第2話 安野ひまりは義理堅い
安野ひまりと図書室で会話を交わした次の日の放課後の教室。
俺は数学の補習課題のプリントに取り組んでいた。宿題を忘れてしまったからだ。
「にしても問題の難易度が高い気がするな。忘れた者への戒めってことか?」
俺がシャーペンを器用に回しながら、悪態をつく。
「苦戦しているようですね」
隣の席から鈴の鳴るような声で話しかけてきたのは、昨日ワナビであることが判明した安野だ。どういうわけか終礼が済んでからもずっといるのだ。
「なあ。何であんたも教室に残っているんだ?」
俺と彼女は同じクラスではあるのだが、普段から友達関係だったわけではない。なのに、他のクラスメートは帰宅しているか部活に行っているかしているので、教室には俺と彼女しかいない。
「理由ですか……それなら至極単純です。昨日のお礼をするためです」
「お礼って。俺、昨日は特に大したことはしてないと思うんだが」
「してないからいいんです。和瀬君は私の秘密を悪用しなかったじゃないですか」
「悪用って。一体何されると思ったんだよ」
安野でも俺の名前は覚えているんだなとしみじみしつつも、訝しげに疑問を口に出した。
すると、安野は髪を耳にかけて、落ち着いた雰囲気で口を開いた。
「面白おかしく私が小説家志望であることを言いふらされるかと思いました。もしくは秘密をばらされたくなければと脅しをかけられ、下品な要求をされるかと……」
「そんなくだらねえことしねえよ。昨日約束しただろ?」
「私の弱みを握って不埒な態度を取らない男の子がいるとは思いませんでした。和瀬君は紳士なんですね」
「そんな大げさな……」
昔何かあったのかと疑わざるを得ないほど男に信用を置いていないようだ。
俺はポリポリと頭を掻きながら無味乾燥な態度で話を本題に戻した。
「んで?お礼って何しにきたんだよ。大層なことされても困るんだが……」
「現在進行形でお困りのようなので、そちらをお手伝いさせていただきます」
そちらって?ああ。俺が解いている数学の補習課題か。
「それくらいならまあ。でもあんたは良いのか?俺みたいなオタクと一緒にいて不都合じゃないのか?」
「不都合かどうかは関係ありません。和瀬君が約束を守ってくれたから、それに対するお礼をするのは当たり前なだけです」
一見、男に強い不信感を抱いているようだが、根っこの部分の優しさや律義さが今の会話で垣間見れた気がした。
そうやって安野の性格を推測していると、彼女が「あっ」と小さく声を漏らした。
「ここ。間違えてますよ」
そう言って指さしたのは俺が解けたと思っていた二次関数の基本問題だった。
見直すとすぐに気づくほどのうっかりミスで、指摘された通りにやり直している最中に、安野は再び別の問題のミスを指摘した。
「ここも。あっ。ここも間違えています。このグラフは上ではなく下に凸です」
結構間違えていたなと心の中で反省。まあ昨日読んだ『犯人はもう死んでいる』っていうラノベの余韻が抜けきらずに集中できなかったからな。
またそのラノベの余韻が蘇ってきて、顔がニヤつきそうになるのを我慢していると、安野が胡乱げな視線で問いかけてきた。
「和瀬君って勉強苦手なんですか?」
「得意ではないけど、大体平均くらいだぞ」
まあこれだけ間違えていたら疑われても仕方ないか。
そう自分に納得させていると、隣から「はあー」とため息が聞こえてきた。
「今の時期でこれほど間違えているのは危険です。見過ごせません。そのプリントだけと言わず、今日から私が勉強を教えましょうか?」
「いや、それはさすがに悪いよ。成績優秀なあんたに比べればそりゃあ目に余る様なんだろうけどさ……」
俺が若干引き気味で応対すると、安野がクスクスと笑った。
「やっぱり和瀬君は変です。私の誘いを即答で断るなんて」
「さぞ自分に自信がおありなんですね」
「自慢はしたくないのですが、実際私は頼んだことを男の子に断られたことがないですから。頼むのは全部私情を挟まない事務的な内容でしたけど……」
「でしょうね」
安野と同じクラスだから俺も彼女の言ったことは腑に落ちた。安野は優し気な、それこそ天使のような笑顔で誰にでも接するので、彼女が頼めば男子女子問わず協力してくれているのをしばしば見かける。
ただ、そんな天使な態度がどこか作り物めいていると感じている俺もいるわけだが。
「それに……」と安野は俺の眠気で覇気のない瞳を捉えて、こう言った。
「私を見る男の子はみんな下心を秘めた瞳をしています。隙あらば私欲のためだけに私と付き合いたいという考えが透けて見えます。でも和瀬君だけは違いました。多分、あなたは女の私が何をしても一切心になびかないと思います」
「人をそっちの人みたいに言うな」
「そっちって何ですか?」
「なんでもねえ!」
安野は本気でそっちの意味がわからなかったらしく、コテンと首を傾げている。その仕草が線の細い彼女によく似合っていて、不覚にも可愛いと思ってしまった。だからって恋に落ちるかと言われれば、断じてノーだが。
「というか男がみんな下心を秘めているかどうかなんてそんな簡単にはわからないだろ」
それを聞いた安野は微妙に顔を強張らせて、少し語気を強めに主張した。
「わかります!目を見ればわかるんです!」
今の安野から何やら嫌な記憶を思い出すかのような雰囲気を俺なりに感じ取ったので「そ、そうか」と茶を濁すことにした。
彼女は不審ではないが、淡々とした目をこちらへ向けてきた。
「だから気を付けてください。和瀬君はないと思いますが、もし私に変なことしようとしたらあなたの急所の一つや二つが無事では済まなくなります」
「怖えーよ。何でもできるあんたが言うと説得力が増すな。まあ、変なことは断じてしないけどさ」
安野はそれを聞いて少し安心したのか、静かに目を細めた。
気のせいかもしれないが、彼女のその微笑みは普段みんなに見せている作り物めいたそれとは違ったように見えた。
クラスの男子に目を付けられなければいいが、と面倒くさそうに再度、目線を安野に向け直すと、彼女は指をこねくり回して、もじもじしていた。口元も何か言いたそうにもにゅもにゅさせている。
「あ、あとついでですが和瀬君のお喋り相手になってあげてもいいです。いつも一人ですもんね」
「いつもは余計だ。一応クラスに同じ中学の奴いるし」
「…………強がり?」
「断じて違う」
なんだかいないフラグみたいになっているが、本当にいる。ずっと一緒にいるわけじゃないがな。
会話のペースを安野に握られていた感じがしたので、舵取りを奪うことにした。
「まあいいや。一方的に勉強教えられるのも居心地悪いし、ついでだから安野にラノベ執筆のアドバイスとかしてやるよ」
俺の提案を聞いた彼女は小さくぴくっと震えると、視線を彷徨わせてボソッと呟いた。
「それは助かりま……あ、いや、悪くないですね……」
「もしかして執筆の相談が本当の狙いか?」
そう俺が訊くと、安野はハッと我に返り「んんっ」とお淑やかに咳払いし「そ、それもあります……」と言い、シュンとしていた。
笑っちゃいけないが、強がっている姿がとても微笑ましかった。
ただな。
この流れで後に、完璧美少女、安野ひまりにあんなことされてしまうなんて誰が想像できようか。
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