言いかけたリュウの鼻先を、鋭い悲鳴が掠った。悲鳴のする方を見ると、女子二人――恐らく他学年の女子が、弾けるような声を上げ、僕達の目の前の曲がり角を駆け抜けていった。

「っるせ」

 リュウが顔を顰める。僕が言う。

「夏休み明けやでテンション上がっとるんやない」

「上がり過ぎやろ」

ざわざわと、曲がり角の向こうから人の声が聞こえる。僕とリュウは顔を見合わせ、まかり角を曲がった。その途端、あり得ない光景が僕たちの目に入った。曲がった廊下の先、丁度僕の教室の辺りに、大量の人が群がっている。その人混みが廊下を埋め尽くしていた。大小様々の黒、そして囁きと時たま出る悲鳴で、凄まじい熱気に包まれている。

やば、横でリュウが呟いた。

「なんか、よく分からんけど、やばいな」

 そう言いながら二人して人混みを後ろから眺めた。凄い人の数だ。

「人が群がっとんの、お前の教室やん。何でこんな事になっとるん」

 リュウが思いっきり眉を顰めながら僕に問いかける。知らん、と僕も顔を顰めた。

「これ、どうやって教室まで行くんや?」

「チャイムなったら皆消えるやろ」

「チャイムなるまで待っとったら、俺遅刻してまうわ」

 リュウが考える様に少し黙った。そして、お前ら邪魔やわ、退け、と大声を出した。人混みが一斉にこっちを見る。

「退けって、教室行けんだろうが」

リュウがさっきよりも声を荒げると、人の群れがもそもそと二つに分かれ、真ん中に道が出来た。

感心した僕が思わず、モーゼみたいやな、とリュウに言うと、意味分からん、と返された。

注がれる視線の雨に、内心首を縮めながら、リュウと僕は一組の教室に近づいた。教室の側面に着いた窓から、教室の様子が見える。そこで僕は人混みの原因に気が付いた。

転校生……いや、皆森だった。

皆森の周りに、これでもかと人が群がっている。そして教室の廊下側の窓から、皆森を一目見ようと他の生徒が首を噛めの様に伸ばしている。中二の他に、他学年の姿も見える。あの人混みは全て、皆森の評判を聞いた生徒だった。

リュウが驚いた様に目を丸くした。真ん中で別れた人混みは段々と形を元に戻し始め、消えていた騒めきも戻っていく。皆森へシャッター音が切られる音と共に、リュウが苦虫を噛み潰したような顔で僕を見た。

「あいつ見る為だけに、こんな人集まったんか」

「そうみたいやな」

僕も驚きながら答える。

「ちょっと引くわ」

と、リュウが言った。

「まぁ、東京の人が珍しいんだよ。あと芸能人やしな」

「なんか、めっちゃキモイ。馬鹿かよ」

リュウは吐き捨てる様に言った。

「そう言って、正直気になっとるやろ」

 そうリュウの脇を小突くと、はぁ、とリュウが鼻に皺を寄せた。

「興味ないわ、美人でも人は人や」

 そう言い放つリュウに、イケメンはそう言う事平気で言えるから良いよな、と僕は言った。リュウがに嫉妬すんなよ、とにやりと笑う。

「俺もう行くわ、人居すぎて吐きそう」

 そう言ってリュウは、僕に背を向け、三組とは反対の方向へ去って行った。今からシャワー間に合うんかな、と思いながら、僕は教室の中に入った。








 その日も次の日も、観客は留まる事を知らなかった。まるでテレビの中のドラマを見ている様だった。休み時間ごとに、皆森を見に来るだけ為に人が湧いてくるのだ。しかしそれも、時間が経つ程に減っていく訳では無く、他校の生徒も交え、逆に増えていく様に感じた。

 皆森は完璧だった。何もかもが完璧だった。勉強や運動は勿論、料理も裁縫も、彼女には全てが完璧に備わっていた。まるで、皆森は欠点など何も無いように、生まれた頃から今まで一番である様な、完全無欠の存在だった。そして二週間も経つ頃には、誰にもが予想していた通り、皆森はクラスの人気者になっていた。








 帰りのホームルームを終え、山中達とゲーセンでも寄ろうかと話し合っていた時、突然「ちゅうもーく」と声が聞こえた。首を捩じり、騒めく教室を見渡す。教室の人混みの中心…、つまり皆森の席の横で、サンチュが色褪せた金髪を振り回し、机の上に仁王立ちしていた。

「皆さん!今日はこの二年一組に、皆森明美さんがやってきて二週間が立った、記念すべき日であります!えー、私、このクラスのリーダー、山中佑としては、このー、えー、明美ちゃんがやって来たことをー、嬉しく思うのでありますッ」

