第22話

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 季節は五月から六月に変わり、一層梅雨時期の独特の湿気が法衣の下で蒸れる時期になった。

 蓮池法主は朝の御勤めを終えると、茶を喫して、自分あてに届けられた便箋に目を通した。

 先月の夜、四天王寺ロダンの訪問を受けた蓮池法主は着衣もそのままに軽装の法衣姿のまま坂下の長屋へと向かった。

 今その時の事を思い出している。



 つるりとした頭を撫でるように吹く風の中に坂下の石造りの階段を下りる二人の下駄音が良く響いていたのを今も覚えている。

 それから前を行く、縮れ毛のアフロヘアの若者の背に何度も何度も念を押す様に言った。

「大丈夫なんでしょうな?それは本当に」

 その度に背が振り返り、言うのである。

「勿論、大丈夫でさぁ、蓮池法主」

 それを何度も繰り返すうちに門を潜り、長屋に着いた。

「さぁ、法主」

 若者の声に下駄を脱ごうとすると「あっ!!」と声がした。

「どうしたんです?ロダンさん」

 その声がどこか急を告げるような声音だったので、蓮池法主は不安を駆り立てられた。

 目の前にいる若者は下駄を急ぎ脱ぐと脱兎のごとく走り出した。しかし直ぐに降りて来ると法主の側を抜け、隣長屋へ向かうと玄関を叩く。

「田中さん!!田中さん!!」

 返事は無かった。首を回すが明かりは点いていなかった。

「ど、どうされたのです」

 法主が不安げに声をかける。

「いやぁ…、まさか…、逃げるようなお人ではないとは思っていましたが…」

「逃げる??」

 法主は声を荒げた。それが一番恐れていたことなのである。

「ロ、ロダンさん!!まさか逃げたとでも???」

 若者の襟首を掴まんばかりの勢いで詰め寄る。

 若者は縮れ毛のアフロヘアを勢いよく掻きまわしたが、突然先程と同じように「あっ!!」と声を上げると、突然長屋の奥へと走り出した。その声を追うように法主も法衣の裾を捲り後に続く。狭い路地の道に互いの下駄音が響く。

 走り出すや、二人は路地のL字の角を曲がると、水かけ地蔵の前で立ち止まった。

 薄暗い蝋燭の火の中で影が揺らいているのが二人には見える。

 若者は影に声をかけた。

「田中さん…」

 それはそこにいる男の心を乱さない様、静かに落ち着いた声音だった。

 その声にゆっくりと影が振り返るのが分かった。蝋燭の揺れる炎の明かりが影に当たり、そこに男の表情を浮かべた。

「田中さん…」

 一歩、若者が足を進めると、田中の側に腰をかがめた。

「拝んでらっしゃったんですね」

 小さく縦に顔が動く。それを見てロダンが言う。

「お母様ですね。この地蔵の下で眠る」

 蝋燭で揺れる炎が、男の顎が縦に惹かれるのを照らし出す。

 それを聞いて、ロダンが蓮池法主の方を振り返った。

「法主、ここにいらっしゃるのがあの隠し子、いや疑念の子と言った方がいいですかね、その良二君です。それからこの水かけ地蔵の下で眠るのが…、この良二君の母親、佐伯百合です」

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