第15話 スーツ着て勉強教えてくれてたらそれはもう先生だよね
ホームルームが終わり、放課後に突入した。
いつものように俺は風紀委員室に足を運ぶと、安野は先ほどとは異なる、見慣れない格好をしていた。
フレームの細い眼鏡をかけ、全身スーツを身に纏っている。プラスアルファ、手には先生が授業で使うような指示棒が握られていた。
もしかしなくてもこれって。
「ついでだし先生っぽくしてみたんだけどどう?」
安野は見せびらかすようにくるりと一回転してみせた。
「あー似合ってる似合ってる。で、そのセット家から持ってきたの?」
俺は以前安野の制服エプロン姿を褒めた時、そんなに直球で褒められると思わなかったと言われたのを思い出し、わざとそっけなく感想を口に出した。
「うわー適当なのね。まあいいわ。眼鏡は私物だけど、スーツは生徒から取り上げたものなの」
「スーツ取り上げるってなんだよ」
「前のセットと一緒にあったし」
「同一犯かよ」
安野がSMセットの入った紙袋にビっと指を差す。
ほんと誰だよ、学校にこんなの持ってきたやつ。
俺が知りたくなかった情報にげんなりしていると、安野はフフンと鼻を鳴らす。
「ホームルームが長引いて、放課後の時間が短くなっているわ。さっそく取り掛かりましょうか」
安野が小さく息を吐き、俺はさっさと英語の問題集を広げて、カリカリと解答していく。
わからないところが出れば、その都度安野に質問して教えてもらうというやり方で今までやってきた。
助動詞の文法問題に取り組んでいたのだが、ある問題で躓いてしまった。
He ( )not give up going out,although I told him to many times.
1have 2need 3will 4would
()の中身を埋めろという問題で、日本語訳は『私が何度も彼に言ったのにもかかわらず、彼は外出するのを止めようとしなかった』で、答えは4番らしいのだが、俺にはどうもこのwouldの存在がよくわからないのだ。
「なあ安野」
「何?和瀬君」
「wouldがよくわからん。なんだよ未来形willの過去形って。生類憐みの令を出した徳川綱吉が犬をいたぶってたくらい矛盾してるぞ」
「あーその問題ね。あと、徳川綱吉にそんな事実はないから捏造するのはやめなさい」
隣に座った安野はコホンと咳払いして、丁寧に教えてくれた。
「まずwillを未来の助動詞と捉えるから難しく見えるの。実はwillというのは名詞形で意志という意味も持っててね。そこから意志の助動詞と覚えてしまえばこの問題もわかりやすいんじゃないかしら」
安野はスッと問題に指を持っていく。
なるほど。確かに意志の助動詞の過去形と捉えれば、前にやろうとしていたというニュアンスが感じ取れてわかりやすい。
「結局、意志というのも未来のことだからね。何かをやろうとすることは今ではなく未来のことだし。天気以外で使われるwillは意志の助動詞と思った方がいいかもしれないわね」
やはり安野の教え方はわかりやすいし、実際学校で習わないような視点で解説してくれるから飲み込みやすい。
安野とは成り行きでできあがった関係だが、確実に俺のためにもなっているな。次のテストが楽しみだ。
お礼とかしたほうがいいんだろうか。安野のことだし、気にするなとか言いそうだから直接欲しいものとか聞くのもあれだし。
そんなことを考えていると、安野が「あっ」と声を漏らすと、
「こんなのもわからないなんて生類憐みの令が発令されてたら、あなたは守られないわね」
と、取り繕ってきた。
「いや、忘れてたんなら無理に毒舌にならなくていいから」
別に安野のことを分かった気でいるわけではないが、こいつが人の悪口言うのが苦手ってことは痛いほどわかった。純真かよ。
その後も、安野のお世話になりながら、問題集を進めていって、時刻は一時間ほど経った午後五時半ごろ。
事件は起きた。
「ひっ!」という安野の怯えた声で俺は異常に気付き、「どうした?」と問いかけた。
だが、安野は黙ったままだ。いや、恐怖で喋れないと言った方が正しいのかもしれない。ビクビクと体全身が震えている。
不審に思っていると、その重くなった口をようやく開いたのだが、「あ、あれ……あれがいた気がする……」と蚊の鳴くような声で呟くのみだった。
「あれってなんだよ……」
「な、私にその名前を言わせないで!口にするのもお、おぞましいよぉ……」
何が安野を駆り立てているのかわからないが、語尾が急激に可愛くなってて、オタク心をくすぐってくる。
なんだかわからないけどナイス!