 サンチュが演説ぶった話し方で、軍人の様に敬礼をした。人混みの中心から、馬鹿でー、と笑い声が上がった。僕も思わず笑う。

「えー、とぉ、然るべきにですねぇ、私―ィ、としてはー」

 と、その時、メグがサンチュの机の近くに椅子に立った。

「しっかりやれっ」

と、メグがサンチュの頭を教科書で叩く。ぎゃー、と芝居掛かった口調でサンチュが両腕を広げた。嫁が来たぞー、と野次を飛ばすクラスメイトに、教科書で叩くる振りをしてから、メグは教室中に響き渡る、凛とした声で言った。

「えっと、今日の放課後、二年一組で皆森さんの親睦会をしたいと思います。五時に、カラオケの『招き猫』に集合ね。因みに、全員参加です。用事の無い人以外は、出来るだけ来るようにお願いします」

「おねがーしゃーす」

 メグの下でサンチュが頭を下げる。そのサンチュの頭をもう一度叩いて、メグは恥ずかしそうに椅子を降りた。

「親睦会って、小学生かよ」

 そう言って半分呆れながら皆森に集まったグループの塊を見る。東京からの転校生で、そしてその子が芸能人で、こんなに盛り上がる事なんてあるんだろうか。もし皆森が芸能人じゃ無くて、東京からの転校生でも無いのなら、恐らくここまで歓迎はされないだろう。

盛り上がる教室が、何だか異様な物に感じられた。

いや、でも盛り上がるのが普通なのかもしれない。僕だって、ある日突然千鳥が学校に漫才師に来たら、滅茶苦茶喜ぶだろうし。そう言う感じなのかもしれない。

そんな事を悶々と考えていた時、丁度人と人の隙間の間に、皆森の顔が見えた。その瞬間、皆森が急にこちらを振り返り、僕を見つめた。皆森が目を細める。山中が隣で嬉しそうな声を上げる。その声を聞きながら、僕は慌てて顔を横に反らした。






「金田君」

 帰りに少しだけ天文学部に顔を出そうと渡り廊下を歩いて居た時、不意に背中から低く呻いた様な声が聞こえた。

咄嗟に振り返る。すると、そこには僕たちの新しい担任、橋本優実が立っていた。

百五十を超えているのかどうか怪しい様な、異様に小さな背。そしてそれに不釣り合いなぐらいに縦に大きい顔が、僕の遠近感を激しく狂わせた。顔の作りも非常に独特で、両目は顔の中心から端まで一気に線を書いたように、びっくりする程大きい。そしてその目の周りには長い睫毛が散らばっている。目は大きければ大きい程可愛いと言うが、彼女の顔を見ていると、それは違うと否定したい様な気分になる。

鼻は大きく、肌は穴ぼこだらけで、ファンデーションがその穴につまり、粉を吹いている。鼻の下にある唇も大きい。パンパンに膨れた上下の唇。そして上唇の中心の頂点が、ぷっくりと膨らんでいる。その唇が、何かに似ていると思いながら、僕は橋本先生と向き合った。

「あのね、ちょっと教えてほしい事があるんだけど」

 橋本先生がそう言って鞄の中をごそごそと探る。

「私ね、皆の事をもっと知りたいと思って、金田君に色々と教えて貰いたいの。私って、担任もつの初めてじゃん?やっぱり担任になったからには、生徒一人一人の性格を理解したくて」

 手を止めると、鞄から、場違いなイラストが描かれたバインダーを取り出した。黙ってそれを受け取る。安っぽいイラストが描かれたプロフィール帳だった。

「それをね、まぁいつでも全然大丈夫なんだけど、明後日ぐらいまでに書いて欲しいの。あとね、ほら、金田君って、友達が多いでしょ。だから友達とかに回して、クラス全員のプロフィールを作ってほしいの、出来る?」

 早口に捲し立てる唇を、僕はじっと見た。何かに似ている。

「あ、大丈夫です。出来ます」

 橋本先生は、お願いね、と言った。

「ほら、私ってカナダに住んでたじゃない?だからカナディアンのティーンエイジャーは結構分かるんだけど、日本の子達の考えている事とか分からなくて」

「あ、カナダに住んでたんですか。凄いですね」

 初めの自己紹介の時に、そんな事を言ったたな、と思いながら、僕はそう言った。橋本先生は、当たり前だ、と言いたげな無表情で、うん、まぁね、と言った。

「やっぱ英語が出来ないと駄目だからね。今の時代は国際でしょ」

 そして、何故かカナダについて話し始めた。英語がうんたら、カナダがうんたらと喋る唇を見ている内に、僕はその唇が何に似ているかに気づいた。

 まんこだ。

 と、僕は思った。

 彼女の唇は、女性器そっくりだった。唇の頂点の膨らみがクリストリスで、上下の唇が、女のあそこの、なんていうかよく分かんないけど、びらびらとしている所。昨日、ヨッシー達と一緒に見た、アダルトビデオの中の、女のあそこ。

