第11話 年上毒舌キャラが弱るのは大好物です
安野の家庭訪問から数日後の授業中での出来事。
「ねえ和瀬君。あなた国語は得意って言ったのにどうして古文の助動詞は覚えていないの?頭いとわろしなの?」
少し低めの落ち着いた声が俺の左耳に吸い込まれていく。
俺の呼び方が和瀬君に戻ってるし、予想通り界人呼びは幼馴染ムーブだったからのようだ。
「うぐっ。いや、俺が得意なのは現代文であって、古文や漢文は管轄外なんだよ」
俺と安野は席が隣同士で一番後ろなので、コソコソと小声でやりとりすることが可能なのである。
それに、進学校の帆波高校では授業体勢に若干趣向が凝らされていて、全部ではないが、時たまペア学習の形を取り、隣の席同士をくっつけるのだ。
そのこともあって、授業中でも安野の毒舌を浴びる羽目になっている。
「なら現代文が得意ですと言うべきでは?正しく言葉を使えてないようだし、現代文もできないんじゃないの?」
「くっ。それは言葉のあやっていうや……ひゃいん!!」
「おいどうした和瀬?急に変な声出して?」
「いや、なんでもないです……」
古文の先生に注意され、教室中が失笑に包まれた。恥ずかしい。
こうなった元凶をちらりと覗くと、彼女は嗜虐的な表情で俺を見据えていた。
何をされたのか。
机の下で周りにバレないよう、安野は黒ストッキングに包まれたなめらかなつま先で、俺のふくらはぎをなぞるようにすうーっと這わせたのだ。
その行動はまさしくいたずら好きな年上って感じで、彼女の挑戦的な目つきも相まって、なんだかイケナイことをされている気分になった。
にしてもよくここまで仕上げてきたな。
最初の頃はひどいものだった。
優しい性格ゆえ、人を悪く言うことに慣れてなかった安野は苦労が多く、年上毒舌キャラを明瞭にイメージし、正確にアウトプットできるまで数日かかった。
初日なんて脅し文句すら言えてなかった。
なんせ、「和瀬君の日直の仕事を全て奪いますが、いいですか?」という文言が脅し文句として成り立っていると勘違いしていたくらいだからな。
一瞬の迷いもなく俺は首を縦に振ったが、そのまま彼女に丸投げするのも気が引けたから、結局一緒に取り掛かったんだけどな。
そんな彼女が今や、普段履いていない黒ストッキングまで着用してきて、立派に罵倒しているのだ。立派に罵倒ってなんだよ。
気持ちを切り替えて、俺は机の上に広げられているノートに視線を落とす。
だめだ。やっぱ古文分からねえ。なんで『なむ』ってこんなに識別対象があるんだよ。
えーっと。これは他者願望の終助詞か、それとも完了の助動詞『ぬ』の未然形と推量の助動詞『む』が合わさった形か。
俺がノートにしかめ面を浮かべていたからだろう。安野が気を利かせて助言を呈してきた。
「あ、それはナ変動詞未然形の活用語尾と推量の助動詞『む』が合わさった形です」
「なるほど、さすが安野だな。助かった」
「いえいえ。お役に立てて良かったです」
安野は自分の教えが上手く伝わったことに満足したのだろう。それはもう穏やかに、慈愛に溢れた微笑を作った。
毒舌キャラ忘れてないか?
