第8話
(8)
「ちょいと…すんません」
言ってから四天王寺が腰を下ろす。見ると手を伸ばしてベルボトムの裾を捲りあげている。
巻き上げると下駄の底打つ音が鳴り、曲げた裾がピタリと止まった。
「いや、やはり暑くて堪りませんねぇ。ベルボトム何て今どき誰も履いちゃいない。しかし劇で七十年代とか表現しようとすると、こうした衣装が無いと困りますからねぇ」
彼は言ってアフロヘアを撫でる。
しかしながら妙なミスマッチ感が何ともこの人物の毛並みというか、臭いを感じさせる。
縮れ毛アフロにTシャツと捲り上げたベルボトムの先から覗く下駄。
どこか本当に売れない芸人か作家のような風貌である。
それが先程から悩み深く僕と一緒に『三四郎』とにらめっこしている 。
ふと僕は暖簾から外を覗き見る。見れば遠く大阪湾に沈む夕陽が見える。
ここは古代、台地として海から突き出ていた。
僕は思う。
ここから眺める夕陽も現代に生きる僕等が眺める夕陽も幾分か違いはあるだろうか?
ちょっとばかり大きな建築物ができて空が見えにくくなった以外、この人間の棲まう世界に沈む夕陽に過去と現在とどれほどの違いがあるのか?
「何も違いはないですねぇ…」
思いの外から消えた四天王寺の声に振り返る。
「別段、今のやつと違いませんね」
四天王寺は自分の財布から取り出した銀行カードと『三四郎』に挟まれていた銀行カードを立ち飲み台の上で見比べている。
うーん、と頭を掻いて僕を見る。
「田中さん、何も違いませんね」
目をしょぼしょぼとさせている。
僕は彼のしょぼくれた目に合わせて言う。
「違わないだろう?これ今現在も営業している都市銀行のM社のカードでからね。ちょっと古い奴だけど、僕の田舎の母もこれを使っているからね」
四天王寺が顔を向ける。
「ちなみに田中さん、どちらの出身で?」
「僕…?僕かい?」
僕は押し黙る様に小声で言う。
「四国さ、沢山県境が跨るような山深いところだよ。就職で大阪に出てきたんだ」
へーと四天王寺が頷く。
「そいつは凄い。ちょっと昔、僕もね、原付で四国を旅してましてね。そのあたりを通ったことがありますよ。山深いところで、もう日本の原風景みたいなところでしたね」
僕はそれ以上何も言わず、頷く。
「まぁ…、山深い田舎ってことにしてくれ」
ビールをグイっと一気に飲む。
「ところで君は?」
「僕?僕はここですよ。大阪です。生まれも育ちもね」
「そうかい。都会生まれか」
「まぁ、そうですね」
四天王寺が頭を掻く。
「ほら苗字の通り、四天王寺生まれって奴です」
少し笑いながら僕は答える。
「へぇ、妙な苗字だけどそれが地名だったとはね」
それから四天王寺は頭を掻き、僕に言った。
「そうそう、田中さん。僕はこちらよりちょこっと南の方には親戚なんかも多いものですから・・そのぉ」
「何だい?」
「苗字で呼ばれると直ぐに分かっちまうんです。だから下の名で呼んでくれると嬉しいんですんが…」
「下の名?」
「ええ、ロダンって。これから」
「そう?」
「そっす」
再び頭を掻く。
(なんで苗字じゃダメなのさ)
と、問いかけようとしたが、そこには彼の事情があるような気がして押し黙った。もしかしたら何かその苗字では彼には差し障りがある様に察した。
だからかもしれない。
「まぁ…、親父がねぇ、ちょっとばかり道楽が激しくて…まぁそこらへんが賑やかだったんすよ」
黙る僕に気を使ったのか話し出そうとしたので、僕はそれを目で押さえた。
「まぁいいよ。それ以上聞かないさ、四天王…いや、ロダン君」
彼がぺこりと頭を下げる。
思わず、笑いが出た。
「まぁいいさ。都会に棲まう者同士。互いに何とやらだ」
言い終わるうちに彼が僕のグラスにビールを注ぐ。
「すいやぁせん」
股旅者のような、どこの国ともつかぬ訛りで僕をくすりと笑わせる。
今度は僕が彼のグラスにビールを注ぐ。
そのビールの表面に大阪湾に沈む夕陽が映った。
それを彼が夕陽も一緒にぐいと喉奥に流し込む。
それから一気に息を吐いた。
彼がビールの表面に映った夕陽に気づいたどうかどうかわからないが、呑み込んだ夕陽の味を味わうようなどこか懐かしい眼差しをして、飲み干したグラスをそっと置いた。
「本当にこの銀行カード、何も違いませんよねぇ。それに…」
ロダンが首を傾げて俯く。
「195ページに「――数回に分けられた入金額の意味を内縁の妻であるお前がわかるか、今の私では分からない。これは賭けでもある」とあります。例えこのカードの暗証番号が分かって確認しても残金の合計だけしか分かりませんから、これって本当に通帳が無けりゃさっぱり分かりませんよね」
僕もそうだと言うように頷く。
「賭けって…『女』に対してもそうだけど、これを見つけてですよ、田中さん。謎を解いてやろうという者にとっても解けるかどうかの『賭け』を両方に暗示させてますよねぇ」
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