 僕は不意に吐きそうになって顔を背けた。

「すみません、俺この後部活あるんで」

「あ、ごめんね。そうね、何処の部活?」

 早く解放してくれと内心苛々しながら答える。

「天文学部です」

「へー、楽しいの?」

「部員は実質二人しか居ないですね。他は殆ど幽霊部員で、だから俺が部長みたいな感じです。顧問の先生も掛け持ちなんで、やる事あんま無いんですけど、まぁ後輩が居るので楽しいですね」

「へぇ、そうなの。後輩は女の子?」

「男です」

 と、僕は咄嗟に嘘をついた。

「……すみません。俺、本当に行かなきゃいけないんで…」

「あ、ごめんね。じゃあ、また、明日ね」

 そう言って、橋本先生は笑った。ぐちゃぐちゃに混ざり合った歯と歯の間に、黄色い歯石がこびりついている。僕は目を背けて、頭を下げた。

「じゃあ、プロフィール帳宜しくね」

 橋本先生はそう言うと、渡り廊下を慌ただしく駆け抜けていった。





「ただいま」

 玄関の扉を開ける。靴箱の上に置いてある時計を見ると、四時二分を指していた。『招き猫』へは自転車で十五分ぐらいでいけるから、四十分ぐらいに出れば間に合うだろうと思いながら靴を脱ぐ。リビングへ行くと、母さん一人がソファーに座ってテレビを見ていた。昼ドラを見ながら、母さんの大好きなオレオを口に放り込んでいる。テレビの向こうから、安っぽいピアノのBGMが流れた。

「お帰りー」

 オレオを牛乳に浸しながら、母さんが振り返る。肌に突き刺すエアコンの風に鳥肌を立てながら、僕はテーブルん上に広がったオレオを一つ摘まんだ。

「…またオレオ食っとんの。病気になるで」

「運動しとるで大丈夫やて」

大丈夫、大丈夫、と言いながら、母さんはオレオを口の中に放り込んだ。牛乳にオレオを浸しながら、母さんに聞いた。

「父さんはまだ牧場におんの」

「うん。牛が可愛いみたいやね」

「でもどうせ最後は食うんやろ」

 母さんが体を起こして僕を睨んだ。

「何やのその言い草。食うんやなくて、食べさせて貰っとるって言いなさい。食に対する感謝を忘れたら駄目っていっつも言っとるでしょ。もしテツが牛やったら、ありがとうって言われて食べられた方が良いでしょ」

 意味の分からぬ事を熱く語りはじめる母を目の前に、うぜえなと思いながら、僕は話を反らした。

「そう言えばさ、俺、今日クラスのみんなでカラオケ行くでご飯いらん。転校生の親睦会やるんやって」

 そう言うと、母さんは直ぐにその話に食らいついた。

「あれ、転校生って、皆森さんとこの娘さん?」

「あ、うん。知っとるの」

「近所でもう噂になっとるよ。政治家で、めっちゃイケメンらしいね。娘さんの方も芸能人なんやろ?かわええ?」

「あー、かわええよ。朝から、教室に人だかりが出来取った」

 母さんが驚いた様に目を丸くさせた。

「そんなに美人なんや。さすが芸能人やねぇ。そう言えば、龍君が入学した時も他校の女子が見に来たんやろ」

「アイツ顔だけはええでな」

 手に持った一口オレオを齧ると、人工的な甘さが口の中に広がった。後味の悪い、舌の上にねっとりと絡みつくような甘さ。その甘さを流し込もうと、牛乳の入ったコップを手に取る。しかし母さんと間接キス何か想像しただけで吐きそうなので、棚から新しいコップを持ってきて、そこに牛乳を注いだ。冷たい牛乳が喉へ通り、全身に染みわたっていく。飲み終えた後、自然に出てくる息を吐き、コップを洗面台の上に置いた。

「二人が付き合ったらお似合いやん。美男美女やな」

 と、母さんが急にそんな事を言い出す。リュウと、皆森が?と聞くと、そうに決まっとる、と返された。

 僕は一昨日のリュウの表情を思い出した。皆森に興味が無いと言い放つリュウ、そして今日の人混みを見た時の表情、それらを含めて、リュウの言葉は決して照れ隠しでは無い様に思えた。