そう思った矢先、彼女はハッと我に返ったかのような素振りを見せると、
「こんなのもわからないなんて、知能を吉野ケ里遺跡にでも忘れてきたのかしら?」
と、毒を吹き返した。
「弥生時代にまだ文字はねえだろ」
俺はうっかり者の安野に内心呆れつつ、悪態をついた。
やっぱ毒舌キャラ忘れてたわ。幼馴染とは違い、人を悪く言うことは気を抜くと失念するようだ。
さりとて、授業は無慈悲に進んでいく。
先生は安野の列の一番前の生徒を名指ししたようだ。
すると、その生徒は教科書を開いて、音読し始めた。
なら、安野の順番が来たら読むことになるだろうな。
この古文の先生は列ごとに読ませる癖があるためだ。
まあ、安野が読もうが読まないが、俺に当たるかどうかは関係ないのでどうでもいいが。
俺は頬杖を突き、先生が重要だと言った部分を機械的にマーカーで印づけていく。
そんな風に惰性で作業していたもんだから、たちまち眠気という学生の天敵に意識を蝕まれていくのは必然。
意識ははっきりしないが、かくんかくんと首が上下に揺すられている感覚がうっすら把握できる。
もう意識を授業が終わるまで手放してやろうかと、聞く姿勢を放棄しようとしたときだ。
突然左耳に強い刺激が加わり、一気に眠気が吹っ飛んだ。
「いででっ」
意識はすっかり覚醒して、黒板の前で授業している先生の声や周りの生徒のシャーペンを走らせる音が鮮明に聞こえてくる。
俺が誰に何をされたのかがわかるまでにそれほど時間はかからなかった。
気だるげな眼でじろりと左隣に視線を送ると、やっと起きたかと言わんばかりに待ちくたびれたような表情で、俺の左耳をつねっている安野が。
「こらっ。寝たらダメって言ってるでしょ?」
「わ、悪かったよ……もう寝ないようにするよ」
「それならよろしい」
そう言うと、彼女は姉が弟にするみたいにわしゃわしゃと俺の頭を撫でてきた。先生が黒板に字を書くことに気を取られている隙に。
安野攻めすぎじゃないですか?いくら後ろの席と言っても、周りの生徒がこっちを偶然見てくる可能性もあるからね。
同い年の、加えて学校一の美少女に頭をよしよしされたことと、先生や他の生徒にはバレてはいけないという秘密の関係のせいで、居た堪れない気持ちになった。
俺がドギマギしていると、音読の出番が安野に回ってきた。
「次は安野だな。このページの三行目から読んでくれ」
「はい」
モデルのように、背筋をピンと張った彼女は音読を開始した。
「 いま一人は、東向きにて、残るところなく見ゆ。 白き
さすが成績優秀と言われるだけのことはある。
千年近く、あるいはそれ以上前に使われていたであろう文章を安野はスラスラと読み進めているのだ。
俺はもうちんぷんかんぷんだ。送り仮名があったとしても、ここまで滑らかに言葉を紡ぐことはできない。
尊敬の眼差しを俺が向け始めたのとほぼ同時だった。
あれだけ流暢だった安野が突如どもりだした。
心なしか頬がほんのり赤くなっている。
なんとか絞り出すようにして、言葉を慎重に並べていった。
「な、な、な、 ないがしろにき、着なして、紅の腰ひき結へる際まで……うぇ?う、うそ!?あ、えと……む、む、胸あらはに、 ばうぞくなるもてなしなり……」
安野は声だけでなく、肩もプルプルと震えていた。耳もポッと桜色に染まっている気がする。まるで何かを恥じらうかのように。
急にどうしたんだ?
安野はその後も自分の担当箇所までやけに早口で読み進め、終わると机にガタンっと軽く肘をぶつけてしまうという多少のアクシデントと共に着席した。
もしかして体調でも悪いのか?
俺は心配し、安野にひそひそと声を掛けた。
「おい。大丈夫か?」
すると、彼女から「ひゃんっ」という何物にも代えがたいほど可愛らしい声が教室中に響き渡る。
当然先生が、
「安野どうかしたか?」
と、問う。
「な、なんでもありません……すみませんでした」
と、安野は謝罪をしたかと思うと、すさまじい形相で俺を睨みつけてくる。
「きゅ、急に話しかけないでくださいっ。は、ハレンチなんですかっ?」
「違うんだが」
なぜいきなりハレンチ呼ばわり!?
だが、今の反論具合を鑑みる限り、体調不良というわけではなさそうで良かった。
プイッとそっぽを向いた安野は、授業が終わるまで口をきいてくれなかった。
理由はわからんが、狼狽した様子の彼女にはもはや年上らしい余裕の態度は微塵も残っていない。
ただ、後に安野が取り乱したわけを知ったのだが、その詳細を簡潔に説明すると、
安野が読んだ文の内容が微妙に卑猥だったということだった。
具体的には女の人が服をはだけさせ、胸が見えていたという描写だったようだ。
たかが文章であれだけあわあわと取り乱すことができる安野の純情さに気づいた時、俺は初めて安野の等身大の可愛さたるものに触れられた気がする。
今までも可愛いと思うことはあっても、どこか浮世離れしたというか、自分と遠い存在のように感じていた。だが、今回の件で安野も思春期の女の子らしく、まあ、ちょっと過敏すぎるきらいもあるが、そういった面が垣間見れて、ほんわかと心が和んだのだ。
「安野といるのはおもしろいな」
廊下の窓際での俺の呟きは誰の耳にも届くことはなく、春の陽気な空気に消えていった。
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