と気楽なことを思案できたのはほんの一瞬で、俺自身もあれの姿を視認した刹那、身震いした。
黒いのがいた。
距離およそ五メートル、壁を縦横無尽に駆け回っている。
安野もそれを認識し、思い切った行動に出てきた。
「きゃあああああ!!」
と叫んだかと思えば、なりふり構わず抱きついてきた。
「うおっ!」
黒いのと抱きつかれたことの二重の驚きが俺の精神を襲った。
「ひゃあぁぁぁぁぁ……い、いやぁぁぁむ、むりむりむりぃぃぃ!!!」
「ちょ、苦しい。首閉まってるって!」
ここまでされて気づかないわけがない。安野は黒い虫(命名:コクチュウ)が大の苦手なようだ。
かくいう俺も得意ってわけではなく、できるなら近づきたくないと思っている。
第三者として遠くから眺めているだけなら「コクチュウのでんこうせっかだ」とか言ってふざけられるのに、いざ限られた空間で自分が相対するとゾワゾワするのはなぜだろうか。
あれか。街で不潔なおっさん見てもなんとも思わないが、自分の部屋におっさんいたら怖くなるのと一緒か。一緒か?
とまあこんな風に現実逃避するくらいには俺も焦ってはいる。
「わ、和瀬君。早く消失させてきて……」
「消失させるって……」
混乱して語彙力がオーバーヒートを起こしているようだ。プシュップシュっと頭がショートしている音が心なしか聞こえる。
とはいえこのままというわけにもいかないので、俺は安野から手渡された乗馬用のムチを片手にそいつがいると思われる場所にそろそろと赴く。
てか、細いムチで倒すの絶対難しいだろ。俺も冷静じゃなくなってたわ。
一歩、また一歩と徐々に距離を縮めようと試みるが、それを安野がギュッと俺の袖を引っ張ることで阻止した。
「いや、そうされたら退治しに行けないんだけど」
「こ、怖いからここにいてよぉ……」
泣きそうな目で、まるで捨てられた子犬みたいに甘えたことを言う安野は正直言ってめちゃくちゃ可愛かった。
こんなの教室じゃ絶対見せない顔だ。
でも、退治しに行けとも言うし、ここにいろとも言う。俺にどうしろと?
俺が逡巡していると、神出鬼没なコクチュウは果敢にも俺たちから二メートルも満たない近距離の床まで詰め寄っていた。
「あわ……あ……い……あわわ……あ……」
と、俺の後ろでは声にならないうめき声をあげて震えている安野が。
射程圏内。やるなら今しかない。そう覚悟した俺は勇気を出して、そのムチを振るった。
そして確実に捕らえた感覚。やったという感触が達成感と共に全身を駆け巡る……前に音に怯えた安野に強く引っ張られて、俺たちは体勢を崩してしまった。
どさっと、コクチュウとは逆方向に倒れたのは幸いだった。
しかし、反動で俺が安野を押し倒したかのような体勢になっていた。
「ふぇ?」
先ほどまでの恐怖と怯えがまだ残っているのだろう。彼女の震えた唇からは気の抜けた言葉しか出てこなかった。
仰向けの安野を上から覆いかぶさるようにして見下ろす状況は、風紀委員室の静けさも相まって、言い知れぬ背徳感を俺の胸中に流し込んでいた。
安野の瞳に自分の姿が映っていることに気づく。安野の視界に俺しかいないのではと想像してしまい、緊張で余計に体が動かなくなった。
何秒間そうしていたのだろう。何度俺は唾を飲み込んだだろう。
そして、安野の顔が羞恥で赤くなったことに気づいたのは果たして何秒後のことだったのだろう。
お互いの瞳にお互いしかいないこの状況を打破するきっかけになる発言を先にしたのは安野の方だった。
「は……早くどいてくれる?」
「お、おう。悪いな……」
そう言われて、俺は石化の魔法が解けたように身体の自由を取り戻し、ゆっくりと立ち上がった。
それから、コクチュウの後処理はちりとりを使って完遂し、帰るだけとなった。
「じゃ、じゃあな」
「うん……また……」
なんとなく気まずくて、自然と別々に帰路に就く。
校舎の窓から見えた夕焼けはいつもより赤々と輝いているように見えた。
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