「多分、有り得んで。興味ないって言っとったもん」

 母さんがすっとんきょんな声を出す。

「そう言えば龍君の彼女が居るって聞いた事無いね。ホモなんやろうか」

「馬鹿やないの。そんな訳ないやん」

「いや、分からんやん。昨日もテレビでニューハーフやっとったし、ニューハーフも色々悩んどるみたいや。学生時代なんか、凄い虐めとかあったらしいよ。やっぱり、あーいう差別はアカンねぇ。あんたがおかまになっても、お母さんちゃんと受け止めたるでな」

 そう言いながら母さんが僕に向かって親指を立てた。母さんは直ぐに人の影響を受ける。テレビや人から聞いた薄っぺらい、信憑性も無いに等しい様な話を鵜呑みにし、どや顔で周りの人に話まくる、そんな性格なのだ。

「そーいうの良いから。ってか、今日リュウが手伝いに来たいって」

「また?本当に出来た子ねぇ、うちに就職してくれればいいのに」

「個人やから無理でしょ。リュウにちょっと小遣いぐらいあげなよ、ただ働きとか、申し訳ないし」

「言われなくても、あんたよりもあげてるわよ」

僕はへいへいと適当に返事をしてリビングを後にした。

 二階の自分の部屋を開けると、籠っていた熱気が一気に僕を襲って来た。あちぃあちぃと独り言を言いながら、窓を開け、学生鞄を机の足元に放り投げる。教科書を学校に置いているお蔭で、異様に軽い鞄は、ぽすんと気の抜けた音を立てて床に倒れ込んだ。

 湿気と粘つく暑さで最高に苛々する指先で、扇風機のボタンを押す。風の強さを強にし、首振りを固定すると、一時の天国が訪れる。ああああー、と間抜けな声を出し、額に浮かんだ汗を乾かせる。

 汗も大分乾いた所で、制服をベットの上に脱げ捨て、タンスから適当に取り出したバンドTシャツとズボンを着た。制服のポケットからスマホを取り出す。あとサンジュ大運ぐらいで出よう。そう決心し、僕は扇風機の首向きと高さを調整し、ベットに寝転がった。

ふと気になって、皆森明美、と検索する。少しは検索に引っかかるんじゃないかと期待したが、そんな事は無く、全く関係の無い事ばかりが検索欄に上がった。

他人のフェイスブックやら名前占いやら女子高生自殺の記事とか、皆森の「み」の字もねぇやん、と思いながら、検索を眺める。一回、友達の名前で検索したら、どっかの犯罪者と同姓同名でビビったっけなぁ、とかどうでも良い事を思いながら、検索エンジンを閉じ、ツイッターを開いた。

夢野のツイッターを見ると、今日も何時もの様に、例の先輩の家に遊びに行って、映画を観ると書かれてあった。穴の開く程、夢野の呟きを見つめる。言い難い変な無い気分になって、僕は溜息をついてスマホを腹の上に落とした。腹の鈍い痛みと、目の網膜に焼け付く光と、このうだる様な暑さで、頭が変になりそうだった。

僕は夢野の事を思い出した。熱が体の内側に入り込み、苛立ちと熱が中で混ざってある一点に集中した。一階に耳を集中させる。全神経を集中させてやっと聞こえるような、小さな薄れた男女の口論が下から聞こえてきた。母さんが日課にしている昼ドラの声。

僕は本棚の隙間から、山中に借りた漫画を取り出した。背中を丸めて、ズボンとパンツをずらし、定位置にティッシュ箱を置く。僕は自分のちんこを握った。蝉の音と、頭の中の夢野の声が混じった。片手で漫画のページを捲り、自分と夢野を、紙の中で交わっている二人と重ねる。頭の中で、夢野が笑ってテツ先輩と僕を呼ぶ。頭の中で、夢野が僕にキスをする。頭の中の夢野だけは、僕の物だった。この部屋で、夢野とセックスをする。夢野が僕の名前を呼ぶ。

『テツ先輩、テツ先輩、テツ先輩』

 叫び出しそうだった。僕じゃない。夢野が好きなのは僕じゃないのに、でも僕はこんなにも夢野の事が好きなのに。

 背筋を震わせて僕はティッシュの中に射精した。全身から力が抜ける。抜けると共に、何処かの線も抜けて、僕は堪え切れない涙を枕カバーに擦り付けた。

 僕のこの、惨めな姿が馬鹿らしかった。自分で自分が恥ずかしかった。夢野で抜いた罪悪感が、僕の頭を粉々にした。

 もう、死んでしまっても良いぐらいだった。

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